メッセージ。 - diary

2023-06-15

# にゃー

最近感じたこと。読んだ記事など。

公園クレーマーの俺が公園クレーマーの考えてることを書くぞ
https://anond.hatelabo.jp/20230607162734

どちらかというと、ぼくはこの人のことを否定的に読んだ。ちょっと病気じゃないかと思った。昔でいうとこのノイローゼみたいな。とくに

 最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。

というくだり。可能性があるから怖いという状態になってしまったことは同情するし、誰でも何かの強いプレッシャーでそうなってしまう可能性があると恐ろしく感じる。でも、可能性を恐れてしまったら、生きていくことができない。

この世界は恐ろしいことが起きる可能性に満ちているからだ。誰がいつ何をするのか分からない。あんな悪いやつがいるかもしれない、若い男は何を考えているのか分からない、自分より力の強いものがひどいことをしていくる可能性がある。そんな風に考えはじめてしまうと、どんどんこの世界が恐ろしくなる。

そういう視野狭窄のような状態になってしまうことそのものが恐ろしい。もともとは心の反射による生理的な反応がきっかけなんだと思うけど、それが悪い方向に働いてスパイラルになってしまい、そうとしか考えられなくなるのが恐ろしい。

それとぼくは、この人の書いている心理は公園クレーマーだけでなく最近の過激なフェミニストとか男性を怖がる女性の人たちにも似たような機序があるんじゃないかなと感じた。「可能性があるから怖い」という部分。オタクの萌え絵をバッシングしたり、キモいものを排除しようとしたりするのも、「自分に危害を加える可能性があるのから怖い」という感情が元にあるのではないかと思う。

元の記事へのはてなブックマークへの反応を読んでみての感想。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230607162734

思ったよりも公園クレーマーさんに同調するコメントが多い。こんなにたくさんの(割合の)人が公園クレーマーさん側に立った意見を言っている。正直意外だった。いや、「みなが何を感じているかを知って驚いたり意外に感じたりする」という経験が、はてなブックマークやSNSを読んでいると最近多いので、意外に感じること自体に慣れてきているというか、心の準備をしながらページを開くようになってきているのだけれども。

個人的には、可能性を怖がってしまう自分の心と感情と生理とは、戦わなければならないと思っている。それは当然怖いものだし負けそうになる気持ちも自分の中にあるけれども。結局のところ、怖いものやキモいものは、排除できない。「可能性を潰さなければ」と頑張っても可能性をゼロにはできない。怖いと思って、キモいと恐れて相手を叩いても、むしろ逆効果のはずだ。

だから、まず合理的な判断として、ぼくは誰かを叩くということはしたくない。怖いもの、危険性のあるものがあった場合、それと隔絶して触れないようにするのではなく、理解しようとしてみて、お互い危害を加えようとするつもりがないことを知り合う状態にするのがよいのかなと思う。

ネットというのは不思議だ。スマホやパソコンの画面ごしに世界を見ていると、意見の合わない人やキモい人がたくさん見える。それこそパンドラの箱のように物凄い量の見たくないものが飛び出してくる。でも一方で、画面を消してしまえばそれらは一瞬にして消えて、物理的に隔絶することができる。心の危険と体の安全が同居している。

でも画面を消したとしても、見たくないものや見たくない人は世界に存在している。あんなにたくさん存在している。なんとかして排除しないと、戦わないと、と思うのも当然かもしれない。パンドラの箱は、この世界にあるといえばある。開かれたといえば開かれた。ネットやSNSというのはまさにパンドラの箱と同義に見える。でも。現実の世界で暮らしていて、そんなに怖い人とか、嫌な人ばかりってわけでもないんだよね。

もちろんぼくだって嫌いな人はいるし、むしろネットでも現実でも、人とは分かりあえないことがほとんどだ。でもまぁ、なんとかやっていけている。生きていくうえでの喫緊の危険を感じるほどではない。99.9%の人は、他の人に迷惑をかけないように生きていると思っているし、ぼくも他の人にできるだけ迷惑をかけないよう生きていきたいと思っている。

