メッセージ。 - 男の子牧場がいいとおもうわけ
# 男の子牧場がいいとおもうわけ
http://d.hatena.ne.jp/a666666/20090515/1242316931
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
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さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
やー、面白いとおもうよ。企画を通したCAはいいセンスと度胸してる。男なんて昔からこういう扱いされてる。それに、牧場に登録される価値がないおいらには雲の上の話。女性版ポルノじゃね?全否定はやりすぎかと。
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さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
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