メッセージ。 - diary
2026-06-16
# にゃー
いまいる職場で、全体ミーティングのようなものを定期的にやっている。たまたまそのファシリテートを担当しているのだけど、正直なところそのミーティングの目的とか意義、フレームがはっきりしない。みんなの貴重な時間を使う意味があるのか、何のために何を話しあえばいいのか、実は全然分かっていないのにほぼ惰性でミーティングを開催している。
で、そういう状況は問題だと思って目的や意義を模索してたんだけど、最近はむしろその状況こそが意味のあることのように感じている。それはつまり、「我々はどういうチームなのか、何をやりたいのか、どういう人たちがどういうことをやっているのか」を模索する場になっているから。
チームとして仕事をしている以上、そこで何かしらの化学反応やイノベーションが起こってほしい。それに、「自分たちはどうありたいのか、どこへ行きたいのか」、そういうことを考えて行動できるベース(基地)になっている実感がある。「自分たちのことは自分たちで決められる」、その認知やアフォーダンスがまず重要。そしてそれを実現するためにはまずお互いを知る必要がある。それは全然難しいことではない。
で、そういう状況は問題だと思って目的や意義を模索してたんだけど、最近はむしろその状況こそが意味のあることのように感じている。それはつまり、「我々はどういうチームなのか、何をやりたいのか、どういう人たちがどういうことをやっているのか」を模索する場になっているから。
チームとして仕事をしている以上、そこで何かしらの化学反応やイノベーションが起こってほしい。それに、「自分たちはどうありたいのか、どこへ行きたいのか」、そういうことを考えて行動できるベース(基地)になっている実感がある。「自分たちのことは自分たちで決められる」、その認知やアフォーダンスがまず重要。そしてそれを実現するためにはまずお互いを知る必要がある。それは全然難しいことではない。
# にゃー
何かを上達したいとき、人それぞれに合う合わないはあるけれども、一番効果があるのはやはり教科書にあたったり先生に師事することのはずだ。けれども、教科書や先生には1つ大きな問題があって、それが往々にして「面白くない」体験になること。
一般的にいって、物事を学ぶのは独学でやるほうが楽しい。なぜなら好き勝手にやれるから。教科書や先生に教わると、自分の好きにはできない、というか、とくに先生がつくと「やらされている」感じが出てしまうことが多いと思う。
「やりたいこと」よりも「やらなければいけないこと」が優先になるからしんどくなる。どうにかして「やらなければいけないこと」を楽しくやれるといいのだが。
教育学というのがどういうことを研究しているか全然知らないのだけど、「楽しさ」みたいなものは研究されてるんだろうか。経営にも通じるけど、人々のやる気を出させることは、技術論とかと同じだけ大事なはずなのに、とても軽視されている。
一般的にいって、物事を学ぶのは独学でやるほうが楽しい。なぜなら好き勝手にやれるから。教科書や先生に教わると、自分の好きにはできない、というか、とくに先生がつくと「やらされている」感じが出てしまうことが多いと思う。
「やりたいこと」よりも「やらなければいけないこと」が優先になるからしんどくなる。どうにかして「やらなければいけないこと」を楽しくやれるといいのだが。
教育学というのがどういうことを研究しているか全然知らないのだけど、「楽しさ」みたいなものは研究されてるんだろうか。経営にも通じるけど、人々のやる気を出させることは、技術論とかと同じだけ大事なはずなのに、とても軽視されている。
2026-06-11
# にゃー
「車輪の再発明」という言葉はどうなんだろうねと、以前から思っている。というのも、ほとんどの人間がたどり着けるところは車輪の再発明だから。少年老いやすく学成り難し。どれほど研鑽を積んでも、新規性のあるものを作るのは難しい。「そんなのは車輪の再発明だ」と言われれば、それはそうだ。その難しさのなかで学者は戦っている。まぁそもそも最初から、生命サイクル自体が車輪の再発明だ。生まれ、学び、歩いて朽ちてゆく。個々人が獲得していくその営為。そこに生まれ、共有される喜びも悲しみも、努力も諦めも、すでに誰かが通った道だ。それを「車輪の再発明だ」と簡単に切り捨てるのなら、生まれるのをやめたほうがいいし、生命もこの世界もいらない。