メッセージ。 - diary

2021-06-20

# にゃー

先日公開したUIMockを若干手直しした。変更点としては、いきなり編集画面を見せられても初めての人は面食らうだろうから、トップページとして「ようこそ画面」を開くようにしてみた。あとは、ページ名を変更したときなどに、リンク切れを検知して修正のサジェストをするようにしている(サジェストについてはまだ完成度が非常に低い)。

サジェストの機能はもっと拡充させたいけど、実装してみるとなかなか難しい。というのも、現在の編集フォームでは、ユーザーが編集しているのはtextareaの中の文字なので、ユーザーが入力した「個々の文字の追加・変更」をシステムが「ページ名が変更されたのか?」や「何から何に変更したいのか?」といったメタな情報に解釈しないといけないから。

ただまぁ、リンク構造を編集するうえでは是非ともあってほしい機能なので、もう少し検討してみたい。そういう意味では、リンク構造を編集できるエディタを作りたいと昔から思っているので(シェルスクリプトベースのものは作ったりしたこともあるけど)、うまくいけば汎用化して今後そういう方向性のツールに進化させるのも面白いかもしれない。

https://pikapika.to/~yf/uimock-web/
2021-06-20 00:21:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-06-10

# にゃー

テスト
2021-06-10 21:39:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# UIMock

以前に公開していたUIMockというツール。いつのまにか動かなくなってしまっていたので書き直した。
前回はHaskellでコードを書いていたけれども、今回はPurescriptで書いている。

https://pikapika.to/~yf/uimock-web/

Purescriptにする(個人的な)1つの利点は、プログラムがクライアントシステム上で(ブラウザ上で)動くということだ。
CGIやWebサービスのようなサーバーサイドプログラムの場合、サービスを継続するためにはサーバーシステム上でインスタンスを動かし続けないといけない。
ただ単にApacheやnginxを動かすだけなら問題ないけど、経年のOSバージョンアップやセキュリティ対策、不具合対応などをしたうえで、
各アプリケーションの稼働を継続するのは大変だ。

とくに、ここのような零細なサイトでは、そのようなアプリケーションの稼働を何年にもわたって監視したりメンテナンスしたり
するのは厳しくて、どうしても「いつの間にか動かなくなっていた」ということが起こりがちだ(もちろん、OSのバージョンアップなどは
自動化しているのだけど、アプリのメンテナンスがそれに追いつかない)。

でも、実際のところは、動かなくなっていても誰も気づいていないフシがある。
「ユーザーがいないのだからどうせ動いていなくても問題ないでしょ」という意識が働くことは否めないし、
実際にユーザーはいないと思われる。ここはそのような閑古鳥が鳴くサイトであり、自他ともに認める限界サイトなのだ。

そういう意味では、どうせプログラムや記事を公開したところで誰にも気づかれることはない。
意味のないことであるし、自己満足ですらないというのが実態だろう。
ならばなぜ、公開するのか?まぁ、たいした意味などない。もしかしたら誰かの役に立てばいいな、というぐらいのものだ。

それにまぁ、一応うまく動いているんだよ。作っている最中は「これは面白い、役に立つぞ」と思って作っているし
作ったあとでも「悪くないんじゃない?」と思う。ただ、どういうわけか作り終えたあとでは、ぼくにはその価値が分からなくなってしまうのだ。

たとえば陶芸家が、焼き上がった作品を見て「こんなんじゃない、ガシャーン」とやるようなものかもしれない。
できあがったものは、やけにちっぽけに見える。動いていて当たり前だし、「もっとあそこが良くできるはず」「なにかピンとこない」といった
感覚がどうしても残る。端的にいえば面白くない。

でも、本当はどうなんだろう。作り始める前や、作っている最中の自分は、間違いなくそれを面白がっていたんだよ。
そしてある程度は思い描いた形のものが作り上がっている。ならば、誰かの役に立つこともあるかもしれない。

作ったもの自体の価値や面白さは、作り始める前も作り終えたあとも本来は変わらないはずだ。
けれども作り終えると面白くなく感じてしまう。それは作品が変わったのではなく、自分が変わったのだと考えるほうが妥当だ。
であるならばなおさら、作られたもの自体は作り手のもとを離れたほうがいい。

関連記事: https://pikapika.to/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=3213
2021-06-10 00:32:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-09-16

# にゃー

フェミニスト「VRアバターの販売は人身売買まがい」「VRで美少女の体になるのは究極の女体の私物化」 - Togetter
https://togetter.com/li/1588856

