メッセージ。 - diary

2020-04-25

# にゃー

数週間前ぐらいに、感染症の専門医の人が「新型コロナウィルス感染症疑いの患者さんは、クリニックではこうやって診察・検査するんですよ」ということを動画で説明してくれていたのを見た。果たしてその内容は、大変繁雑でナイーブな手順の積み重ねだった。

https://www.youtube.com/watch?v=QUlRJqx3STI

対象の患者さんが、他の患者さんやスタッフと接触しないよう立ち入る場所を制限したり、ドアや什器などを触らせないようにしたり、医師はマスクとゴーグルと使い捨てガウンで完全装備して脱ぎ方にも細心の注意を払い、ことあるごとに念入りに手洗いし、他の人に感染しないよう、次の疑いの人を検査する前に30分〜1時間換気をして誰もそのエリアに入れないようにするといった次第。

すごく大変そうだった。でも思ったんだけど、そんなに大変なことをたくさんの疑い患者に対して適用するのはリソースと時間がかかりすぎるし、そもそも今回のコロナウイルスは「感染力がものすごい」×「無症候だけど他者への感染力を保持する感染者がたくさんでる」という特徴のせいで「疑いの人」だけそんなに気を遣って頑張っても意味がないんじゃないか。

※書き方が乱暴で申し訳ないです。プロの人は危険を顧みず寝る時間も惜しんで頑張ってくれてると思うし、外野からあれこれいったり非難をする意図はこの文章にはまったくないです。ただ、この未曾有の非常事態に対し、何ができるんだろう?何をすればよかったんだろう?と一市民が考えているだけです。

肺炎も発熱も咳もめまいも味覚障害もないけれども、怪我をしたり歯が痛かったり、じんましんが出たり、妊娠していたりという人が、毎日たくさん診察を希望する。それらの人々が新型コロナウィルスに感染している可能性が十分ある現時点で、それ以外の「疑い」の人にだけ細心の注意を払っても焼け石に水だろう。

本来であるならば、すべての患者さんに対して、すべてのスタッフがつねに完全防備して接し、なおかつ一人診察するごとに院内の経路を消毒して次の患者を呼び入れなければいけない。そうでなければ、「疑い」の人だけものすごく慎重に取り扱う行為と釣り合いが取れない。医療従事者や、クリニックに集まる患者さんをリスクから十分守れない。

けれども実際には、医療防護具や消毒薬のストックという観点からだけでも、すべての人にそんな対応をできないのが現実だ。だからそういう意味では、すでに医療は崩壊している。平時の水準の医療は、すでにできる状況ではなくて、すでに一線を超えた非常事態にある。普段であれば守れる命が、今は守れない。医療従事者も患者も文字通り命の危険にさらされている。だから外出を控えなければならないのだ。

※逆に言えば、「怪我や病気をしたり高齢になったら死ぬのは当たり前」「人間はもっと死んでいい」といったふうに人間の命の価値を減じた価値観に転回できるなら、外出制限をせず元に近い生活ができるだろう。

医療行為というのは、基本的に物理的な接触をしなければ不可能なものだ。人間の身体を診察するのであるから、人間の身体を物理的に観測せざるを得ない。その行為を機械が行えるならばいいのだけれど、現時点ではそうなっていない。感染症に対して脆弱である人間が、人間を診るしかないし、患者が自分で検査をできる社会制度にもなっていないのだ。

その結果、病院やクリニックへの人の去来を止めることができないので、そこがクラスターになる可能性がどうしても残ってしまう。院内のスタッフがどれほど気をつけていても、患者が集まって待合室に入ることでウィルスが持ち込まれてしまう。

これに対しての対策としては、たとえば(1)一人ひとりの患者の検査するごとに消毒ができ、(2)検査も機械で行えるような感染症専門の特殊装備車が将来的に必要ではないかと愚考する。

現時点ではそういうものが存在せず、専門家といえども素手で(努力と根性で)戦っている状況だ。ぼく自身は、医療関係者の方々が大変なストレスと過重労働のなか頑張ってくださっているのを、陰ながら応援するぐらいしかできない。微力ながらでも何かをしたいけれども、何もできないのがもどかしい。
2020-04-25 15:48:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-04-22

