メッセージ。 - 言語によるコミュニケーション

# 言語によるコミュニケーション

最近なんとなく、はてなブックマークを読んでいて感じたことをメモ。

ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。

性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。

同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。

一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。

日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。

別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。

それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。

だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。

「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。

http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
 やっぱり日本の場合は契約型に移行するよりも、信頼型のシステムを取り戻すための努力をしたほうが幸せになれる気がするなぁ。もちろんそれが難しいから問題なんだけれども。まずは信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること。宗教としてはもうそれはありえないから、哲学ということになるんだろうね。

「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。

話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。

話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。

要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。

そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。

まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
2009-05-26 01:52:20 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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