メッセージ。 - diary
2025-10-01
# にゃー
不機嫌や圧力を使って、部下や業者に「YESと言え」と強要する上司や顧客がいるけど、無理矢理YESと言わせたところで問題自体は解消されないので、そんな経緯で進行してしまうプロジェクトはリスクを内在することになる。しかも、そういう上司や顧客は、つねにYESを求め続けるので、リスクは雪だるま式に大きくなってプロジェクト全体は綱渡り級の危険度になってしまう。
そうなると、現場の人間は危険が大きすぎると我先にと逃げ出す。日本の法律では、従業員はいつでも会社を辞める権利があるのでね。で、現場の人間がある程度減るとプロジェクトは破綻する(たぶん)。そうなると困るのは会社(経営陣や株主)なので、そういった事態が起こらないよう、会社は早いタイミングで、そのようなリスクを引き起こす危険因子を特定し、排除したほうがよい。そのためには、現場にしっかり耳を傾けて、適切な人員を配置し、YESと強要することがない文化を醸成することが重要だと思う。
ただまぁ、こんなのはただの希望的観測なのかもしれない。実際には現場の従業員がいくらやめて、あまつさえプロジェクトが炎上したり失敗したとしても、会社の業績や屋台骨にはあまり響かないか、響いたところで経営者も株主もたいして困らないのかもしれない。
でも、現場で働いている人間としては、「YESと言え」環境で働くのは大変しんどいので嫌なんだよなぁ。経営者や株主だって、トラブルになったら嫌だと思うんだけど。
そうなると、現場の人間は危険が大きすぎると我先にと逃げ出す。日本の法律では、従業員はいつでも会社を辞める権利があるのでね。で、現場の人間がある程度減るとプロジェクトは破綻する(たぶん)。そうなると困るのは会社(経営陣や株主)なので、そういった事態が起こらないよう、会社は早いタイミングで、そのようなリスクを引き起こす危険因子を特定し、排除したほうがよい。そのためには、現場にしっかり耳を傾けて、適切な人員を配置し、YESと強要することがない文化を醸成することが重要だと思う。
ただまぁ、こんなのはただの希望的観測なのかもしれない。実際には現場の従業員がいくらやめて、あまつさえプロジェクトが炎上したり失敗したとしても、会社の業績や屋台骨にはあまり響かないか、響いたところで経営者も株主もたいして困らないのかもしれない。
でも、現場で働いている人間としては、「YESと言え」環境で働くのは大変しんどいので嫌なんだよなぁ。経営者や株主だって、トラブルになったら嫌だと思うんだけど。
2025-09-30
# にゃー
「考えすぎない」ことをテーマにした本があるらしい。でも、考えすぎないこと自体を問題と捉えても仕方がないと思う。
「考えすぎる」という事態がどうして発生しているかというと、原因として「不安」があると思うから。不安だから考えすぎてしまう。「大丈夫かな?」とか「もっとこうしたほうがいいんじゃないかな?」とかうじうじ考えてしまって、何もできないことが問題というパターンがほとんどだろう。
だから不安を取り除かなければ、考えすぎるという状況は変わらない。考えすぎないように、考え方を変えるとか心持ちを変えるとか見方を変えるとかは、まったく意味がないとまでは言わないけど、効果が薄いと思う。じゃあどうすれば考えすぎるのをやめられるかというと、それはもう行動しかない。
考えすぎることの原因は不安で、不安を引き起こしている原因は、現実だ。場合によっては家庭環境などに問題があって、長年のストレスによって不安障害が身体に染み付いてしまっている場合もあるだろうから、短期的にどうにかできる「現実」(外部的な要因)とそうでない「現実」(自己に内在化してしまった要因)があるだろうけど、でもどちらにせよ、そいういった現実を変えるためになんとか行動することが重要だと思う。
結局のところ、「現実」は「行動」によって変えられる。だから行動を起こすことが重要。考えすぎて行動ができないのに、行動することが重要とか言われてもどうしろというんだという話ではあるので、鶏卵の問題なんだけど。のび太の名言で、「うまくなってから練習しよう」という言葉がぼくは大好きなんだけどね。でも、それでも何か行動しないことにはそのループから抜け出せないんだよ。