ちょっと前に呼んだ記事が、思考実験として面白そうに思った。ちょっと引用しながら考えてみる。

 リアルで生きることに不満を持ったオタク男性たちが美少女になりきってVRをプレイしているらしい。オタク男性たちがいかに女性に対して幻想を抱き、そして女性の体を好きに扱い、モノとして見ているかがわかる。美少女になることがアイデンティティの確立?オタク男性たちのミソジニーの極みだと思う。

世情に疎いのでVRがどんなものなのかよく分からず、「ミソジニー」ってどういう意味なんだっけ?と検索しながら読んでいたりするんだけど、販売されているアバターというのは、以下のようなものらしい。

https://booth.pm/ja/browse/3D%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

ちょっとよく分かっていないけど、ここにあるものを購入すれば、VRの世界でキャラクターになりきって遊ぶことができるのかな?一部過激なものが陳列されていることもあり、もし自分がそのキャラクターになりきって遊ぶとしたらって想像すると、ちょっとドキドキしてしまった。

なんというか、もし自分が可愛い女の子だったら、どんな風に世界が見えるんだろうというか。もちろん、可愛い人は可愛い人なりに大変なこともあるんだろうと思うし、いいことばかりでもないだろう。でも、憧れちゃうような気持ちになるのは仕方がないのかなぁとも思う。

普段男というのは、「汚い」「がさつ」「下劣」「暴力的」「キモい」というふうに、社会的に(女性に比べて)劣位に置かれている部分がある。劣等感を感じているんだ。だから、その反対となる概念、カーストの最上位にいる「可愛い女の子」というものに、憧れや畏怖の念を持っている。

もちろん、男だけではないだろう。カーストの下位にいる女性や、下位といえないまでも普通レベルの女性でさえ、「自分も可愛いと言われたい」「可愛くなりたい」という気持ちを持っている。だから女性たちはときに化粧をし、ときに可愛い洋服を買い、ときに自分磨きをし、ときに土俵を降りて目立たぬよう暮らしたりする。

そういったねじれがこの社会にあり、ねじれの中で悲しい思いをしているなか、誰だって変身願望を持っていておかしくないのではないか。たとえば、キモい(と社会から評されている)男性が、可愛い女性に憧れて変身したいと望んだところで、そんなに罪なのだろうか。それは、可愛くない(と社会から評されている)女性が、可愛くなりたいと化粧をしたり、洋服を着飾ったり、諦めて立ち去ったりするいじらしい気持ちと何が違うのだろうか。

問題は、可愛いか、可愛くないかだけではない。この社会の中で、人生がうまくいかず悩み苦しんでいる人はたくさんある。思っていたような自分になれない、学校や職場で人間関係がうまくいかない、いじめられている、誰にも褒めてもらえない、他人より劣っている、重い病に苦しんでいる、分かり会える人がいない、人生の終わりが近づいている。人生は、うまく行くことばかりではないばかりか、うまくいかないことがほとんどだ。なにも思い通りにならない。

だから人は想像する。「もし・・・だったら」。もし自分が絶世の美男・美女だったら。もし自分が世界一の格闘家だったら。もし自分が世紀の大天才だったら。もし自分が大富豪だったら。もし自分が猫だったら。もしあの人がいまここにいてくれたら。もしこの世界が優しさに包まれていたなら。

そういった想いが、世界に物語を紡いでいく。考えてみれば、化粧や洋服だけでなく、映画も、自動車も、教育も、仕事も、携帯電話も、人と人との関係も、「いまの自分とは違う何か」「いまの世界を変える何か」「誰かとのつながり」
にドライブされている。人々の祈りや願いや悲しみや悩みが、物語を求め、物語を生み出し、そして新たな祈りや願いや悲しみや悩みを紡いでいく。

だからぼくは思う。彼ら・彼女らは、「女性の体を好きに扱いたい」のではない(もちろん一部にはそういう人もいるだろうけど)。多くの人は、「女性の体を好きに扱いたい」のではなく、ただ単に、「自分のことを好きになりたい」「誰かに気持ちを伝えたい」「誰かと分かり合いたい」と思っているだけなんじゃないかな。
2020-09-16 00:45:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-09-13

# にゃー

先日、テレビで『借りぐらしのアリエッティ』をやっていたので見てみた。内容は「最高に面白かった」というほどではないけど、悪くはない。「まぁまぁ面白かった」ぐらいかな。

ストーリーとしては、人間の生活の近くに隠れ棲む小人の家族と薄幸の人間の少年のふれあいを描いている。小人の家族は言葉を話し、前近代的な文化程度の生活を送っている。日夜危険を犯して人間の家に潜入し、生活物資(ティッシュペーパーとか砂糖とか)を拝借して暮らす彼ら。

