メッセージ。 - diary

2020-03-03

# にゃー

ヒーロー、ヒロインものの物語では、「正体が知られてしまうと消えなければならない」という設定が相当な頻度でついてくるけど、どこがルーツなのかな。『鶴の恩返し』?国外の物語にも見られる設定だよね?

ある種のマイノリティ、あるいはある種の人間が、人間の世界で暮らすとき、その正体を匿して生きなければならない(さもなければ消えてしまう)という状況を含んでいるのかなと思った。
2020-03-03 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-02-03

# にゃー

現場に近い人は機能の話をしていて、現場から遠い人は気分の話をしている。現場から遠い人には、機能とか機能の詳細とかは興味がなくて、ただ気分が良くなればいいと思っている。間に立つ人は、本来ならそれら近い人と遠い人の意識や方向性を一つにまとめらことが重要だけれども、それが難しいケースが往々にしてあり、いずれにせよ適当に機能と気分の両方を満たしてやる必要がある。
2020-02-03 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-01-10

# にゃー

にわとりと卵の問題。たしかに、にわとりが先に生まれたのか、それとも卵が先に生まれたのか、考えてもよく分からない。でも、卵からはにわとりが生まれ、にわとりからは卵が生まれ、そのサイクルはぐるぐる回って少しずつ変容し進化を続けてきたはずだ。

にわとりか卵が最初に生まれてくる前にも、このサイクルがぐるぐ
る回っていたと考えると考えて間違いがない(だろう)。
であるならば、本当の問題(もしくはより大きな問題)は、
そのサイクルがどのようにしてスタートしたのか。つまり0から
1に変わったり、さらに1から2に進んだのはどういうプロセスなのかということではないか。つまり、どういう過程で無機物から有機物ができたのかという問いに還元されるのではないか(あるいは時間が進むとはどういう理屈なのか)。

また、人間など哺乳類の赤ちゃんは、お腹の中にいるときや生まれてくるとき、膜に包まれている。この膜が、鳥の場合は硬くなっていて、それが卵と呼ばれているだけと考えることもできる。そう考えたら、「にわとりが先か卵が先か」という問題は、どういう問いに帰結するだろう。「生体が先か膜が先か」になるだろうか?これは面白い問題で、しっくりくる表現がスッと出てこない。それと面白いのは、「卵」が「膜」に変わっただけで、「いったいそもそも何を知りたかったんだろうか?」という問いが出てくることだ。

「にわとりが先か?卵が先か?」と問われると、みな不思議に感じ興味深く思うけれども、ここまで見てきたように、その問いは「生体が先か膜が先か」という問いとイコールであるだろう(ほかにもイコールになる問いがあると思う)。そしてその問いは、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いとイコールになる(ちなみに、「無機物が先か有機物が先か」という問いとはイコールにならないはずだ)。

ところで、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いは、「にわとりが先か卵が先か」という問いに比べると、直感的には面白さが減じてしまうように感じる。後者では、無限に再帰しながらステートを辿るという問題を、人間の意識が自然と避け思考を停止しようとする作用の領域に対して、意識が踏み込もうとして面白く感じているようにも思う。
2020-01-10 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-27

# にゃー

現場の人間の声を聞く能力がない組織なんて、うまくいかなくて当然だ。「声を聞く」というのは、単に彼らに喋らせたり彼らから情報を得るということではない。彼らの想いを聞き、参加してもらい、力を引き出すために、物心両面で彼らを受け容れ、議論をすることだ。そのためには、本当の意味で彼らに居場所を与えることだ。重要なテーマについて議題が及んだとき、重要なメンバーに等しく発言の機会を与えないのは愚の骨頂だ。
2019-12-27 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-25

# にゃー

たまに、「友達みたいな親子関係」というのを聞き、ぼく自身もそういうのがいいなと思うけど、もしかしたら、そうでない形の良さもあるのかもしれない。

「友達みたい」というのは、対等で分かりあえるということだと思うけど、その逆で、子にとって「分からない親」という形。とくに小さい子供にとって、大人というのは対等に理解しあうには難しい存在だ。どちらが正しいというのではなく、底まで深くは理解が届かないというような。

つまりそれは世界と同じだ。子供には、そして人間にも、「世界」というものの全貌は理解しにくい。それは、家の中から窓の外を毎日眺めるような、電車の車窓から外の世界を覗くような、ふと一人になって、世界の音と光に耳を傾けるような、そういった「分からなさ」。

もしかしたら、子供にとって親というのもそういうものでいいのかもしれない。子は親をだんだんに理解していく。何か分からない、奥深い存在として。分からないけれども、何か分かるような気がする存在として。
2019-12-25 21:00:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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