パンドラの箱についてはもうちょっと書きたいことがあったけど長くなりすぎたのでまたこんど。バベルの搭というキーワードでも書こうと思っていたけどこれもまたこんど。
2023-06-15 08:00:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2023-04-02

# にゃー

Let's noteを長年愛用しているけど、最近のヒットはLet's note CF-SZ5とかLet's note CF-SZ6だ。1Kgを切る軽さで必要十分な性能とインターフェースを備える(自分の用途には)完璧なマシン。中古だとほんとに安く買えるし、基本的にLet's noteは驚くほど長持ちしてほとんど壊れない(たまにハズレ機種やハズレ個体もあるが。CF-NX3は液晶が壊れた)。

ただし、SZ5とSZ6には「これは絶対に変更したほうがいい」という設定が1つあって玉に瑕だ。それはBIOSメニューにあるIntel
Turbo Boostとかいう項目。これがONになっているとしょっちゅうファンが回ってうるさいことこのうえない。たぶんデフォルトでONになっているのでユーザーの満足度を大きく下げているはず。

だけどこの項目はONにする必要がない。少なくともぼく個人としては、OFFにしていて不満に思ったことはまったくなく、ONにしたときの性能向上とOFFにしたときの静音性を天秤にかけてみたら、使用感や快適性という点で圧倒的に静音性に軍配が上がる。パナソニックはこの設定項目を絶対にOFFにして出荷すべきである(もしそうしていなかったのならば。というかすでに現行製品ではないが)。でなければ、せっかく良いものを作っているのにもったいない。
2023-06-15 06:44:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2023-03-18

# にゃー

「はい。ここで泣いてください」またいな作品があまり好きではない。なぜかというと、泣くのはやはり悲しいから、もしくは悲しさからの開放時のうれしさから出てくる感情だと思うから。登場人物のおかれた境遇や心境を想像し、その決断にどのような葛藤があったか、自分ならどう感じどう行動しただろうかと考える、その過程に価値があると信じるから。

逆に「ここで泣いてください」風の作品からは「泣けるでしょう?泣くと気持ちいいでしょう?」という囁きが聞こえてくる。気持ちいいということは結局のところ快楽であり、悲しみの対極にあるはずだ。なのに涙を流して気持ちがいいとはどういうことか。涙をなんだと思っているのか。

物語には緊張と弛緩がある。強い緊張からの開放によって気持ちよさが生じることは否定しない。しかし、気持ちよさだけを摂取するのでは何も学びがないし、メッセージもないではないか。もちろん現代のほとんどのフィクションは商業目的でありエンターテイメントであるからして、快楽が主たるドライバになっていることは否定できない。快楽のない作品だけを楽しめといわれてもしんどい。

だけど、快楽だけあれば良いというのではつまらない。それではまるで、作品に関わる人の尊厳を否定されているみたいだ。作品に込められているのは物語でありメッセージであるはず。「誰か」がそこにいたという信号であり証であり、「誰か」がそれを受け取ったという証である。つまり、宇宙やあなたや私の存在を示す手がかりである。この暗くて広い空間のなかで、それを見つけ、できるならつなげたい。そうでなければなにをしているのか分からない。
2023-03-18 23:54:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2023-01-27

# にゃー

最近はもっぱらLinuxデスクトップをプライベートの母艦として使っていて、けっこう満足している。とくにキーボードで操作できる系のプログラムを使うようになってから、かなり使い勝手が良くなった。いま使っているアプリは以下のような感じ。