# にゃー

新型コロナウイルスの件、率直にいってまるでSFのようだ。つまり、物理法則や自然科学を舞台装置とした壮大な物語。典型的には、序盤に平穏な日常が描かれ、人々は登場人物やそこにある物理法則を理解させられる。まるで犬や猫がその理解の到底及ばないであろう自動車や舗装道路があふれる街の中に放り込まれ、それを所与のものとしてそこに住まわされるように、世界の光景や法則は、「当然のもの」として人々の心と体に描きこまれる。そこに描かれる法則は、ある意味で「願い」であり「祈り」である。

しかしあるとき事件が起こり、平穏な日々は破られる。起こるはずのないことが起こり、人々の「理解」が壊される。「願い」や「祈り」が粉々になる。そして明らかになるのは、『そこに当然あると思っていた日常は、あくまで「法則」が生み出しうる世界の一象限でしかなかった』という事実だ。法則が生み出しうる別の象限の存在が、人々を追い詰めていく。新たな世界が「現実」を上書きしていく。人々は「現実」と戦い、「世界」と戦う。「祈り」や「願い」を求めて道を進む。
2020-04-22 23:54:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-03-03

# にゃー

ヒーロー、ヒロインものの物語では、「正体が知られてしまうと消えなければならない」という設定が相当な頻度でついてくるけど、どこがルーツなのかな。『鶴の恩返し』?国外の物語にも見られる設定だよね?

ある種のマイノリティ、あるいはある種の人間が、人間の世界で暮らすとき、その正体を匿して生きなければならない(さもなければ消えてしまう)という状況を含んでいるのかなと思った。
2020-03-03 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-02-03

# にゃー

現場に近い人は機能の話をしていて、現場から遠い人は気分の話をしている。現場から遠い人には、機能とか機能の詳細とかは興味がなくて、ただ気分が良くなればいいと思っている。間に立つ人は、本来ならそれら近い人と遠い人の意識や方向性を一つにまとめらことが重要だけれども、それが難しいケースが往々にしてあり、いずれにせよ適当に機能と気分の両方を満たしてやる必要がある。
2020-02-03 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-01-10

# にゃー

にわとりと卵の問題。たしかに、にわとりが先に生まれたのか、それとも卵が先に生まれたのか、考えてもよく分からない。でも、卵からはにわとりが生まれ、にわとりからは卵が生まれ、そのサイクルはぐるぐる回って少しずつ変容し進化を続けてきたはずだ。

にわとりか卵が最初に生まれてくる前にも、このサイクルがぐるぐ
る回っていたと考えると考えて間違いがない(だろう)。
であるならば、本当の問題(もしくはより大きな問題)は、
そのサイクルがどのようにしてスタートしたのか。つまり0から
1に変わったり、さらに1から2に進んだのはどういうプロセスなのかということではないか。つまり、どういう過程で無機物から有機物ができたのかという問いに還元されるのではないか(あるいは時間が進むとはどういう理屈なのか)。

また、人間など哺乳類の赤ちゃんは、お腹の中にいるときや生まれてくるとき、膜に包まれている。この膜が、鳥の場合は硬くなっていて、それが卵と呼ばれているだけと考えることもできる。そう考えたら、「にわとりが先か卵が先か」という問題は、どういう問いに帰結するだろう。「生体が先か膜が先か」になるだろうか?これは面白い問題で、しっくりくる表現がスッと出てこない。それと面白いのは、「卵」が「膜」に変わっただけで、「いったいそもそも何を知りたかったんだろうか?」という問いが出てくることだ。

「にわとりが先か?卵が先か?」と問われると、みな不思議に感じ興味深く思うけれども、ここまで見てきたように、その問いは「生体が先か膜が先か」という問いとイコールであるだろう(ほかにもイコールになる問いがあると思う)。そしてその問いは、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いとイコールになる(ちなみに、「無機物が先か有機物が先か」という問いとはイコールにならないはずだ)。

ところで、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いは、「にわとりが先か卵が先か」という問いに比べると、直感的には面白さが減じてしまうように感じる。後者では、無限に再帰しながらステートを辿るという問題を、人間の意識が自然と避け思考を停止しようとする作用の領域に対して、意識が踏み込もうとして面白く感じているようにも思う。
2020-01-10 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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