メッセージ。 - 大学が多すぎるという話について
# 大学が多すぎるという話について
大学というものが、ある時期から遊びに行く場所になってしまっているんだよね。また同時に、学士が1つのステータスとして扱われ、「就職のための切符」に矮小化されてしまった。みんなその切符が欲しいと殺到するので、名前を聞いたこともない大学が増え、勉強する意欲のない学生が氾濫しているんじゃないかとおもう。(かくいうぼくも、大学というのは遊びに行くところだとおもっていた)。
こうなっている大きな原因は、ベルトコンベア式に人間を扱う日本社会の習慣だと考えている。大衆も企業も、「いい大学を出た人がいい会社に就職でき、出世コースを歩む」と刷り込まれている。たとえばアメリカでは、いったん就職したり軍役についたりして社会人を経験した人が、後に大学に入って勉強しなおすことがあるが、日本ではそういった経歴は異例だ。
「新卒採用」という言葉に代表されるように、企業は4月、一律に大量の大学卒業者を採用し、プロパーとして育てていく。最近でこそ転職もそれほど珍しくなくなったが、しかし30代を過ぎるころから転職はかなり難しくなる。40代や50代ともなると、同業種内での戦略的な転職や、異業種(掃除夫や介護職ではないもの)への転職はほとんど不可能になるのではないだろうか。
なぜこうなっているかというと、年功序列などの日本的習慣が一因ではないかと考えられる。日本では、とにかく「年長者が偉い」という基本的ルールがあり、その一方で村社会的に人材がコミュニティに対し強い忠誠を誓うことを要請する傾向がある。そうなると、転職者というのは脱藩者であって、気軽に脱藩するような忠誠心の低い者はなかなか受け容れられず、既存のコミュニティ内で「余所者を受け容れたくない」という反発が強くなるのではないか。また、年下の人間が年上の人間を扱う方法論が、日本的習慣の中では存在しないことも、年長者の転職が難しい原因になっているだろう。
結果的に日本の社会では、個人の専門性や能力、客観性にもとづいた技能はなかなか生かされず、「いかにコミュニティに忠誠を誓うか」が重みをもってしまっているのではないか。これでは社内政治が跋扈する原因になるし、外部からの人材流入が少ないので、技術レベルの向上や社内政治の抑制が難しくなるだろう。また個人にとっても、高校のときの進路決定があまりに重大で、またベルトコンベアから外れることが大きなリスクになってしまう。途中で方向転換を試みたり失敗してしまうと、ベルトコンベアから外れ、大きなコストを支払わねばならない。
もちろん、日本的手法にもメリットがある。外部からの人材流入が少ないということは、外部へ人材流出が少ないということでもある。自社内での技術レベルや教育レベルが十分高いなら、人材が流出しないことで自社の技術レベルをそのまま高止まりさせることができるだろうから。また社内での忠誠心が高いというのは、コミュニケーションコストが低くなるので生産性が高くなったり、セキュリティリスクを減らせるだろう。
考えなければいけないのは、マクロ的に見て日本的手法とそうでない手法と、どちらがよいかだろう。それを判断するのは、なかなか難しい。0か1かではなく、ある程度バランスだろうし。ただ、現在の状況では、大学というものが実効的に働いていないのはもったいないようにおもう。たとえば、社会人が自分の専門性を高めるために、もっと気軽に大学を利用できるようにしたり、産学共同の研究がもっと増えたりするほうがよいのではないだろうか。
また、大学はもっと地域に開かれたほうがよいのではないかともおもう。生涯学習の拠点として、あるいは市井の研究者や専門家が集い、情報交換をできる場所として、大学は役割を担える可能性がある。そもそも、現在の日本では、科学やアカデミーの地位が低すぎるのも問題だ。日本では流言や誤り偏った情報が氾濫しやすく、良きにせよ悪しきにせよ、世論が加熱しやすい傾向にある。こういった世論が、いたずらに悪い方向に暴走してしまうことを防ぐためにも、大衆の心と知性の拠り所となるようなものが必要だと考える。
