メッセージ。 - 違うことと同じこと

# 違うことと同じこと

先日、親戚の集まる機会があって、そのときうちの親父がこんなことを言っていた。

 うちの子供たちが小学生のころ、学校にクーラーが備え付けられていると聞いてびっくりした。ぼくらのころは、クーラーなんてとんでもなかった。だから、小学校にクーラーがあると聞いて心底びっくりしたんだ。そしてこう思った。「ああ、暑さや寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と。

それを聞いたぼくは、「なにをまた馬鹿なことを言ってるんだ」と思ったのだが、そのときはうまく反論できなかった(このパターン多し)。それで、しばらくこのことについて考えていて思ったこと。

ぼくが思うのは。あなた方が子供たちに対し、「ああ、暑さや寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と見ているならば、その瞬間、またあなた方世代も同様に、「ああ、涼しい職場で仕事をして、暑さ寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と思われているということだ。

そうして同様に、汽車ができたときは「歩くことをやめた世代」が、電灯ができたときは「眠ることをやめた世代」が生まれてきた。……ということになるだろう。でも、そうだとするならば、ずっとずっとそれは続いてきたことなんだ。古い世代は若い世代を見て、「彼らは自分たちとは違う、新しい世代だ」と感じ続けてきたということになる。

しかし、だとすれば、そうだとすれば、そんなことに感嘆することに、どういう意味があるだろう。その感嘆のもととなったものは、「人類は歩みを続けているのだ」、「時間は進んでいるのだ」、「いまは近代だ」という感嘆なのだろうか? それならばいい。それならば、ぼくも共感できる気がする。でもぼくにはどうも、そうは感じられなかった。

「新しい世代が、自分たちとは違う存在だ」という指摘は、事実なんだろうか。事実だとしたら、実際「どう違う」のだろうか。違うからどうなんだろうか。なにが問題なんだろうというか、そこに差異を見出して、そこに線引きをして、いったいなにをしようというのだろうか。それがぼくには、よく分からない。

レトリックを少し取り除いてみれば、人類は、暑さ寒さを100%我慢しなくてよくなったわけじゃない。電車や自動車があっても、歩くことなしに人間は生きられないし、どんなに科学が進歩しても死は免れない。どんな強国の王様だって、風邪を引けばしんどいのだ。では本当に、そこにはどんな違いがあるのか。なにが違って、なにが同じなのか。

実際のところ、人がなにに感嘆しようが、ぼくには文句を言う筋合いはないし、なにかを説得したり、伝えたりするつもりもない。人間は多様だから、それぞれ好きなことを言い、好きなことに感嘆して生きればよい。誰のうえにも時は流れている。悠久の時間。
2010-06-24 09:39:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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