自らの生活を「借りぐらし」と呼んでいるが、その生活実態は狩猟に類似していて、「狩り」と「借り」をかけていることが分かる。また、小人たちは絶滅の危機に瀕しているらしく、家族以外の仲間がこの世界に生存していることを知らず不安がっている。

ジブリ作品だけあって自然風景の描写が非常に美しい。面白いなと感じたのは、人間の暮らしを小人の視点・スケールから眺める描写。巨人(小人からみれば人間は巨人だ)の家に、危険を犯して潜入し狩りを行うシーンに迫力があり楽しかった。また、主人公は父親からようやく借りに出ることを許された年頃の女の子で、大人への階段を踏み出す心情もまた、観ているものを惹き込む。

ところで、ぼくは結構映画を観たあとで、ネットのレビューを読んでみたくなる。他の人も同じように感じているのを見るのはうれしいし、自分では気付けなかった視点や発見を得られるのが楽しいからだ。けれども、ネット上の映画レビューを読むと落胆することも多い。自分にとって面白いと思った作品や、逆につまらないと感じた作品に、真逆のレビューがついて、予想もしない点数になっていることが多いからだ。

別に、他の人がどう感じようがそれは自由だし、自分の感じ方や感想が正しいなどというつもりは毛頭ない。ただ、他の人が意見をいっているのを見ると、思っていた以上に世界が多様で、自分とは異なる考えの人がたくさんいることを目の当たりにして、なんとも言えない気持ちになるのだ。

たとえば子供のころ、ウルトラマンや水戸黄門や暴れん坊将軍やタイムボカンシリーズのようなテレビ番組をよくやっていた。それらの勧善懲悪ものは、毎回ワンパターンで、ある意味で平和だった。善が悪を倒す。善には優しさがあり、話せば分かるという感覚があり、義があった。いまのように、何が善で何が悪か分からないとか、正しさは人それぞれであるとか、わかり会えない人がいるとか、世の中にはいろんな善があるとか、そういうものはなかった。

『借りぐらしのアリエッティ』に話を戻す。今回見たレビューの中に、小人たちのことを怒っている人がいた。小人たちがやっていることは泥棒だと。砂糖やティッシュペーパーを盗られるのは嫌だと。

だけれども、小人たちが持っていくのは一晩に角砂糖の1個とか、ティッシュペーパー1枚とかなんだよ。そんなちょっとのこと、別にいいじゃんというのが、主人公の小人に感情移入したぼくなんかの感想なんだけど、そうじゃない人もいるのだ。そして、別に「そうじゃない人」が悪いというわけではない。世界は実際のところ多様なのだろう。かつてぼくがウルトラマンや水戸黄門なんかを楽しんでいたシンプルな世界観のほうが、現実離れしているのだろう。仕方がない。どうしようもない。たぶん。

たしかに、小人たちは自らのことを「借りぐらし」と呼んでいるのだけれども、その一方で「返す」ということについては一言も言及がない。一般的に言って、借りたものは返さなければいけない。でも、彼らには返すという言葉や行動が見えなかった。なぜなのか。

それはたぶん、「借り」イコール「狩り」であるからではないか。狩猟民族は、羊やアリクイや猿やワニなど、いろんな生き物を狩って暮らしている。それはたしかに、自然の中から命を借りていることと等価だ。我々は、「狩られるもの」の同意を得て彼らの命をいただいているわけではない。彼らの同意を得ずに、こちらの一方的な意思で彼らの命を奪っている。我々は、日々の暮らしのなかで、ほかのものの命をいただいて生きている。そしてそれは、簡単には返すことができないものだ。

いったいこの状態を、何と表現すればよいのか。誰も「自分は泥棒であり強盗だ。今日も1つの命を奪った」などとは公言しない。なぜだろう?本当は皆、この状態を心苦しく思っているのか?この苦しみを、誰も言わないだけなのか?ぼくにはよく分からない。人間たちは日々多くの情報をネットワーク上で受発信しているが、そういった情報は単純集計で0.1%にも満たないのではないか。その意識や理解すらない人もいるようにさえ思われる。

そういった状況のなかで、自分たちの生活のことを「借りぐらし」と呼べるというのは、まだ誠実であるように感じる。「借り」であることを知っているならば、いつか「返す」日のことも理解しているのだろうから。狩猟民族であれば、なおさら借りと返しに近いところで暮らしているはずだ。

そういう意味では、今回の物語が描いているのは、(滅びゆく)小人と人間の関係ではなく、(滅びゆく)狩猟民族と農耕民族の関係なのではないかと思った。映画のなかに、一人嫌なことをする人間が出てくる。しかし、準主人公の少年たちは、嫌なことをする人間を排除したりはしない。たぶん、農耕民族の生活では、そういった人間とも折り合いをつけなければ暮らしていけないのだろう。そして、それは別の何かを危険に晒したり、大事なものを傷つけてしまったりすることを意味するのだろう。