「そうは言っても」という気持は分かる。だからここで、いいニュースが一つある。ここでいう「行動」というのは、大きなものでなくても大丈夫ということだ。むしろ本当に小さくて、誰の目にも見えないほどのことでいいから、とにかく何かを実行してみること。お水を飲むとかでもいいし、深呼吸してみるとかでも大丈夫。そういう小さいことができたら、次は顔を洗ってみるとか、歯を磨いてみるとか、着替えをしてみるとか、何かを買いに出かけてみるとかができれば素晴らしい。部屋の片付けなんかは最高だし、日記を付けてみるというのもこのうえない。
とにかくなんでも、やれそうな範囲のことからで良いから行動してみる。そんな小さなことでも、何かが変わるんだよ。そうやって現実が少しずつでも変わっていけば、だんだん考えすぎることが減っていくと思う。「考えすぎる」というのは字義通り「考えること」と「行動すること」のバランスが取れていない状態だからね。「考えること」の量を減らすという方法もあるけど、「行動すること」を増やして、とにかくバランスさせることが必要だろう。
「考えすぎる」という事態がどうして発生しているかというと、原因として「不安」があると思うから。不安だから考えすぎてしまう。「大丈夫かな?」とか「もっとこうしたほうがいいんじゃないかな?」とかうじうじ考えてしまって、何もできないことが問題というパターンがほとんどだろう。
だから不安を取り除かなければ、考えすぎるという状況は変わらない。考えすぎないように、考え方を変えるとか心持ちを変えるとか見方を変えるとかは、まったく意味がないとまでは言わないけど、効果が薄いと思う。じゃあどうすれば考えすぎるのをやめられるかというと、それはもう行動しかない。
考えすぎることの原因は不安で、不安を引き起こしている原因は、現実だ。場合によっては家庭環境などに問題があって、長年のストレスによって不安障害が身体に染み付いてしまっている場合もあるだろうから、短期的にどうにかできる「現実」(外部的な要因)とそうでない「現実」(自己に内在化してしまった要因)があるだろうけど、でもどちらにせよ、そいういった現実を変えるためになんとか行動することが重要だと思う。
結局のところ、「現実」は「行動」によって変えられる。だから行動を起こすことが重要。考えすぎて行動ができないのに、行動することが重要とか言われてもどうしろというんだという話ではあるので、鶏卵の問題なんだけど。のび太の名言で、「うまくなってから練習しよう」という言葉がぼくは大好きなんだけどね。でも、それでも何か行動しないことにはそのループから抜け出せないんだよ。
「そうは言っても」という気持は分かる。だからここで、いいニュースが一つある。ここでいう「行動」というのは、大きなものでなくても大丈夫ということだ。むしろ本当に小さくて、誰の目にも見えないほどのことでいいから、とにかく何かを実行してみること。お水を飲むとかでもいいし、深呼吸してみるとかでも大丈夫。そういう小さいことができたら、次は顔を洗ってみるとか、歯を磨いてみるとか、着替えをしてみるとか、何かを買いに出かけてみるとかができれば素晴らしい。部屋の片付けなんかは最高だし、日記を付けてみるというのもこのうえない。
とにかくなんでも、やれそうな範囲のことからで良いから行動してみる。そんな小さなことでも、何かが変わるんだよ。そうやって現実が少しずつでも変わっていけば、だんだん考えすぎることが減っていくと思う。「考えすぎる」というのは字義通り「考えること」と「行動すること」のバランスが取れていない状態だからね。「考えること」の量を減らすという方法もあるけど、「行動すること」を増やして、とにかくバランスさせることが必要だろう。
2025-09-24
# にゃー
カメラの話。ニコンがZRというシネマカメラを発表したとのこと。
で、シネマカメラとは何ぞや?という疑問を呈している人を見かけた。
それで感じたこと。
最近のカメラは高機能すぎるというか、高級すぎるというか、とにかくすごい。すごすぎる。
