メッセージ。 - 仕事とは何か?

# 仕事とは何か?

以前、はてなの近藤さんがシリコンバレーに進出した。あるいはインフォテリアの江島さんがシリコンバレーでLingrを立ち上げたりした。そもそもベンチャー的な試みは、日本国内にせよ海外にせよ、成功するのがかなり難しいと思うけれども。ただそういった難しさとは別に、彼らのような日本人が、シリコンバレーに行って成功することそのものにも、ある種の難しさがあると思っている。その難しさは、「仕事とは何か?」という問題と密接につながっている。

はてなはそもそも、社長の近藤さんが「ネットのことは全然分からない自分の父親のために、ユーザーどうしが質問と回答でコミュニケーションできるサービスを作りたい」という発想から始まったのだという。その試みは「人力検索はてな」というサービスとして結実し、現在も動いている。「人力検索はてな」自体、それほど成功しているとは感じないけれども、でも最初にそれを作ろうと思った発想自体は、「成功」にとって重要な要素だろうと思う。

どのような商品を作るときもそうだけれども、ものを作って売るということは、「こんな人の生活をあんな風に良くしたい」というビジョンがなければならない。ウォークマンは、「外出しているときも好きな音楽を聞きたい人のために、自由に聞けるような小さなプレイヤーを開発する」というビジョンから開発、商品化された。稲を育てる人は、それを精米し、炊いて食べる人たちのことを考えて田を耕している。

どのような商品もサービスも、誰かの、何かの、役に立つために提供される。そういった「ビジョン」にブレのない商品は、高く評価される傾向にある。たとえばiPodは音楽好きな人たちに「一段上の楽しさ」を提供したし、任天堂のファミコンは、コンピュータという新しくて偉大な発明品を子供たちの身近に届け、「コンピュータで遊ぶ楽しさ」を提供した。トヨタの自動車の評価が高いのには、「それほどメンテナンスしなくても故障せずしっかり走ってくれる」という基本性能の高さが少なからぬ要因だと考えられる。

商品やサービスが開発され提供されるとき、それがビジネスとして成功するための1つの要因が、「誰のどんな役に立つか」というビジョンだと言えるだろう。そしてこの法則が適用されるのは、企業だけに限らない。一個人にとっての仕事というものも、「誰のどんな役に立つか」が考えられているとき、成功に一歩近づけるのだと、ぼくは考えている。ゲームクリエイターは、そのゲームが誰の生活をどんな風に変えるか考えたときに、良いゲームを作るヒントになるだろうし、米農家は「誰がどんな風にしてそれを食べるのか」を考えるからこそ、「強すぎる農薬は使いすぎないほうがいい」と考えられる。

このような法則は、消費者の側から見たときの「そうであるべき」都合だけれども、また同時に生産者にとっても、仕事というのは「そうであるべき」都合と考えていいのではないかと、ぼくは思う。つまり、ゲームクリエイターはユーザーが自分の作ったゲームを楽しんでくれるほうが嬉しいし、米農家は自分の作った米を誰かが食べて健康に暮らしてくれるほうが嬉しいと感じるはずだ。生産者にとっても、消費者にとっても、商品やサービスというものは、「誰かの何かの役に立っているか」を考えて提供されていることが「良い」ということだ。

少なくともぼく自身にとっては、仕事というのは「誰かの何かの役に立っているか」を考えずには行えない。誰にも何にも役に立っていない仕事なんてものは、ぼくには堪えられない。そんなのは時間の無駄であり、人生の無駄だと思ってしまうからだ。こういう風に感じるのは、ぼくだけなんだろうか? よく分からない。でも、ぼくと同じように感じる人だって、たくさんいるはずだと思っている。いや、もっと言ってしまえば、人間は基本的に、そういう風に感じる傾向があるのだと考えたい。そう考える。

そう考えるぼくは、近藤さんによるはてなのサービスや、江島さんのLingrがシリコンバレーで開発・提供されると聞いたときに、それが成功する要因という意味で、一歩不利な立場にあるのではないかと感じていた。つまり、彼らがシリコンバレーで何かを作ったとして、そこには一体、「誰のどんな役に立つ」というビジョンがあるのだろうか。いやもちろん、彼らの作るものにビジョンがないなんて言うつもりはない。でもたとえば、近藤さんはシリコンバレーでサービスを作ったとして、「これ使ってみてよ」と、誰に向かって言うんだろうか。胸を張って、「これが貴方や、貴方のお母さんや、あなたの子供たちの生活をきっと変えますよ」と言えるだろうか。

それはちょっと難しいんじゃないかと、ぼくは思う(不可能と言ってるわけじゃない)。はてなの近藤さんにとって、人力検索を開発・提供する動機が彼の「お父さんにインターネットの素晴らしさを感じさせてあげたい」という気持ちであったように、同じような気持ちを、英語圏の人たちに対して持てるだろうか。シリコンバレーや英語圏に生活している人たちが、どんな風に日々を過ごし、どんなことに困り、自分は彼らの未来に対してどんな風に貢献できるか、貢献したいかをイメージし、彼らのために身を捧げることができるだろうか?

もしぼくだったら、難しい気がするんだよね。アメリカやインドやアフリカやいろんな国。そういった国にいる人たちに対して、ぼくは「こんなことをしてあげたい、してあげられる」という具体的イメージを、うまく持つことができない。もっと範囲を絞ってシリコンバレーにぼくが行ったとしても、彼の地やその周辺にいる人たちに「こんなことをしてあげたい、こんなことをしてあげたらきっと彼らの生活が良くなるぞ」と思えるようなことを、ぼく自身がうまくイメージできないし、できる能力があるという自信も、なかなか持つのは難しい。それは、彼らの生活を実際のところ知らなかったり、向こうに友達や家族がいないことに起因する(あと、自分の能力やそれが本当に役立つか)。

要するに、シリコンバレーに行って仕事をするというのは、シリコンバレーに友達や家族や隣人を持つということだ。そして仕事というのは究極的に、友達や家族や隣人のために身を捧げ、彼らとともに生きるというということだ。だからぼくは、シリコンバレーで仕事をするというのは、不可能ではないけれども、1年や2年ぐらいで成功するのはけっこう難しいんじゃないかと思う。1年ぐらいでは、友達や家族や隣人を(深いレベルで)作ることが難しいから。いま住んでいる場所(日本)を捨てるぐらいの覚悟が必要なんじゃないかな。
2009-06-01 21:51:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

Comment

コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。