メッセージ。 - 性とか恋愛ってなんだろう
# 性とか恋愛ってなんだろう
挿入は要らない|自分の中の、同性愛と性行為についての考察 - ニャート
これ(↑)は分かる。ふんふんなるほどと思うんだけど。
なんでこうなるんだろう。まず、「恋したい」というのがよく分からない。恋をする前提は、外せないんだろうか。
「次がまたある」という暗黙の前提はどこからやってくるんだろうか。
そして、「その人個人に」という部分。本当にその人個人を見るんだったら、別に相手が男性でも女性でもよくなくない?いや、前提条件としてこの文章には「可愛い女の子を見て、とにかく幸せな気分になる~」といったくだりがある。だから、はなから男性は選外になっているのだろう。
しかしその時点で、「その人個人」というよりも「甘くやさしい女の子らしさ」という属性に惹かれているのではないか。その人個人の中身よりも、身体的特徴が主たる対象になっているのではないか。たとえば、最高に気の合う人がいたとしても、「甘くやさしい女の子らしさ」を持ち合わせていない人だったら、どうなるんだろうか。
つまりそれが、「性欲」というものなのかもしれない。相手の人の中身ではなく、身体的特徴を欲望してしまう、消費したくなってしまうということなのかもしれない。「いや、そこはそうじゃないんだ。『甘くやさしい女の子らしさ』という前提条件は外せないけど、その先はどっぷり中身なんだ。中身しかないんだ」ということなのかもしれないけど。
「性」とか「性欲」というものを考えたとき、結局のところは人間の入れ物である身体、動物・生物の生理反応以上のものであるのだろうか?「いや、人間には心があるのだから、動物・生物の生理反応に影響を受けつつも、それを超えた心的つながり、精神の無辜なる友愛を生じせしめ、永遠という神を欲し追究する究極の美学なのだ。つまり、動物とは違うのだ」ということなのだろうか。しかし、やはり「欲」というからには、自己の生存こそがその存在理由であり、友愛や美学からはだいぶ遠いのではないかと思う。
個人的に、性欲とか恋愛というのが、よく分からないんだよな。
たしかに、これは幸せなんだろうと思う。しかし、これが最終的で究極的な幸せなんだろうか。イチャイチャして、ただ一緒に眠る。それは、性欲を満たすのには、あるいは恋愛を成就させるという点ではゴールなのかもしれない。しかし、性欲を満たせれば、あるいは恋愛が成就できれば、それが幸せなんだろうか。心が満たされるんだろうか。
「恋をする」というのがゴールや前提になっている意見はけっこうよく見かけるけど、本当にそうなんだろうか。それこそラベリングじゃないんだろうか。「いや、そんなことはないんだ。私の中のゴーストが囁くのだ」ということなのかもしれない。だったらそれでいい。
ただ、ぼく自身には本当に分からなくて。恋愛とか性欲とか、いやそれ以前の基本的な人間関係、社会関係というのが、ぼくにとってはものすごく難しいものに感じられる。理想や希望が遠すぎて、悲しいほどみじめな現実だけが手のひらにあるという状態で。人生なんてのは、思ったとおりには行かないもんだ。何一つ思うとおりには行かない。
でも。思う通りに行くことがすべてではないとも思う。簡単すぎる問題を解くのはつまらないように、簡単すぎる人生を生きるのもつまらない。また、思ったとおりでない結果が、案外悪くなかったりもするものだ。いずれにせよ、現実をまず受け容れること。そして、現実は少しずつでも、少しずつなら変えられると信じること。そういったことをつねに思っている。そして、そういった話をたまにでもできる友達がいて、この美しい世界をともに散歩でもできればうれしいなと、ただ思うのだ。
だけど、自分を「同性愛者」だとラベリングはしない。ラベリングすることで、また不自由になってしまいそうだからだ。自分の性愛のあり方を、ただ素直に受けとめる。私は私。
これ(↑)は分かる。ふんふんなるほどと思うんだけど。
次こそは、その人個人に恋したい。
なんでこうなるんだろう。まず、「恋したい」というのがよく分からない。恋をする前提は、外せないんだろうか。
「次がまたある」という暗黙の前提はどこからやってくるんだろうか。
そして、「その人個人に」という部分。本当にその人個人を見るんだったら、別に相手が男性でも女性でもよくなくない?いや、前提条件としてこの文章には「可愛い女の子を見て、とにかく幸せな気分になる~」といったくだりがある。だから、はなから男性は選外になっているのだろう。
しかしその時点で、「その人個人」というよりも「甘くやさしい女の子らしさ」という属性に惹かれているのではないか。その人個人の中身よりも、身体的特徴が主たる対象になっているのではないか。たとえば、最高に気の合う人がいたとしても、「甘くやさしい女の子らしさ」を持ち合わせていない人だったら、どうなるんだろうか。
つまりそれが、「性欲」というものなのかもしれない。相手の人の中身ではなく、身体的特徴を欲望してしまう、消費したくなってしまうということなのかもしれない。「いや、そこはそうじゃないんだ。『甘くやさしい女の子らしさ』という前提条件は外せないけど、その先はどっぷり中身なんだ。中身しかないんだ」ということなのかもしれないけど。
「性」とか「性欲」というものを考えたとき、結局のところは人間の入れ物である身体、動物・生物の生理反応以上のものであるのだろうか?「いや、人間には心があるのだから、動物・生物の生理反応に影響を受けつつも、それを超えた心的つながり、精神の無辜なる友愛を生じせしめ、永遠という神を欲し追究する究極の美学なのだ。つまり、動物とは違うのだ」ということなのだろうか。しかし、やはり「欲」というからには、自己の生存こそがその存在理由であり、友愛や美学からはだいぶ遠いのではないかと思う。
個人的に、性欲とか恋愛というのが、よく分からないんだよな。
好きな人とイチャイチャしながらお風呂に入った後、あたたまった身体にやさしく触れて、特に達することなくただ一緒に眠れたら、どれだけ幸せだろう。
たしかに、これは幸せなんだろうと思う。しかし、これが最終的で究極的な幸せなんだろうか。イチャイチャして、ただ一緒に眠る。それは、性欲を満たすのには、あるいは恋愛を成就させるという点ではゴールなのかもしれない。しかし、性欲を満たせれば、あるいは恋愛が成就できれば、それが幸せなんだろうか。心が満たされるんだろうか。
「恋をする」というのがゴールや前提になっている意見はけっこうよく見かけるけど、本当にそうなんだろうか。それこそラベリングじゃないんだろうか。「いや、そんなことはないんだ。私の中のゴーストが囁くのだ」ということなのかもしれない。だったらそれでいい。
ただ、ぼく自身には本当に分からなくて。恋愛とか性欲とか、いやそれ以前の基本的な人間関係、社会関係というのが、ぼくにとってはものすごく難しいものに感じられる。理想や希望が遠すぎて、悲しいほどみじめな現実だけが手のひらにあるという状態で。人生なんてのは、思ったとおりには行かないもんだ。何一つ思うとおりには行かない。
でも。思う通りに行くことがすべてではないとも思う。簡単すぎる問題を解くのはつまらないように、簡単すぎる人生を生きるのもつまらない。また、思ったとおりでない結果が、案外悪くなかったりもするものだ。いずれにせよ、現実をまず受け容れること。そして、現実は少しずつでも、少しずつなら変えられると信じること。そういったことをつねに思っている。そして、そういった話をたまにでもできる友達がいて、この美しい世界をともに散歩でもできればうれしいなと、ただ思うのだ。
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