メッセージ。 -
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まちゅさん、コメントありがとうございます。お久しぶりです。
まず今回の件の本質ですが、必ずしも「労働に対する対価が支払われていないこと」ではありません。問題というのは、着眼点によって本質が違ってくるからです。一面だけを見て何かを言い切るのは、危険なことだと考えます。
それで、ええと本題ですが。まちゅさんがおっしゃられるような観点は理解できますし、そのような観点が妥当性をもっている可能性をある程度支持します。ただぼくは、必ずしも労働に対して対価が支払われるべきだとは考えていません。
どちらかというと、「労働が生み出した利益」に対して対価が支払われてもいいんじゃないかと考えています。つまり、いくら労働をしたからといって、その労働が利益を生み出していないのなら、受け取る対価は少なくてもよいだろうと。
これは結局、「会社と社員は一蓮托生だ」という考えに基づいています。やる気のない万年平社員にとっても、バリバリ働く役員にとっても、会社というのは1つの自己実現の場所です。会社そのものがなくなってしまうことは、社員にとっても役員にとっても不本意なことです。
「役員にはそれ相応の権限(と報酬)が与えられてしかるべき」というのは確かにそうでしょう。しかし同時に、「社員にはそれ相応の権限(と報酬)が与えられてしかるべき」だと思うのです。役員と社員のあいだに線を引き、彼らを2つに分ける必要などどこにあるのでしょうか。
ただ会社というのは1つではありません。100個の会社があれば100個のやり方がある。だから1つの形態として、役員と社員を分けるやり方をぼくは否定しません。そういうやり方はあっていいと思います。しかし同時に、そうでないやり方もあっていいと思うのです。また、そういうやり方は、少数精鋭のベンチャー以外でも成立する可能性はあると考えています。それはどちらかというとアジア的な商習慣に近く、実績ゼロというわけではないと思っています。
まず今回の件の本質ですが、必ずしも「労働に対する対価が支払われていないこと」ではありません。問題というのは、着眼点によって本質が違ってくるからです。一面だけを見て何かを言い切るのは、危険なことだと考えます。
それで、ええと本題ですが。まちゅさんがおっしゃられるような観点は理解できますし、そのような観点が妥当性をもっている可能性をある程度支持します。ただぼくは、必ずしも労働に対して対価が支払われるべきだとは考えていません。
どちらかというと、「労働が生み出した利益」に対して対価が支払われてもいいんじゃないかと考えています。つまり、いくら労働をしたからといって、その労働が利益を生み出していないのなら、受け取る対価は少なくてもよいだろうと。
これは結局、「会社と社員は一蓮托生だ」という考えに基づいています。やる気のない万年平社員にとっても、バリバリ働く役員にとっても、会社というのは1つの自己実現の場所です。会社そのものがなくなってしまうことは、社員にとっても役員にとっても不本意なことです。
「役員にはそれ相応の権限(と報酬)が与えられてしかるべき」というのは確かにそうでしょう。しかし同時に、「社員にはそれ相応の権限(と報酬)が与えられてしかるべき」だと思うのです。役員と社員のあいだに線を引き、彼らを2つに分ける必要などどこにあるのでしょうか。
ただ会社というのは1つではありません。100個の会社があれば100個のやり方がある。だから1つの形態として、役員と社員を分けるやり方をぼくは否定しません。そういうやり方はあっていいと思います。しかし同時に、そうでないやり方もあっていいと思うのです。また、そういうやり方は、少数精鋭のベンチャー以外でも成立する可能性はあると考えています。それはどちらかというとアジア的な商習慣に近く、実績ゼロというわけではないと思っています。
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