メッセージ。 - にゃー

# にゃー

近代資本主義化によって、日本の経済は成長し1980年代に頂点に達した。その頂点に至る間人口は増え続け、産業を高次にシフトさせ、第一次産業を毀損してしまった。

しかしその後通貨高や他の国の近代資本主義化によって日本経済は頭打ちし、長い長い経済縮小期を迎えた。春があれば秋があるように、夏があれば冬があるように、成長の蔭には縮小があった。

経済成長というのは、もちろん良いことなのだろう。楽しいことや嬉しいことをたくさんもたらしてくれる。しかし一方で、過大な成長はのちの縮小ももたらす。それは屈辱や苦しみ、死を意味する。

一体全体、経済というものは、無限に成長するものなのだろうか。たしかに、農作物や畜産資源は、特定の環境下にあるとき倍々に増える能力を有する。技術は進歩を続ける。そして資本力は増大する。

だが経済といった観点ではどうだろう?経済はずっと成長を続けるだろうか?そうではないのではないか。あるいは社会。社会はずっと成長し続けるものだろうか?社会にとっての成長とはなんだろう?

人口が減っている社会は成長しているのだろうか?縮小しているのだろうか?そもそもなぜ人口は減っているのだろうか?

かつての日本の封建社会は、あるいは現代にも通じる社会的性向では、技術革新よりも社会性が重視される傾向にある。技術者や専門家の地位は低く、サービスがそれを支配する。開発部門よりも営業部門が偉い社会。

それはまるで、技術の進歩により人間が神に近づくことを怖れ諌めているかのようだ。日本人は基本的に自然崇拝であるが、自然の延長線上にある科学技術をある点では馬鹿にしているか、あるいは下に置こうとする。

農耕文明、太陽崇拝においては、持続可能性こそが無上の価値であり、社会や人はそのフレーム内で日々を過ごすだけというような考え方が、日本人の心のうちにプログラミングされているのかもしれない。ある意味普遍的で、ある意味刹那的な価値観。
2018-07-05 09:18:26 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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