メッセージ。 - にゃー

# にゃー

にわとりと卵の問題。たしかに、にわとりが先に生まれたのか、それとも卵が先に生まれたのか、考えてもよく分からない。でも、卵からはにわとりが生まれ、にわとりからは卵が生まれ、そのサイクルはぐるぐる回って少しずつ変容し進化を続けてきたはずだ。

にわとりか卵が最初に生まれてくる前にも、このサイクルがぐるぐ
る回っていたと考えると考えて間違いがない(だろう)。
であるならば、本当の問題(もしくはより大きな問題)は、
そのサイクルがどのようにしてスタートしたのか。つまり0から
1に変わったり、さらに1から2に進んだのはどういうプロセスなのかということではないか。つまり、どういう過程で無機物から有機物ができたのかという問いに還元されるのではないか(あるいは時間が進むとはどういう理屈なのか)。

また、人間など哺乳類の赤ちゃんは、お腹の中にいるときや生まれてくるとき、膜に包まれている。この膜が、鳥の場合は硬くなっていて、それが卵と呼ばれているだけと考えることもできる。そう考えたら、「にわとりが先か卵が先か」という問題は、どういう問いに帰結するだろう。「生体が先か膜が先か」になるだろうか?これは面白い問題で、しっくりくる表現がスッと出てこない。それと面白いのは、「卵」が「膜」に変わっただけで、「いったいそもそも何を知りたかったんだろうか?」という問いが出てくることだ。

「にわとりが先か?卵が先か?」と問われると、みな不思議に感じ興味深く思うけれども、ここまで見てきたように、その問いは「生体が先か膜が先か」という問いとイコールであるだろう(ほかにもイコールになる問いがあると思う)。そしてその問いは、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いとイコールになる(ちなみに、「無機物が先か有機物が先か」という問いとはイコールにならないはずだ)。

ところで、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いは、「にわとりが先か卵が先か」という問いに比べると、直感的には面白さが減じてしまうように感じる。後者では、無限に再帰しながらステートを辿るという問題を、人間の意識が自然と避け思考を停止しようとする作用の領域に対して、意識が踏み込もうとして面白く感じているようにも思う。
2020-01-10 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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