メッセージ。 - ちゃんとする話

# ちゃんとする話

もうすぐ8月。最近よく母親から電話がかかってくる。お盆には実家に帰ってこいっていうことなんだろうなぁ。でもたぶん、実家に帰ると父親と喧嘩になる。「ちゃんと仕事をしろ」とか言われるのが目に見えている。帰るの嫌だなぁ。

だいたい、ぼくにはもう構わないでほしい。一人でできるし、一人でやらなきゃいけない歳なんだから。あの人たちが口出しすることが、逆の意味を持っている(いつまでも子供扱いすることは双方のためにならない)とぼくは考えている。…こんな歳になって、こんなことをボヤかなきゃいけないことが情けないが、現実なんだから仕方がない。

それにしても、「ちゃんと仕事をする」というのは、どういうことなんだろうか。そりゃあぼくだって、仕事をしようとは思っている。生活するのにお金が必要で、お金がなければこの先結婚もできないし、病気になることもできない(医者にかかるお金がない)。でもなかなか、適当な仕事がない。

父親はよく「ちゃんとしろ」とか言うのだけど、「ちゃんと」というのはどういうことなんだろうか。嫌な仕事も我慢してやれということなんだろうか。彼はとにかく「ちゃんと」という言葉をよく使う。帰省して顔を合わせたら、この問題について話しあわざるをえないだろうけど、「ちゃんと」がどういう意味か、彼はきっと冷静に説明することはできない(いつもがそうだから)。

彼はいったいなにをイメージしているんだろうか、ボンヤリと考えている。もしかしたら、「ちゃんと」という言葉が意味するところは、「世間様にたてついたらエラいことになる」というようなことなのかもしれないなぁと思う。でも、だとすればそういう考え方も嫌なのだ。「理不尽なことでもとにかく我慢しろ」と言われるのは嫌だ。

そりゃあぼくだって、必要なときには我慢もする。でも、我慢をするのはそれがいつか実を結ぶと信じられるからだ。目標があるなら我慢もできる。でも「とにかく我慢をしろ」とか言われたら困るのだ。ぼくたちは、我慢をするために生きてるんじゃない。我慢もときには必要だけど、もっと人生は楽であってよいと思う。世界はもっと人生に寛容であってほしい。

これまでずっと、ぼくは我慢をしてきた。多くを望まず、多くを得てこなかった。日本に生まれただけで多くを得ているという考え方もあるが、そういう物質的な豊かさがイコール各個人の幸福ではないので、ここでは「物質的に多くを得たこと」を「多くを得た」に含めない。

ぼくの能力が凡庸か平均以下であるから、多くを得られなかったのかもしれない。ぼくの努力が足りなかったのかもしれない。ぼくがボーッとしてたから、人生がボーッと過ぎていくのかもしれない。まぁ反省すべきことはたくさんあるだろう。でも適当なところで反省は止そう。当然誰だって反省しているんだから。「反省だけをしろ」という言葉に従う必要はない。

そもそも、他人を押し退けてまで多くを得たいと思わないからいいんだけど。なんかこう、少し楽に生きたいだけなんだよなぁ。楽っていうのは、ズルをするということではなくて。あと、他人と比べて「相対的に楽」ということでもなくて。楽しく生きたいというかね。そんなこと自体が、望むべくもない夢なんだろうか。
2009-07-25 10:58:39 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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