メッセージ。 - 日本人のコミュニケーションには「徳」という思想があるという仮説

# 日本人のコミュニケーションには「徳」という思想があるという仮説

数日前に、渡辺京二さんの『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和へ』という本を読んだ。面白かった。それで、直接はこの本と関係ないのだけど、ちょっと思ったこと。

# 『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和へ』
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ある時期から、日本人のコミュニケーションには「徳」というベースがあるんじゃないかなぁ。ここでいう「徳」は、Win-Winのことを指してる。

日本人にとっては、双方が満足するコミュニケーション(取引)が「良いコミュニケーション(取引)」であって、しかも「誰もがそれを目指すべきである」という価値観を持っているように思う。

たとえば上記の本の中で、豊臣や徳川といった幕府と民衆の間には、ゆるやかな契約関係のようなものがあったと述べられている。彼らの関係は、もちろん支配―被支配の構図にはなっているけれども、それは必ずしも暴力による強制的なものではなかった。

本によると、豊臣・徳川幕府が成立する直前は、悲惨な状況だったらしい。朝廷や室町幕府の力が弱まるにつれ暴力が横行し、法も秩序もなく、世間は貧困と殺人と戦争と人身売買にまみれていたとのこと。そういった状況を克服し、平和をもたらしたのが豊臣・徳川幕府だった。

暴力が支配する世界は、そもそもアナーキー(無政府状態)が原因で起こったものだった。村々はめいめい土地と水と道と山の権利を主張し、有効な調停者がいないことで実質暴力によって問題は解決された。農民たちは村ごとに武装し暴力に対抗したが、戦いにあけくれる日々は、そもそもの農業生産に疲弊をもたらした。ながいあいだ、平和は農民をはじめとする国民の願いであっただろう。

だから、平和をもたらしてくれるような幕府が成立することを国民は歓迎したし、また幕府を作ろうとした人たちも、そもそも人民に平和をもたらすことを目的に活動していた。これはつまり、孔子が言うところの徳政だ。君子には人民を統べるだけの徳が求められるし、またそのような徳のある君子に対して、人民は誇りをもって臣民となる。

現代で言えば、Win-Winの関係だ。こういった関係は、支配者―被支配者の間で「あるべき形」として考えられたし、商売における販売者―消費者の関係にといても、また個人対個人の関係においても「あるべき形」とされたのではないか。そして現代にいたるまで、そういったWin-Winの関係、もっというと「徳」の考え方が、日本人のコミュニケーション観には息衝いているのではないかと思う。

一方で過去の歴史に目を向けると、イギリスやアメリカなどと日本の外交において、彼我の間のコミュニケーションはしばしばコンフリクトを起こしている。先方の外交手法は、当方を敵と見なす形でとられ、「双方が各々自国の利益を最大化することが当然(自国以外が不利益を被ろうと知らない)」という立場だ。しかし日本は外交手法においても、「双方の利益を最大化するべき」という「徳」の立場に立った。それゆえ齟齬が起こった。

ぼくが企業システムにおける「組合」に違和感を覚えるのも、そこに「徳」という概念が抜け落ちているからだ。組合という考え方は、経営者と雇用者が絶対的に対立することを想定している。しかし、そもそも日本においては、経営者と雇用者はそれほど険悪に対立していない。もちろん、経営者によっては悪徳経営に傾く企業もあるだろうけど、基本的に経営者は徳による経営を行うことが求められている(経営者側も雇用者側も、そのような経営を望んでいる)。悪徳経営が支配するときには、雇用者は一揆を行うこともあるだろうし、社会として悪徳経営を嫌う思想性がある。組合のように、「経営者はつねに搾取を試みている」いう想定のもとのシステムは、徳に対して牙を向くもので、日本の企業風土にそぐわないと思うのだ。
2008-08-18 21:42:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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