メッセージ。 - にゃー

# にゃー

アメリカのバイク好きの中に「ラット」という流派があると、その昔聞いたことがある。ラットというのはネズミのことだけど、彼らのバイクはドブネズミのように汚いという。油で汚れたボロ切れが巻いてあったり、パーツは日に焼け、埃をかぶり、錆びてボロボロになっている。誰が見ても「捨てられてるんだな。放置バイクだ」と思うような状態なのだけど、そこに持ち主がやってきてエンジンをかけると一発で始動するという。見た目はボロだけど中身はバッチリメンテされてるんだぜっていう。

恥ずかしいってことでいうと、ぼくは「(自分が)恥ずかしいかどうかは自分で決める」と思っている。通常、恥ずかしいという感覚は、決めるものでなく感じるものだ。なんとなく自分だけ人と違って恥ずかしいとか、忘れ物をして恥ずかしいとか、自分だけできなくて恥ずかしいとか。そういう風に感じているのは誰なのか。自分なのか。自分だとしたら、なぜ自分はそれを恥ずかしいと感じるのか。客観的に見て、自分に瑕疵があるのか、逆に自分だからこそやれることだってあるんじゃないか。本当に「自分」がそのすべての責を負い、責められるべき事柄なのか。「自分」の範囲はどこからどこまでか。

恥ずかしいと感じる感情は、他の人と比べたときに発生する。他の人ができていることが、自分にはできないとか、他の人が皆同じなのに自分だけ違うとか、本来こうすべきなのにできていないとか。だけど、猫も猿も鳩も裸だ。お金持ちや顔の良い人がいる一方で、全然そうでない人もいる。太った人もいれば痩せた人もいる。若い人もいれば年老いた人もいる。そういった状況のなかで、何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないのか。いったい誰と何を、何のために比べるのか。
2019-07-31 21:00:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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