でも。「すごい」というのは個人的には手が出しづらくなっちゃうんだよね。
そういう製品は値段も高くなるし。
これは前にも書いたことがあるけど、シンプルで非力なものを限界まで使いこなすほうが、個人的には楽しく感じる。人馬一体の感覚みたいなものがあるし、ライトウェイトスポーツカーに乗っているような感じ。バイクだって排気量の大きいものに乗るより50CCとか125CCぐらいを振り回すほうが楽しいらしいけど、それと同じだと思う。
PCにおいては、Zaurusという小さくて非力なコンピュータを使うほうが、高性能なPCを使うより楽しいと昔書いたことがあるけど、それも同じ。結局高度で複雑でブラックボックスになってしまった道具を使っても、世界や自然と直接対話できなくなってしまってしんどいということじゃないかな。
だから趣味で使う道具なんかは敢えてシンプルな思想、設計で作ってくれるほうがいいし、仕事で使う道具でさえそうであってほしい。そうじゃないと正しいことをやっているか自信が持てないし、何をやっているのか分からなくなってしまう。
なんなら道具に限らないかな。社会自体ももっとシンプルで直接的であったほうが、人間にとって「優しい」気がする。現代社会はもう、何が真実かも分からないし、人とのコミュニケーションが難しすぎる。もっと地に足のついた生活をして、手触りのある、身体的な関係性でなければ、難しいのではないか。
なんかカメラの話だけではなくなったけど。
で、シネマカメラとは何ぞや?という疑問を呈している人を見かけた。
それで感じたこと。
最近のカメラは高機能すぎるというか、高級すぎるというか、とにかくすごい。すごすぎる。
でも。「すごい」というのは個人的には手が出しづらくなっちゃうんだよね。
そういう製品は値段も高くなるし。
これは前にも書いたことがあるけど、シンプルで非力なものを限界まで使いこなすほうが、個人的には楽しく感じる。人馬一体の感覚みたいなものがあるし、ライトウェイトスポーツカーに乗っているような感じ。バイクだって排気量の大きいものに乗るより50CCとか125CCぐらいを振り回すほうが楽しいらしいけど、それと同じだと思う。
PCにおいては、Zaurusという小さくて非力なコンピュータを使うほうが、高性能なPCを使うより楽しいと昔書いたことがあるけど、それも同じ。結局高度で複雑でブラックボックスになってしまった道具を使っても、世界や自然と直接対話できなくなってしまってしんどいということじゃないかな。
だから趣味で使う道具なんかは敢えてシンプルな思想、設計で作ってくれるほうがいいし、仕事で使う道具でさえそうであってほしい。そうじゃないと正しいことをやっているか自信が持てないし、何をやっているのか分からなくなってしまう。
なんなら道具に限らないかな。社会自体ももっとシンプルで直接的であったほうが、人間にとって「優しい」気がする。現代社会はもう、何が真実かも分からないし、人とのコミュニケーションが難しすぎる。もっと地に足のついた生活をして、手触りのある、身体的な関係性でなければ、難しいのではないか。
なんかカメラの話だけではなくなったけど。
2025-09-16
# にゃー
↓のような記事を読んだ。
家族持ちのエンジニアが副業や勉強に精を出しすぎて家庭が壊れてしまう現象を僕の観測範囲内でも片手に収まらないぐらい観測してる→「家族との対話大事」「365日働きたい」
https://posfie.com/@kalofollow/p/UFMTkRl
SNSの意見では「そんな風に働きたい」とか「家庭を省みないのは社会不適格者」といった意見が多いみたい。
ぼく自身はプライベートな時間でたいして勉強しているわけではないし、勉強が好きだったり楽しいと感じたりできない中途半端な人間なのだけど、そんなに打ち込んで勉強できる人は尊敬する。
もちろん、家庭も大切にしないといけないし、現代において365日24時間働くなんてのは不正義なのかもしれないけど。ただ、それが本当に不正義かどうか、働くとはどいうことかについて、他の人があまり指摘していないことをここでは書きたい。
