メッセージ。 - diary

2018-08-02

# 日本人のウチ・ソトから通じる主客のロールについて

なんか最近、はてなブックマークの感じが悪いなぁと思っている。一時期話題になったネットイナゴみたいというか、みんなで憤って特定の対象に罵詈雑言を浴びせるみたいなのをよく目にする。記事を読んだときに、すぐどっちかに肩入れして感情的になるような人が多いのかなぁ。見ていて怖い。集団ヒステリーみたいな。もうちょっと優しくしてくれるとうれしいのだけど。まぁ裏を返せば、ぼくはぼくで、そういう事態に遭遇しがちな記事をよく見ているということだけど。で、今日見かけたのはこの記事。

オバさん「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな、購入は控えたほうがいい」飲み物を買うことすら快く思わない不寛容な人が話題に - Togetter

この件、「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな」という感覚を持つ人が一定数いる、というのは、ある程度事実なんじゃないかなという気がする。「それは不寛容だ」「そういうのを許す社会であるべき」という意見も分かる。しかし、なぜそういう人が一定数いるのか、そういう価値観の人がいるのかを理解しようとしないで、「許すべき」「変わるべき」と言っても、それはただの精神論や言い争いにしかならないように思う。

性急に感じてしまうんだよな。まぁ、はてなブックマークの仕様上100文字しか書けないから、十分な論考を書くのが難しいというのは分かる。しかし、何かコメントを書く前に頭の中で考えて、どちらかに偏らない、攻撃的でないコメントだけを残してみるというのは、不可能ではないはずだ。本来はてなブックマークに集う人たちというのは、それができる賢い人達だったと思うんだよなぁ。

で、コンビニの救急隊員立ち寄りの件なんだけど。救急隊員のような制服を着た人たちというのは、社会にとってはメタな存在なんだよね。社会の秩序を保つ監督者というか。黒子みたいなもので、基本的に、日本人は彼らが見えないことを期待しているように思う。だから、救急隊員や警察官が、私服でコンビニに行くのは全然違和感がないんだよ。なぜなら私服の人は、社会の監督者ではなく監督される者であり、お客様だから。

この「監督する者」と「監督される者」という言い方は、いくぶん分かりにくい。もっとストレートに言うと、主(あるじ)と客(きゃく)なんだ。日本人には、ある程度動物的・原始的な縄張り意識が強固にあって、いま自分が縄張りのウチにいるかソトにいるかを無意識のなかで常に理解して行動している。自宅の中ではもちろんウチだが、一歩戸外に出るとソトだ。そして、外に出てしまえば客(きゃく)として振る舞うことが社会から要請されている。客は、主の言うことに従わねばならない。逆に主は、客の安全を保証し、客同士のいざこざを裁定する義務を負う。

公道であれば、主は警察官であり国家だ。駅であれば主は駅員であり鉄道事業者だ。だからたとえば、公道において窃盗事件を目の当たりにしたとして、もしくは駅において病気で倒れた人がいたとして、それを見つけた日本人は、自らだけの判断で犯人を逮捕しようとしたり、病人を助けるために救急車を呼ぶということは躊躇われる。なぜなら、客の義務はまず主に報告することだからだ。窃盗の犯人を捕らえたり、直接駅に救急車を呼んだりすることは、客としての権限を超えた行為であり、何か起こったときの責任が取れないと感じてしまう。公道や駅において、客として期待される振る舞いは、あくまでも歩行者や乗客であって、それを逸脱する行為には、大きな心理的葛藤が生じるのだ。日本人にとって、「与えられたロール」というのは、それほど強固だ。

※逆に外国では、それほど主客のロールが強固でなく、主もテリトリーの安全を100%保証できない、する必要がないという考えから、客は自己の安全を自分で守る権限と責任があると見なされているように思う。そのためアメリカ人は銃を持ちたがるし、逆に日本では事件があると警察や場の主が強く責められるといった傾向があるのではないか。

だから、救急隊員や警察官や駅員の制服で、あるいは医師や看護師なら白衣で、学生なら学生服で、居ていい場所というのは限られる。日本人はその服装でロールを特定し、それに限られた振る舞いのみを許容するよう、無意識に強く刷り込まれている。しかも、そのロールは、基本的に見た目(制服、性別、年齢等)だけで判断される。全然違うトピックだけど、日本で生まれ日本で育ったハーフやクオーターの人(外国人の見た目を持つ人)が、日本語を話すと奇異に見られたり、どれだけ頑張っても外国人扱いされたりするのも何か共通の要因があるのではないか。

そういう日本人の基本的アルゴリズムがあるところに、「制服を着た人が私人として行動することに寛容であるべき」と単純に押し付けても仕方がないというか、コンフリクトを起こすだろう。それはつまり、主人と客の境界をあいまいにする言説であり、基本的アルゴリズムのセキュリティやプロトコルのインターフェースを脅かすことになるのだから。そういう寛容さを許容できるようにするには、基本的アルゴリズムのほうに手を入れるか、プロトコルを拡張するかしなければ、現実的な提案とはいえないのではないか。
2018-08-02 00:55:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-07-07

# にゃー

「無敵の人」っていう言葉を最近見かけるけど、要するに浪人ってことだよな。「浪人」が復活したと考えると、それはそれで興味深い。
2018-07-07 10:57:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-07-05