- ウインドウマネージャ:i3wm
- ブラウザ:Google Chrome+Vimium拡張
- ターミナルエミュレータ:xfce4-terminal
- ターミナルマルチプレクサ:tmux
- エディタ:Emacs
- ファイルマネージャ:ranger

i3wmのいい点は、キーボードですべてが操作できることに加えて、カスタマイズ性がかなり高くて見通しもよく、日常的な操作においてコンピュータをより高いレベルで素早くコントロールできるようになったと感じている。また、rangerについては従来のファイルマネージャの何倍も操作性が良いと感じられ、いままでファイルマネージャやシェルを触っていた時間を返して欲しいぐらいだ。

でも難点もあって、キーバインドがこれらのアプリケーションごとに違うので、アプリケーションを行ったり来たりするごとに、手と頭が覚えているキーバインドをスイッチしなければならず、混乱している(過渡期をすぎればいいのかもしれないけど)。

とくに、i3wmとtmuxとEmacsとrangerでキーボード・ショートカットを多様するので、頭と手の切り替えを瞬時に行わなければならず非常に難しい。rangerを使い始めるまではi3wmとtmuxとEmacsでちょうどよかったのだけど、rangerが追加されて完全にオーバーフローしてしまった。でも、rangerがもたらしてくれるスピード感と生産性はすごくて、これを止めることは考えられない。もうちょっと頑張ってみる予定。

※ そういえば、仕事ではMacを使っていてこちらもまた微妙に異なるキーバインドを使わなければならないことが多く、混乱に拍車をかけている。
2023-01-27 22:51:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2023-01-24

# にゃー

↓のような話題でみんながいろいろ言っているみたいなんだけど、ピンと来ない意見が多かった。

「ここから、なんで負けた?」〜”スマホ前夜”の日本製品から、企業や技術の問題点が議論される - Togetter
https://togetter.com/li/2054851

どうして国産携帯電話がiPhoneになれなかったのか?その答えは、世界中のみんながiPhoneを夢中になって欲しがったのに対して、国際携帯電話はそうでなかったことだ。iPhoneが出た当初、世界中の人は目を輝かせて我先にとそのデバイスを手にしようとした。(それ以前からいくつものApple製品にはその予兆があったが)iPhoneは、誰もが欲しくなるような魔法のデバイスだった。

なぜ人々はそれを欲しがったのか?そこには夢があり、自由があり、フロンティアがあったからだ。ポケットの中から世界中にアクセスできる機械。しかも、ただアクセスできるだけじゃない。自分の書いたプログラムを走らせることができて、カメラやセンサーで環境データを扱うことができて、自分の好きな音楽や写真や本や誰かとのつながりを、好きなだけ持ち運ぶことのできる機械。

そんなことは、iPhone以前にはほぼ不可能だったことだ。正確にいえばPDAやZaurusはその当時すでに存在したので完全に不可能だったわけではない。だけど、iPhoneはそういった夢の機能を、オタクやギークや一部のビジネスマン以外の誰でも扱えるようにした。プログラムが書けなくても、誰か別の人が書いたプログラムを簡単にもらってくることができたし、自分の書いたプログラムを簡単に誰かにあげることができた。そういったプログラムを売買するマーケットさえあった。

それ以前の電話にはできなかった自由。誰もが手を伸ばすことさえ諦めていたあの空が、いつのまにか手の中にあった。きっと同じようなことが、自動車が発明されたときにも起こっただろうし、飛行機やテレビやコンピュータや活版印刷や農耕が発見されたときにも起こっただろう。革命だ。人々を夢中にし、大きな可能性を与え、多くの人の人生をも変えてしまうような大きな変化。社会を揺るがし時代を作るような大きな力がそこにある。

それは、単に「携帯電話にタッチパネルを付けてみました」ということでは断じてない。時代に必要とされるもの、あるいはそれ以上、時代を作り出していくような力。夢を現実にし、人々や社会を導くような意志とコンセプトと設計と実装と実行力があって初めて実現するものだ。ある意味では青臭い夢とも言えるだろう。だけど、そういった夢を追いかけてきたからこそ、AppleもGoogleも今の位置にいるのだと思う。
2023-01-25 07:11:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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