メッセージ。 - にゃー

# にゃー

先日、テレビで『借りぐらしのアリエッティ』をやっていたので見てみた。内容は「最高に面白かった」というほどではないけど、悪くはない。「まぁまぁ面白かった」ぐらいかな。

ストーリーとしては、人間の生活の近くに隠れ棲む小人の家族と薄幸の人間の少年のふれあいを描いている。小人の家族は言葉を話し、前近代的な文化程度の生活を送っている。日夜危険を犯して人間の家に潜入し、生活物資(ティッシュペーパーとか砂糖とか)を拝借して暮らす彼ら。

自らの生活を「借りぐらし」と呼んでいるが、その生活実態は狩猟に類似していて、「狩り」と「借り」をかけていることが分かる。また、小人たちは絶滅の危機に瀕しているらしく、家族以外の仲間がこの世界に生存していることを知らず不安がっている。

ジブリ作品だけあって自然風景の描写が非常に美しい。面白いなと感じたのは、人間の暮らしを小人の視点・スケールから眺める描写。巨人(小人からみれば人間は巨人だ)の家に、危険を犯して潜入し狩りを行うシーンに迫力があり楽しかった。また、主人公は父親からようやく借りに出ることを許された年頃の女の子で、大人への階段を踏み出す心情もまた、観ているものを惹き込む。

ところで、ぼくは結構映画を観たあとで、ネットのレビューを読んでみたくなる。他の人も同じように感じているのを見るのはうれしいし、自分では気付けなかった視点や発見を得られるのが楽しいからだ。けれども、ネット上の映画レビューを読むと落胆することも多い。自分にとって面白いと思った作品や、逆につまらないと感じた作品に、真逆のレビューがついて、予想もしない点数になっていることが多いからだ。

別に、他の人がどう感じようがそれは自由だし、自分の感じ方や感想が正しいなどというつもりは毛頭ない。ただ、他の人が意見をいっているのを見ると、思っていた以上に世界が多様で、自分とは異なる考えの人がたくさんいることを目の当たりにして、なんとも言えない気持ちになるのだ。

たとえば子供のころ、ウルトラマンや水戸黄門や暴れん坊将軍やタイムボカンシリーズのようなテレビ番組をよくやっていた。それらの勧善懲悪ものは、毎回ワンパターンで、ある意味で平和だった。善が悪を倒す。善には優しさがあり、話せば分かるという感覚があり、義があった。いまのように、何が善で何が悪か分からないとか、正しさは人それぞれであるとか、わかり会えない人がいるとか、世の中にはいろんな善があるとか、そういうものはなかった。

『借りぐらしのアリエッティ』に話を戻す。今回見たレビューの中に、小人たちのことを怒っている人がいた。小人たちがやっていることは泥棒だと。砂糖やティッシュペーパーを盗られるのは嫌だと。

だけれども、小人たちが持っていくのは一晩に角砂糖の1個とか、ティッシュペーパー1枚とかなんだよ。そんなちょっとのこと、別にいいじゃんというのが、主人公の小人に感情移入したぼくなんかの感想なんだけど、そうじゃない人もいるのだ。そして、別に「そうじゃない人」が悪いというわけではない。世界は実際のところ多様なのだろう。かつてぼくがウルトラマンや水戸黄門なんかを楽しんでいたシンプルな世界観のほうが、現実離れしているのだろう。仕方がない。どうしようもない。たぶん。

たしかに、小人たちは自らのことを「借りぐらし」と呼んでいるのだけれども、その一方で「返す」ということについては一言も言及がない。一般的に言って、借りたものは返さなければいけない。でも、彼らには返すという言葉や行動が見えなかった。なぜなのか。

それはたぶん、「借り」イコール「狩り」であるからではないか。狩猟民族は、羊やアリクイや猿やワニなど、いろんな生き物を狩って暮らしている。それはたしかに、自然の中から命を借りていることと等価だ。我々は、「狩られるもの」の同意を得て彼らの命をいただいているわけではない。彼らの同意を得ずに、こちらの一方的な意思で彼らの命を奪っている。我々は、日々の暮らしのなかで、ほかのものの命をいただいて生きている。そしてそれは、簡単には返すことができないものだ。

いったいこの状態を、何と表現すればよいのか。誰も「自分は泥棒であり強盗だ。今日も1つの命を奪った」などとは公言しない。なぜだろう?本当は皆、この状態を心苦しく思っているのか?この苦しみを、誰も言わないだけなのか?ぼくにはよく分からない。人間たちは日々多くの情報をネットワーク上で受発信しているが、そういった情報は単純集計で0.1%にも満たないのではないか。その意識や理解すらない人もいるようにさえ思われる。

そういった状況のなかで、自分たちの生活のことを「借りぐらし」と呼べるというのは、まだ誠実であるように感じる。「借り」であることを知っているならば、いつか「返す」日のことも理解しているのだろうから。狩猟民族であれば、なおさら借りと返しに近いところで暮らしているはずだ。

そういう意味では、今回の物語が描いているのは、(滅びゆく)小人と人間の関係ではなく、(滅びゆく)狩猟民族と農耕民族の関係なのではないかと思った。映画のなかに、一人嫌なことをする人間が出てくる。しかし、準主人公の少年たちは、嫌なことをする人間を排除したりはしない。たぶん、農耕民族の生活では、そういった人間とも折り合いをつけなければ暮らしていけないのだろう。そして、それは別の何かを危険に晒したり、大事なものを傷つけてしまったりすることを意味するのだろう。

果たして農耕民族は、世界から様々なものを借り、生かされている自覚を持っているのだろうか。「自分の持ち物だ」と思っているものが、どこかから盗まれてきたものだという理解を持てているのだろうか。映画を見ているあいだ、ぼくは心の片隅で、ある形のハッピーエンドをずっと望まずにはいられなかった。
2020-09-13 01:36:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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