この記事を読んで思い出したのは、昭和のころのような昔の世代の研究者だ。『白い巨塔』なんかを読んでいてもそういう研究者(白い巨塔の場合は大学病院に勤務する医師・助教授クラス)が出てくるけど、そういう昔の研究者って、ものすごく勉強するんだよね。
家でも自室に籠って勉強し、研究に邁進する。そして妻や子供は、そういった旦那の仕事を邪魔しないよう、旦那が自室に籠っているときは静かに暮らし、ひっそりと影で支えるというのが、たぶんその時代は普通だったんだと解釈している。
研究者というのは、それくらい勉強しないと成り立たない職業ということだと思うし、研究者に限らずとも、「何かを為す」ためにはそれほどの献身が必要だということを、本人も家族も(そしてたぶん社会も)その当時は理解し合意していたんだと思う。
ぼく自身は研究者にも何者にもなれなかった人間だけど、正直なところ、そういう人間には憧れがあるし、そういう人がいたら応援したいなと思う。だって、「仕事」に身を捧げるというのは崇高で尊いものだというイデアが自分の中にあるから。
こんなの、侍の時代の考え方で時代遅れの害悪なのかもしれないけどさ。でも、現代においてさえ、政治家やトップの研究者や芸術家は(もっといえば役人、職人、商人においてさえ)、そのレベルの献身をもってことに当たるのが「当たり前」なんじゃないのかな?
逆にそういう真剣さをみなが手放してしまったことで、政治も研究も社会も、なんか変なことになっているような気がする。なんのために働くのか、なんのために生きるのか、そういうことが本当に分かりにくく、合意されていない時代になってしまった。
家族持ちのエンジニアが副業や勉強に精を出しすぎて家庭が壊れてしまう現象を僕の観測範囲内でも片手に収まらないぐらい観測してる→「家族との対話大事」「365日働きたい」
https://posfie.com/@kalofollow/p/UFMTkRl
SNSの意見では「そんな風に働きたい」とか「家庭を省みないのは社会不適格者」といった意見が多いみたい。
ぼく自身はプライベートな時間でたいして勉強しているわけではないし、勉強が好きだったり楽しいと感じたりできない中途半端な人間なのだけど、そんなに打ち込んで勉強できる人は尊敬する。
もちろん、家庭も大切にしないといけないし、現代において365日24時間働くなんてのは不正義なのかもしれないけど。ただ、それが本当に不正義かどうか、働くとはどいうことかについて、他の人があまり指摘していないことをここでは書きたい。
この記事を読んで思い出したのは、昭和のころのような昔の世代の研究者だ。『白い巨塔』なんかを読んでいてもそういう研究者(白い巨塔の場合は大学病院に勤務する医師・助教授クラス)が出てくるけど、そういう昔の研究者って、ものすごく勉強するんだよね。
家でも自室に籠って勉強し、研究に邁進する。そして妻や子供は、そういった旦那の仕事を邪魔しないよう、旦那が自室に籠っているときは静かに暮らし、ひっそりと影で支えるというのが、たぶんその時代は普通だったんだと解釈している。
研究者というのは、それくらい勉強しないと成り立たない職業ということだと思うし、研究者に限らずとも、「何かを為す」ためにはそれほどの献身が必要だということを、本人も家族も(そしてたぶん社会も)その当時は理解し合意していたんだと思う。
ぼく自身は研究者にも何者にもなれなかった人間だけど、正直なところ、そういう人間には憧れがあるし、そういう人がいたら応援したいなと思う。だって、「仕事」に身を捧げるというのは崇高で尊いものだというイデアが自分の中にあるから。
こんなの、侍の時代の考え方で時代遅れの害悪なのかもしれないけどさ。でも、現代においてさえ、政治家やトップの研究者や芸術家は(もっといえば役人、職人、商人においてさえ)、そのレベルの献身をもってことに当たるのが「当たり前」なんじゃないのかな?
逆にそういう真剣さをみなが手放してしまったことで、政治も研究も社会も、なんか変なことになっているような気がする。なんのために働くのか、なんのために生きるのか、そういうことが本当に分かりにくく、合意されていない時代になってしまった。