メッセージ。 - 日本人のウチ・ソトから通じる主客のロールについて

# 日本人のウチ・ソトから通じる主客のロールについて

なんか最近、はてなブックマークの感じが悪いなぁと思っている。一時期話題になったネットイナゴみたいというか、みんなで憤って特定の対象に罵詈雑言を浴びせるみたいなのをよく目にする。記事を読んだときに、すぐどっちかに肩入れして感情的になるような人が多いのかなぁ。見ていて怖い。集団ヒステリーみたいな。もうちょっと優しくしてくれるとうれしいのだけど。まぁ裏を返せば、ぼくはぼくで、そういう事態に遭遇しがちな記事をよく見ているということだけど。で、今日見かけたのはこの記事。

オバさん「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな、購入は控えたほうがいい」飲み物を買うことすら快く思わない不寛容な人が話題に - Togetter

この件、「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな」という感覚を持つ人が一定数いる、というのは、ある程度事実なんじゃないかなという気がする。「それは不寛容だ」「そういうのを許す社会であるべき」という意見も分かる。しかし、なぜそういう人が一定数いるのか、そういう価値観の人がいるのかを理解しようとしないで、「許すべき」「変わるべき」と言っても、それはただの精神論や言い争いにしかならないように思う。

性急に感じてしまうんだよな。まぁ、はてなブックマークの仕様上100文字しか書けないから、十分な論考を書くのが難しいというのは分かる。しかし、何かコメントを書く前に頭の中で考えて、どちらかに偏らない、攻撃的でないコメントだけを残してみるというのは、不可能ではないはずだ。本来はてなブックマークに集う人たちというのは、それができる賢い人達だったと思うんだよなぁ。

で、コンビニの救急隊員立ち寄りの件なんだけど。救急隊員のような制服を着た人たちというのは、社会にとってはメタな存在なんだよね。社会の秩序を保つ監督者というか。黒子みたいなもので、基本的に、日本人は彼らが見えないことを期待しているように思う。だから、救急隊員や警察官が、私服でコンビニに行くのは全然違和感がないんだよ。なぜなら私服の人は、社会の監督者ではなく監督される者であり、お客様だから。

この「監督する者」と「監督される者」という言い方は、いくぶん分かりにくい。もっとストレートに言うと、主(あるじ)と客(きゃく)なんだ。日本人には、ある程度動物的・原始的な縄張り意識が強固にあって、いま自分が縄張りのウチにいるかソトにいるかを無意識のなかで常に理解して行動している。自宅の中ではもちろんウチだが、一歩戸外に出るとソトだ。そして、外に出てしまえば客(きゃく)として振る舞うことが社会から要請されている。客は、主の言うことに従わねばならない。逆に主は、客の安全を保証し、客同士のいざこざを裁定する義務を負う。

公道であれば、主は警察官であり国家だ。駅であれば主は駅員であり鉄道事業者だ。だからたとえば、公道において窃盗事件を目の当たりにしたとして、もしくは駅において病気で倒れた人がいたとして、それを見つけた日本人は、自らだけの判断で犯人を逮捕しようとしたり、病人を助けるために救急車を呼ぶということは躊躇われる。なぜなら、客の義務はまず主に報告することだからだ。窃盗の犯人を捕らえたり、直接駅に救急車を呼んだりすることは、客としての権限を超えた行為であり、何か起こったときの責任が取れないと感じてしまう。公道や駅において、客として期待される振る舞いは、あくまでも歩行者や乗客であって、それを逸脱する行為には、大きな心理的葛藤が生じるのだ。日本人にとって、「与えられたロール」というのは、それほど強固だ。

※逆に外国では、それほど主客のロールが強固でなく、主もテリトリーの安全を100%保証できない、する必要がないという考えから、客は自己の安全を自分で守る権限と責任があると見なされているように思う。そのためアメリカ人は銃を持ちたがるし、逆に日本では事件があると警察や場の主が強く責められるといった傾向があるのではないか。

だから、救急隊員や警察官や駅員の制服で、あるいは医師や看護師なら白衣で、学生なら学生服で、居ていい場所というのは限られる。日本人はその服装でロールを特定し、それに限られた振る舞いのみを許容するよう、無意識に強く刷り込まれている。しかも、そのロールは、基本的に見た目(制服、性別、年齢等)だけで判断される。全然違うトピックだけど、日本で生まれ日本で育ったハーフやクオーターの人(外国人の見た目を持つ人)が、日本語を話すと奇異に見られたり、どれだけ頑張っても外国人扱いされたりするのも何か共通の要因があるのではないか。

そういう日本人の基本的アルゴリズムがあるところに、「制服を着た人が私人として行動することに寛容であるべき」と単純に押し付けても仕方がないというか、コンフリクトを起こすだろう。それはつまり、主人と客の境界をあいまいにする言説であり、基本的アルゴリズムのセキュリティやプロトコルのインターフェースを脅かすことになるのだから。そういう寛容さを許容できるようにするには、基本的アルゴリズムのほうに手を入れるか、プロトコルを拡張するかしなければ、現実的な提案とはいえないのではないか。
2018-08-02 00:55:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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