メッセージ。 - 作ることとあること
# 作ることとあること
最近はデジカメ遊びをしてて、写真を撮ったりしてる。それを発端に、作ることについて昔から漠然と考えていることについて。
誰かの写真を見て、それがうまい写真だとうらやましく思う。自分でもうまい写真を撮りたいような気がする。でも、よく考えてみると、自分は本当に「うまい写真」を撮りたいのか? うまい写真が撮りたいのか? よく考えてみると、そうじゃない。
ぼくはうまい写真を撮りたいとは思わない。うまい写真というのは「成績がいい」、「優等生」ということだから。ぼくは優等生というガラじゃないし、優等生になりたいとは思わない。「優等」であるために、ぼくは生きているのではないから。「優等」であることが、ぼくが生きることを許される根拠でもないから。だから劣等でいいし、劣等がいい。劣等はいい。ぼくは、「うまい写真」じゃなくて「いい写真」を撮りたい。
「そのジャンルを好きな人には分かる」という写真も嫌だ。宮崎駿監督の映画は、誰にだって良さが分かる。普通の人、映画好きじゃない人やアニメ好きじゃない人にも良さが分かる。どうせなら、そういう物作りがしたい。「面白い映画」の範囲を超えた「面白いなにか」。ジャンルの外にいる普通の人、興味のない人、外国の人にも分かるということが、普遍性であったり、価値であったりするのだろうと思う。
その「良さ」のすべてが、すべての人に分かるというのでなくてもよい。まったく分からないと感ぜられるのでもよい。でもその「良さ」が、なんとなく感じられたり、まるで見えないところで人の心を動かすように、影響を与えるものであってほしい。見てすぐ心を動かすものである必要はない。むしろ10年、30年経って、「ああ、あのときの映画はこういうことを言ってたのかもな」と思わせるようなものがいい。
「作品」というのも嫌。ぼくは自分の撮る写真や書くテキストが(あとソフトウェアも)「作品」になってしまうことを避けたい。作品というのは、非日常のもの、作られたものだから。写真もテキストも、「作られたものでないもの」であってほしい。それは作られたのではなく、ただそう在るもの。
彫刻家が素材を前にしたときに、なにかの形を彫っていくのではなく、もとからそこにあった(はずの)形をただ取り出そうとするように、それはそこに在る。そういうものを作りたい。
誰かの写真を見て、それがうまい写真だとうらやましく思う。自分でもうまい写真を撮りたいような気がする。でも、よく考えてみると、自分は本当に「うまい写真」を撮りたいのか? うまい写真が撮りたいのか? よく考えてみると、そうじゃない。
ぼくはうまい写真を撮りたいとは思わない。うまい写真というのは「成績がいい」、「優等生」ということだから。ぼくは優等生というガラじゃないし、優等生になりたいとは思わない。「優等」であるために、ぼくは生きているのではないから。「優等」であることが、ぼくが生きることを許される根拠でもないから。だから劣等でいいし、劣等がいい。劣等はいい。ぼくは、「うまい写真」じゃなくて「いい写真」を撮りたい。
「そのジャンルを好きな人には分かる」という写真も嫌だ。宮崎駿監督の映画は、誰にだって良さが分かる。普通の人、映画好きじゃない人やアニメ好きじゃない人にも良さが分かる。どうせなら、そういう物作りがしたい。「面白い映画」の範囲を超えた「面白いなにか」。ジャンルの外にいる普通の人、興味のない人、外国の人にも分かるということが、普遍性であったり、価値であったりするのだろうと思う。
その「良さ」のすべてが、すべての人に分かるというのでなくてもよい。まったく分からないと感ぜられるのでもよい。でもその「良さ」が、なんとなく感じられたり、まるで見えないところで人の心を動かすように、影響を与えるものであってほしい。見てすぐ心を動かすものである必要はない。むしろ10年、30年経って、「ああ、あのときの映画はこういうことを言ってたのかもな」と思わせるようなものがいい。
「作品」というのも嫌。ぼくは自分の撮る写真や書くテキストが(あとソフトウェアも)「作品」になってしまうことを避けたい。作品というのは、非日常のもの、作られたものだから。写真もテキストも、「作られたものでないもの」であってほしい。それは作られたのではなく、ただそう在るもの。
彫刻家が素材を前にしたときに、なにかの形を彫っていくのではなく、もとからそこにあった(はずの)形をただ取り出そうとするように、それはそこに在る。そういうものを作りたい。
Comment
Trackback