メッセージ。 - diary

2022-01-22

# にゃー

人間と動物と、どちらが幸せか分からなくなってくる。せいぜい動物は、飢えたり食べられたり凍えたり怪我をしたりして死ぬだけだ。
2022-01-22 02:09:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-11-01

# にゃー

「どうして人を殺してはいけないか?」って、こういうことじゃないかな。

「それが現時点であなたに与えられたルールだから」。

たとえば、あなたが戦争に行くとする。するとそこではこう命じられる。
「敵を殺せ」と。つまり、「人を殺してはいけない」というルールは一部変更される(味方を殺していいわけではないので、「一部」と呼ぶ)。

ここでいう「ルール」というのはその程度のものだ。国や社会がそのときどきで人々に課すもので、ときと場合によって変わりうる。絶対的なものとは異なる。

いやいやそうはいっても、日本国憲法には「戦争の放棄」が規定されているので、日本人である場合は戦争になっても「敵を殺せ」とは命じられないだろうという意見もあるかもしれない。

しかし、日本は現在でも死刑制度を採用していて執行もなされている。つまり、日本人は合法的に人(日本人)を殺している。よって、質問の前提となる「人を殺してはいけない」というルールはすでに、日本では100%の形で成立していない。日本の法や実態としての法運用は、(国家の名においてならば)「人は人を殺してもよい」と規定している。

つまり、国家は暴力の権利を保持していて、かつ国家は個人から暴力の権利を剥奪している。私刑の禁止であり、逆にいえば「公刑」は肯定されている。個人的な(私刑のような)形で人を殺すことは許されないが、団体としては国家の命があれば人を殺すことはできるというか、命じられれば殺さなければならない。

実際問題、いまも死刑が執行されるたびに、日本の人口マイナス一人分の1だけ、あなたも私も人を殺していることになる。あるいは、世界のどこかで戦争で人が死んだり死刑が執行されたりするたびに、あなたも私も何億分の1か人を殺しているともいえる。
2021-11-01 00:33:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-10-31

# にゃー

テスト


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テスト
2021-10-31 11:54:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-10-10

# にゃー

(人間の)女性の性欲というのがよく分かっていないのだけど、こういうことなのかな?と思ったのでメモ。

仮説:女性は「アルファ男性から欲望されたい、アルファ男性と関係を持ちたい、アルファ男性から襲われたい、アルファ男性から守られたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、欲望そのままに生きることはできない。社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、原始的な性欲を単純に発露し現実のものとすることに対する危険性を学習することで、それとはもっと異なった形で欲が叶えられることを希望する。

同様のことが男性についても言える。男性は「だれかれ構わず女性を欲望し、女性と関係を持ちたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、ほとんどの男性は「だれかれ構わず女性を襲いたい」などとは微塵も思わなくなる。動物的な衝動はうちに残っているかもしれないが、理性と人格がそれを抑圧し、まったく異なった形で欲望を内在化する。

どちらのケースも、物理的な肉体のもつ「欲」は抑圧され、精神のもつ「欲」がその人個人の「欲」として自他ともに認知される。たぶん、ほとんどの人がそういう状態になっているのだけれども、一部に自制ができない人がいて、事件が起きる。ただ、自制できない人の絶対数は、(とくに平常状態において)基本的には多くないのではないか。女性は電車に乗ると相当な頻度で痴漢にあうというが、人口に占める痴漢の割合は多くないという説があるが、それと似たような関係性にあるのではないかと思う。

ネットを見ていると、「どうせ男はこうでしょ」といった意見を見かける。たしかに、原始的な(先天的な)欲求としては男なんてそんなものと言えるかもしれない。ただ、多くの女性がそうであるように、多くの男性は学習によって原始的な(先天的な)欲求を抑圧し、理性や人格を身に着けている。そういう人間にとって、原始的な(先天的な)自分は、イコール「自分」というわけではない。原始的な(先天的な)自分はたしかに内在しており消え去ってもいないけれども、人間にとってはその後身に着けた理性や人格こそが(社会における)自分である。
だから理性や人格を否定されてしまうのは悲しい。

結局のところ、相手の人の理性や人格を尊重しない人がいたり、そういったできごとがあったりして、悲しい声が聞こえてくるということなんだろうな・・・。
2021-10-10 11:18:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-10-08

# にゃー

昔から青春という言葉が好きではない。その定義もよくわからないし、性的なイメージが想起されることから、そういうことに前向きになれない自分には青春らしきもの参加したいという気はさらさら起きなかった。あるいは、自分の過ごす時間のなんらかが「青春」の一部として捉えられることを嫌悪する気持ちがあった。そういった気持ちはいまもあり、実際のところそれらを肯定できないことで、(その後も含めて)人生のそれなりの時間を浪費してしまったかもしれないとも思う。

ただなんとなく、「では青春とは何か?」という問いに対しては、ふと「これではないか」という感触を得たので書き下してみる(もちろん辞書で調べたりGoogleで検索したりすればすぐに結果が分かるようなことなのかもしれないが、この文章を書くにあたって、あるいはこの人生の時間をここまで過ごすにあたって、そういったことはこれまで特段していない。いや、いままでまったくそういうことをしなかったというわけではないがとにかく)。

よく分からないが、「青春」を英語に訳すならば「tean-ager」ということになるのではないかと思う。要するに、10歳から20歳ごろになると人間にはいろいろなできごとが起こる。その原因としては、

- ホルモンの変化やある種の肉体的形質変化といった性的・肉体的な変化
- 知識の増大による思索範囲、思索方向の変化
- 周囲の人間の変化、およびその相互作用によって引き起こされるできごと
- 進学や受験、就職、成人といった社会的制度によって引き起こされる生活環境の変化と、変化にともなう不安やギャップ、ある種の「事件」
- 現在の自分と、「こうあるべき」自分、あるいは「こうありたい」自分のギャップに対する不安、未知なるものへの不安やリスク、および実際にその変化によって引き起こされたできごと・体験(これはとくに受験や就職、成人といった社会的制度の影響も大きい)

といったものが思いつく。

ここにあげたような強度の高い「変化」や「体験」は、なにも10歳から20歳だけに起こるものではない。ただ、なぜだかこの社会では、10歳から20歳のあいだのこの時期を、あるいはその時期に起こりうるリスクやハプニング、起こったできごとを「青春」と呼ぶらしい。

一つ解せないのは、彼らがこれを肯定的に捉えているように見えることだ。もしかしたらここを通過した人たちのいくばくかは、彼らの身にこの時期に起こった「良いこと」を「青春」に結びつけて記憶したりしているのかもしれない。しかし、いうまでもなく、この時期の生活にはリスクもある。「良いこと」も起これば「悪いこと」も起こるのだ。

青虫が蝶になるとき、青虫はさなぎになって体を作り変える。本当かは知らないが、さなぎになったとき、青虫の体はどろどろに溶けてその肉体構造は完全に作り変えられると聞いたことがある。その過程で失敗して死んでしまう青虫もいれば、朝になれる青虫もいる。

10歳から20歳というのは、要するに子供から大人に変わる時期を指しているのだろう。その過程においては、当然大きな混乱や再構築、およびそれらによってできごとが引き起こされる。それを彼らは「青春」と呼んでいるのではないか。
2021-10-08 08:00:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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