果たして農耕民族は、世界から様々なものを借り、生かされている自覚を持っているのだろうか。「自分の持ち物だ」と思っているものが、どこかから盗まれてきたものだという理解を持てているのだろうか。映画を見ているあいだ、ぼくは心の片隅で、ある形のハッピーエンドをずっと望まずにはいられなかった。
2020-09-13 01:36:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-04-25

# にゃー

数週間前ぐらいに、感染症の専門医の人が「新型コロナウィルス感染症疑いの患者さんは、クリニックではこうやって診察・検査するんですよ」ということを動画で説明してくれていたのを見た。果たしてその内容は、大変繁雑でナイーブな手順の積み重ねだった。

https://www.youtube.com/watch?v=QUlRJqx3STI

対象の患者さんが、他の患者さんやスタッフと接触しないよう立ち入る場所を制限したり、ドアや什器などを触らせないようにしたり、医師はマスクとゴーグルと使い捨てガウンで完全装備して脱ぎ方にも細心の注意を払い、ことあるごとに念入りに手洗いし、他の人に感染しないよう、次の疑いの人を検査する前に30分〜1時間換気をして誰もそのエリアに入れないようにするといった次第。

すごく大変そうだった。でも思ったんだけど、そんなに大変なことをたくさんの疑い患者に対して適用するのはリソースと時間がかかりすぎるし、そもそも今回のコロナウイルスは「感染力がものすごい」×「無症候だけど他者への感染力を保持する感染者がたくさんでる」という特徴のせいで「疑いの人」だけそんなに気を遣って頑張っても意味がないんじゃないか。

※書き方が乱暴で申し訳ないです。プロの人は危険を顧みず寝る時間も惜しんで頑張ってくれてると思うし、外野からあれこれいったり非難をする意図はこの文章にはまったくないです。ただ、この未曾有の非常事態に対し、何ができるんだろう?何をすればよかったんだろう?と一市民が考えているだけです。

肺炎も発熱も咳もめまいも味覚障害もないけれども、怪我をしたり歯が痛かったり、じんましんが出たり、妊娠していたりという人が、毎日たくさん診察を希望する。それらの人々が新型コロナウィルスに感染している可能性が十分ある現時点で、それ以外の「疑い」の人にだけ細心の注意を払っても焼け石に水だろう。

本来であるならば、すべての患者さんに対して、すべてのスタッフがつねに完全防備して接し、なおかつ一人診察するごとに院内の経路を消毒して次の患者を呼び入れなければいけない。そうでなければ、「疑い」の人だけものすごく慎重に取り扱う行為と釣り合いが取れない。医療従事者や、クリニックに集まる患者さんをリスクから十分守れない。

けれども実際には、医療防護具や消毒薬のストックという観点からだけでも、すべての人にそんな対応をできないのが現実だ。だからそういう意味では、すでに医療は崩壊している。平時の水準の医療は、すでにできる状況ではなくて、すでに一線を超えた非常事態にある。普段であれば守れる命が、今は守れない。医療従事者も患者も文字通り命の危険にさらされている。だから外出を控えなければならないのだ。

※逆に言えば、「怪我や病気をしたり高齢になったら死ぬのは当たり前」「人間はもっと死んでいい」といったふうに人間の命の価値を減じた価値観に転回できるなら、外出制限をせず元に近い生活ができるだろう。

医療行為というのは、基本的に物理的な接触をしなければ不可能なものだ。人間の身体を診察するのであるから、人間の身体を物理的に観測せざるを得ない。その行為を機械が行えるならばいいのだけれど、現時点ではそうなっていない。感染症に対して脆弱である人間が、人間を診るしかないし、患者が自分で検査をできる社会制度にもなっていないのだ。

その結果、病院やクリニックへの人の去来を止めることができないので、そこがクラスターになる可能性がどうしても残ってしまう。院内のスタッフがどれほど気をつけていても、患者が集まって待合室に入ることでウィルスが持ち込まれてしまう。

これに対しての対策としては、たとえば(1)一人ひとりの患者の検査するごとに消毒ができ、(2)検査も機械で行えるような感染症専門の特殊装備車が将来的に必要ではないかと愚考する。

現時点ではそういうものが存在せず、専門家といえども素手で(努力と根性で)戦っている状況だ。ぼく自身は、医療関係者の方々が大変なストレスと過重労働のなか頑張ってくださっているのを、陰ながら応援するぐらいしかできない。微力ながらでも何かをしたいけれども、何もできないのがもどかしい。
2020-04-25 15:48:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
| >>old days