メッセージ。 - diary

2018-06-25

# 性とか恋愛ってなんだろう

挿入は要らない|自分の中の、同性愛と性行為についての考察 - ニャート

 だけど、自分を「同性愛者」だとラベリングはしない。
 ラベリングすることで、また不自由になってしまいそうだからだ。
 自分の性愛のあり方を、ただ素直に受けとめる。私は私。

これ(↑)は分かる。ふんふんなるほどと思うんだけど。

 次こそは、その人個人に恋したい。

なんでこうなるんだろう。まず、「恋したい」というのがよく分からない。恋をする前提は、外せないんだろうか。
「次がまたある」という暗黙の前提はどこからやってくるんだろうか。

そして、「その人個人に」という部分。本当にその人個人を見るんだったら、別に相手が男性でも女性でもよくなくない?いや、前提条件としてこの文章には「可愛い女の子を見て、とにかく幸せな気分になる~」といったくだりがある。だから、はなから男性は選外になっているのだろう。

しかしその時点で、「その人個人」というよりも「甘くやさしい女の子らしさ」という属性に惹かれているのではないか。その人個人の中身よりも、身体的特徴が主たる対象になっているのではないか。たとえば、最高に気の合う人がいたとしても、「甘くやさしい女の子らしさ」を持ち合わせていない人だったら、どうなるんだろうか。

つまりそれが、「性欲」というものなのかもしれない。相手の人の中身ではなく、身体的特徴を欲望してしまう、消費したくなってしまうということなのかもしれない。「いや、そこはそうじゃないんだ。『甘くやさしい女の子らしさ』という前提条件は外せないけど、その先はどっぷり中身なんだ。中身しかないんだ」ということなのかもしれないけど。

「性」とか「性欲」というものを考えたとき、結局のところは人間の入れ物である身体、動物・生物の生理反応以上のものであるのだろうか?「いや、人間には心があるのだから、動物・生物の生理反応に影響を受けつつも、それを超えた心的つながり、精神の無辜なる友愛を生じせしめ、永遠という神を欲し追究する究極の美学なのだ。つまり、動物とは違うのだ」ということなのだろうか。しかし、やはり「欲」というからには、自己の生存こそがその存在理由であり、友愛や美学からはだいぶ遠いのではないかと思う。

個人的に、性欲とか恋愛というのが、よく分からないんだよな。

 好きな人とイチャイチャしながらお風呂に入った後、あたたまった身体にやさしく触れて、特に達することなくただ一緒に眠れたら、どれだけ幸せだろう。

たしかに、これは幸せなんだろうと思う。しかし、これが最終的で究極的な幸せなんだろうか。イチャイチャして、ただ一緒に眠る。それは、性欲を満たすのには、あるいは恋愛を成就させるという点ではゴールなのかもしれない。しかし、性欲を満たせれば、あるいは恋愛が成就できれば、それが幸せなんだろうか。心が満たされるんだろうか。

「恋をする」というのがゴールや前提になっている意見はけっこうよく見かけるけど、本当にそうなんだろうか。それこそラベリングじゃないんだろうか。「いや、そんなことはないんだ。私の中のゴーストが囁くのだ」ということなのかもしれない。だったらそれでいい。

ただ、ぼく自身には本当に分からなくて。恋愛とか性欲とか、いやそれ以前の基本的な人間関係、社会関係というのが、ぼくにとってはものすごく難しいものに感じられる。理想や希望が遠すぎて、悲しいほどみじめな現実だけが手のひらにあるという状態で。人生なんてのは、思ったとおりには行かないもんだ。何一つ思うとおりには行かない。

でも。思う通りに行くことがすべてではないとも思う。簡単すぎる問題を解くのはつまらないように、簡単すぎる人生を生きるのもつまらない。また、思ったとおりでない結果が、案外悪くなかったりもするものだ。いずれにせよ、現実をまず受け容れること。そして、現実は少しずつでも、少しずつなら変えられると信じること。そういったことをつねに思っている。そして、そういった話をたまにでもできる友達がいて、この美しい世界をともに散歩でもできればうれしいなと、ただ思うのだ。
2018-06-25 00:45:30 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-04

# にゃー

国民の国民による国民のための政治、ただそれが欲しいだけなのにな。現実はあまりにもひどすぎる。
2018-06-04 09:11:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-05-14

# にゃー

結局、好きなことをやってないといかんのだよなぁ。こないだテレビで、繁盛しているラーメン店の親父がバカになることの重要性を説いていた。「こんなラーメンバカが、世の中にいたっていいんですよ」と。そしてやっていることもすごく立派だった。一言でいうと哲学的ですらあった。一方で自分は、バカと呼べるだけ打ち込んでいることが、何かあるだろうか。「これが好きで好きで仕方ない」と呼べることが何かあるだろうか。そこまで好きなことを持てる人は、強い。子供の教育だって、好きなことを見つけて打ち込ませてあげることが重要なんじゃないかと、最近思い始めている。そして、好きなことの対象は、たぶんそれほど重要ではない。好きを突き詰めることで、世界に通用する何かが実現されていくのではないかと思う。英語とか国語とか数学とか、そういったものも確かにあったらいいが、「好きな何かを突き詰める」ことを欠いていたら、それらの周辺スキルだけあっても、本物にはなりにくいだろう。
2018-05-14 09:24:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# にゃー

世の中には、めんどくさいことがいっぱいある。それを解消することはビジネスになる。つまり、ビジネスチャンスはいっぱいある。はず、なんだよな。
2018-05-14 08:39:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-04-30

# にゃー

test

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2018-04-30 21:00:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2017-11-02

# にゃー

少し前に香港に旅行に行ってきたんだけど、感想を一言で言うとすごかった。その凄さの1つをキーワードで表すならば、生活感とでも言おうか。とにかく人で溢れている街だ。そしてその人のエネルギーは、生活感として溢れ返っている。小さな街にものすごい人のエネルギーが詰め込まれ、狭いスペースを争うように最適化され、結果として整然と並んでいる。

ちょっと面白いなぁと感じたのは、その生活感が包み隠さずそこに置かれていたことだ。例えばベランダに干された洗濯物とか、建物の上にも横にも拡張された建物とか、お店の看板とか。そういう、生活感を包み隠さない態度は日本にもあるように思う。街を歩いていても、居酒屋や焼鳥屋の換気扇が通りに煙を吐き出しているし、小窓や何かが通りからも見えるようになっている。こういったものはヨーロッパの街にもあるんだろうか。

イタリアなんかには通りに洗濯物を干す習慣があるみたいだけど、その他の地域ではあまり見ないような気がする。生活感を隠すことへの美的価値観というか共通認識というか、ウチとソトの感覚みたいなものなのかなぁ。
2017-11-02 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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