メッセージ。 - 一人称について

# 一人称について

一人称をどう表現するかというのは、なかなか難しい。たとえばおいらは、小学校に上がるときだったかに親から「ちゃんと自分のことを僕と言うんだよ」だかなんだか教わったものだ。それまでぼくは、ぼく自身のことを「僕」とは表現することがなかったし、そうする必要もなかったのだろう。だからぼくは、ぼくをぼくと表現することに、なんとも言えない座りの悪さを覚えた。けれどもまぁ、そう教わったからには、自分のことをぼくと表現しながら、ぼくは小学生生活をスタートすることにした。ところがこの試みは、すぐに問題にぶつかる。小学生の男というものは、自分のことをあまり「僕」とは表現しないからだ。ぼくの通っていた学校では、その当時自分のことは「俺」と表現する男の子が多くて、ぼくはすぐに、自分のことを「俺」と表現するほうが適切だろうと分かった。それでぼくはぼくのことを「俺」と呼ぶことにした。いずれにせよ、そのようにして、人は自己の人格を作っていく。

「さっちゃんはね、さちこっていうんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のことさっちゃんっていうんだよ。かわいいね、さっちゃん」という歌詞がある。けれどぼくは、さっちゃんのことを可愛いとは思わない。彼女は正しいと思う。さっちゃんは家では、「さっちゃん」と呼ばれているのだろう。親や兄弟が自分のことを「さっちゃん」と呼ぶのだから、「自分」は「さっちゃん」以外のなにものでもない。少なくとも第一義的な人格として、自分は「さっちゃん」なのだ。人が自分のことを「わたし」などと呼ばねばならないのは、その場に自分を知らない人がいるからだ。彼らは「さっちゃん」という自己のことを知らない。だから自己を表現する言葉として「わたし」を使う。でも結局のところ、わたしの本当の自己は、どちらかというと「さっちゃん」のほうが近い。そちらのほうが「本当」だ。

自己のことを「さっちゃん」ではなく「僕」や「俺」や「わたし」などと表現するとき、人間は第二義以降の自己人格を意識している。その言葉は、「自分のことを知らない誰か」に対して自分を表現するために使われる。だからもし、その場に自分を知らない誰かがいないならば、人は「僕」や「俺」や「わたし」という言葉を使わない。逆に言うと、「僕」や「俺」や「わたし」などといった言葉が使われるとき、人は第三者の存在を意識し、彼らのために何かを表現しようとしている。彼らと自分との関係において、人は自己をなんと呼ぶか決める。そしてまた本質的に、自己が認識する内容を誰かに表現しようという試みは、ちょっと難しいのだ。そこにいる「第三者」が誰であるかによって表現は変えるべきものであるし、第三者がどんな人間か理解するのが難しいため、表現は試行錯誤される。また一方で、事象を理解するというのも難しい問題だ。自己が直面しているこの事象が、いったいなんであるかを理解しようとするとき、人はさまざまな角度からその事象を見ようとする。そういった「さまざまな角度」に立とうとしたとき、人は「僕や俺や私」といった複数の自己人格を用いることがあるだろう。
2008-07-27 10:35:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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