# にゃー

近代資本主義化によって、日本の経済は成長し1980年代に頂点に達した。その頂点に至る間人口は増え続け、産業を高次にシフトさせ、第一次産業を毀損してしまった。

しかしその後通貨高や他の国の近代資本主義化によって日本経済は頭打ちし、長い長い経済縮小期を迎えた。春があれば秋があるように、夏があれば冬があるように、成長の蔭には縮小があった。

経済成長というのは、もちろん良いことなのだろう。楽しいことや嬉しいことをたくさんもたらしてくれる。しかし一方で、過大な成長はのちの縮小ももたらす。それは屈辱や苦しみ、死を意味する。

一体全体、経済というものは、無限に成長するものなのだろうか。たしかに、農作物や畜産資源は、特定の環境下にあるとき倍々に増える能力を有する。技術は進歩を続ける。そして資本力は増大する。

だが経済といった観点ではどうだろう?経済はずっと成長を続けるだろうか?そうではないのではないか。あるいは社会。社会はずっと成長し続けるものだろうか?社会にとっての成長とはなんだろう?

人口が減っている社会は成長しているのだろうか?縮小しているのだろうか?そもそもなぜ人口は減っているのだろうか?

かつての日本の封建社会は、あるいは現代にも通じる社会的性向では、技術革新よりも社会性が重視される傾向にある。技術者や専門家の地位は低く、サービスがそれを支配する。開発部門よりも営業部門が偉い社会。

それはまるで、技術の進歩により人間が神に近づくことを怖れ諌めているかのようだ。日本人は基本的に自然崇拝であるが、自然の延長線上にある科学技術をある点では馬鹿にしているか、あるいは下に置こうとする。

農耕文明、太陽崇拝においては、持続可能性こそが無上の価値であり、社会や人はそのフレーム内で日々を過ごすだけというような考え方が、日本人の心のうちにプログラミングされているのかもしれない。ある意味普遍的で、ある意味刹那的な価値観。
2018-07-05 09:18:26 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-28

# にゃー

日本人の平均学歴はドンドン上がり続けてきたけど、経済成長は頭打ちし衰退を続けているので、旧帝大卒がフリーターなんてのも、それほど不思議でない状況になっているということだ(とくに地方)。それに悲壮感を感じるのは分からんでもないが、いまはこれが普通。これまでの20年、そしてこれからの時代は、これがスタンダードといってもおかしくない状況にある。
2018-06-28 08:57:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-27

# にゃー

近代資本主義への移行によって何が起こるか。起こったか。(風が吹けば桶屋が儲かる)

第一次産業主体の社会は、第二次産業、第三次産業の割合を拡大する。

生産された物品は、安い労働力と通貨を背景に、海外へと輸出される。

生産性(または国内における資本量)は向上し、若い世代はその前の世代より豊かな暮らしを得る

第二次産業、第三次産業のニーズにより、若い世代はより高い学歴を求められる

今までの世代であれば中卒で第一次産業に就いてていた人が、高卒で第二次産業に就くようになる

今までの世代であれば高卒で第二次産業に就いてていた人が、大卒で第三次産業に就くようになる

国内の第一次産業は廃れ、もしくは人気を失い、海外の製品が入ってくる

海外でも近代資本主義化が進展する

今までの世代であれば高卒で第二次産業に就いてていた人が、大卒で第三次産業に就くようになる

今までの世代であれば大卒で第二次産業に就いてていた人が、大学院卒で第三次産業に就くようになる

人口が減少する(因果関係不明)

国内の第二次産業は廃れ、もしくは人気を失い、海外の製品が入ってくる

労働力と通貨は高くなり、国際競争力を失う

国内の第一次産業、第二次産業は壊滅状態となり、その流通・管理マージンで成り立つ第三次産業も落ち込む

国内の産業が壊滅状態なので仕事がない。学歴の価値は相対的に低くなる。若い世代は前の世代より貧しくなる。

今までの世代であれば大学院卒で第三次産業、大卒で第二次産業に就いてていた人が、働き口を探すも、飲食、流通等の一部の第三次産業しか空きがない

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たぶん、第一次産業、第二次産業、第三次産業に求められる生産の量、就労する人間の数はピラミッド構造になっていて、本来は後ろに行くほど少なくなるのだろう。

たとえば食料は、工業製品に比べて毎日たくさん消費されるものだ(物理的には)。だから、第一次産業に就労する人の数で、第二次産業に就労する人の数は決まるし、第三次産業も同様だろう。

しかしある時点で、この国や他の近代国家は、第一次産業をアウトソースするようにしてしまった。よってピラミッドは国内完結ではなく国際的な構造になった。

誰もが第二次産業、第三次産業を目指した。なぜなら、それが人々の暮らしを豊かにしてくれるのを目の当たりにしたから。そして彼らは第一次産業を捨てた。

しかし、当たり前のように海外の国の人も同じことをした。第一次産業の受け皿となった国では、生産量増大のために産業をシステム化・高度化し、第二次産業、第三次産業へと社会構造を変化させていった。

本質的なのは、このピラミッド型の需給構造だろう。技術が発展していっても、このピラミッドはそう簡単には変わらない。しかし我々は、上へ上へと向かい、退路を絶ってしまった。
2018-06-27 09:24:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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