そういう意味で大学の存在意義は大きく、ポテンシャルは高い。現在のように大学が矮小化され、アカデミーの整備が野放図にされている状態は好ましくないだろう。
こうなっている大きな原因は、ベルトコンベア式に人間を扱う日本社会の習慣だと考えている。大衆も企業も、「いい大学を出た人がいい会社に就職でき、出世コースを歩む」と刷り込まれている。たとえばアメリカでは、いったん就職したり軍役についたりして社会人を経験した人が、後に大学に入って勉強しなおすことがあるが、日本ではそういった経歴は異例だ。
「新卒採用」という言葉に代表されるように、企業は4月、一律に大量の大学卒業者を採用し、プロパーとして育てていく。最近でこそ転職もそれほど珍しくなくなったが、しかし30代を過ぎるころから転職はかなり難しくなる。40代や50代ともなると、同業種内での戦略的な転職や、異業種(掃除夫や介護職ではないもの)への転職はほとんど不可能になるのではないだろうか。
なぜこうなっているかというと、年功序列などの日本的習慣が一因ではないかと考えられる。日本では、とにかく「年長者が偉い」という基本的ルールがあり、その一方で村社会的に人材がコミュニティに対し強い忠誠を誓うことを要請する傾向がある。そうなると、転職者というのは脱藩者であって、気軽に脱藩するような忠誠心の低い者はなかなか受け容れられず、既存のコミュニティ内で「余所者を受け容れたくない」という反発が強くなるのではないか。また、年下の人間が年上の人間を扱う方法論が、日本的習慣の中では存在しないことも、年長者の転職が難しい原因になっているだろう。
結果的に日本の社会では、個人の専門性や能力、客観性にもとづいた技能はなかなか生かされず、「いかにコミュニティに忠誠を誓うか」が重みをもってしまっているのではないか。これでは社内政治が跋扈する原因になるし、外部からの人材流入が少ないので、技術レベルの向上や社内政治の抑制が難しくなるだろう。また個人にとっても、高校のときの進路決定があまりに重大で、またベルトコンベアから外れることが大きなリスクになってしまう。途中で方向転換を試みたり失敗してしまうと、ベルトコンベアから外れ、大きなコストを支払わねばならない。
もちろん、日本的手法にもメリットがある。外部からの人材流入が少ないということは、外部へ人材流出が少ないということでもある。自社内での技術レベルや教育レベルが十分高いなら、人材が流出しないことで自社の技術レベルをそのまま高止まりさせることができるだろうから。また社内での忠誠心が高いというのは、コミュニケーションコストが低くなるので生産性が高くなったり、セキュリティリスクを減らせるだろう。
考えなければいけないのは、マクロ的に見て日本的手法とそうでない手法と、どちらがよいかだろう。それを判断するのは、なかなか難しい。0か1かではなく、ある程度バランスだろうし。ただ、現在の状況では、大学というものが実効的に働いていないのはもったいないようにおもう。たとえば、社会人が自分の専門性を高めるために、もっと気軽に大学を利用できるようにしたり、産学共同の研究がもっと増えたりするほうがよいのではないだろうか。
また、大学はもっと地域に開かれたほうがよいのではないかともおもう。生涯学習の拠点として、あるいは市井の研究者や専門家が集い、情報交換をできる場所として、大学は役割を担える可能性がある。そもそも、現在の日本では、科学やアカデミーの地位が低すぎるのも問題だ。日本では流言や誤り偏った情報が氾濫しやすく、良きにせよ悪しきにせよ、世論が加熱しやすい傾向にある。こういった世論が、いたずらに悪い方向に暴走してしまうことを防ぐためにも、大衆の心と知性の拠り所となるようなものが必要だと考える。
そういう意味で大学の存在意義は大きく、ポテンシャルは高い。現在のように大学が矮小化され、アカデミーの整備が野放図にされている状態は好ましくないだろう。
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