メッセージ。 - 性教育と差別についてちょっとメモ
# 性教育と差別についてちょっとメモ
性教育と差別についていくつか読んだ。それでなんとなく思うところがあるのだけど、他にもやることのスタックが溜まっているので、掃き出すためにちょっとメモ。全然まとまらないが。
たしかに、この指摘についてはぼくも同意できる。ただ、それだけでも十分じゃなくね?とも思う。
たとえばぼく自身、この手の問題について最初に興味を持ったのは「昆虫図鑑」だった。子供のころ、昆虫が好きでよく図鑑を見ていたのだけど、最初はカラーページにある綺麗な昆虫の写真ばかり見ていたのが、だんだんのめり込んでいって後ろのほうのモノクロページにある、昆虫の生態等を紹介したページが面白くなっていったからだ。
そこには当然性交についても説明があって、ぼくはそこを読むことによって大きな知的満足を得たのを覚えている。「ああ、そうなっているのか。生物というのは、そのように『生きて』いるのか」とでもいうような感じ。人間も動物の1つであって、多かれ少なかれ、人間もそのように「生きて」いるのだろうなぁと、ぼくはボンヤリと理解した。
たぶん、小学校低学年ぐらいのときのことだ。「いやらしい」とは感じなかったし、性的な興味があったというわけでもなかった。ただ、あのころのぼくには隠されていた世界、大人たちが隠していて見せてくれない、彼らがうまく説明できない世界について、そこに書かれてあるということが分かったし、図鑑の説明は簡潔にして的確で、昆虫好きの少年を高揚させる力を持っていた。世界について理解することの喜びがあった。
他の人が、昆虫の図鑑のようなものに興味を示すのかは、よく分からない。ただ、もしぼくが性についての教育カリキュラムを考えるのだったら、他の動物や昆虫が、どのように暮らし生きているのかを教えたいなと思う。たとえば女王を中心に巣で生活をする蟻たち。一匹の雄がボスとなってハーレムを形成する猿たち。性交のあと興奮して(タンパク質を補うためという説もある)オスを食べてしまうこともあるカマキリのメス。たくさんの卵から生まれるが、そのほとんどが大人になる前に食べられてしまう、海亀の子供たち。
そういった生き物たちの生態や「社会」を知ってもらい、一方で人間というものがどのような生態と「社会」を持っているのか、今後築くのがよいのかを考えてもらうことが、性教育の一部として重要な価値があると思うからだ。もちろんその中には、「快楽、喜びとしての性」や女性差別も含まれる。人間の性交には(一般的に)快楽があること、なぜ快楽があるのか、子供を生み育てるということの意味、そして差別という名の「社会と個」の問題も当然含まれる。
猿のハーレムに差別はないのか、当の猿たちはどう思っているだろうか。カマキリは、ライオンは、海亀は、そして地球上に散らばっている多くの人間の部族と彼らの習慣。歴史上の出来事。いろんな人がいること。人にはそれぞれ違いがあり、攻撃的な人もいれば温和な人もいる。痛みを強く感じる人もいれば、短命な人もいる。悩みをかかえる人、病気と闘う人、生まれたばかりの人、死にゆく人、戦地にいる人、お金持ちの人。王様もいれば奴隷として生まれてしまった人もいる。病気になれば王様だって苦しいし、死は免れない。命は平等だ。
そういうことについて話さないと、性教育にはならないんじゃないかなぁ。違うのかなぁ。確かに、こういう話に興味のない子供や大人も、たくさんいるだろう。ぼくは教育論については素人なのでよく分からないけど、できるだけ多くの子供や大人が興味を持てるよう、できれば多様なカリキュラムを用意したほうがよいだろうとおもう。でもいずれにせよ、上記のようなカリキュラムも、あってもよいのじゃないかという気がする。
一方で従来の性教育というのは、どんな感じなんだろうか。現場のことは知らないでまったく想像で書くけれども、どうも上記のような視点はあまりないんじゃないか。キリスト教をベースとする欧米の教育方法論では、人間を「動物の延長」として説明することを、あまり望まないのではないかと考える。彼らにとっての教育とは、(動物とは違い、神の子である存在としての)「人間」を育てるという視点が大きいのではないか。
フェミニズムや差別についての議論を見ていると、どうもそこに超人主義的というか、「正しい人間のあり方」とでもいうものが存在しているかのような「感覚」があるような感じがする。「未熟で動物的な存在を、教育によって人間にするのだ」というか。たとえば「ポルノ(姦淫)は悪である」とか。一方で、日本人の性は江戸時代にけっこう大らかだったという話があるように、「性欲や淫欲は必ずしも悪いものじゃない」という考え方だってありうるはずだ。
だって、性欲なんて、食欲とどう違うのか。どうして一方は隠さなければならなくて、もう一方は大っぴらにしてよいのか。「性欲は汚くて恥ずかしくて人に見せられないものだ」と言う人がいるかもしれないが、食欲だってそうだとぼくは思う。他者の命を奪ってわがものとする行為が、そうそう褒められたことだろうか? 肉や魚や野菜、あれらは生き物の死体だ。生き物を殺し、その死体を貪ってわれわれは生きている。そのような行為が恥ずかしくないと言いきれるだろうか。言いきれるとすればなぜだろうか。
あれ? 脱線したぞ。なんの話だっけ。ああ、そうそう性教育だ。なんだろうなぁ。たとえば江戸時代に長屋住みだった人たちは、どのように性行為をしていたのだろう。一間しかなくて、子供と夫婦と川の字で寝ていた人たちは、子供にどうしても性行為を見られないよう、努力していたのだろうか。努力していたとしたら、なぜなのか。そのへんがよく分からない。もう別に、子供に見られてもいいじゃないかとか。子供に見せて、いったいどんな問題があるのだろうか。それは文字通り「夫婦の営み」であって、もっと言えば「家族の営み」でもあるんじゃないのか。
複雑化し高度化した現代社会において、あるいは文明が発達し公共地(コモンズ)が広くなった現代社会において、教育もまた(家ではなく)学校という場に多くを委ねられるようになったというのは合理的だと理解できるし、反論もない。学校というものが、社会で生活するために必要なルールや基礎知識を教えられるべき場所だということも賛成する。その意味で、教育カリキュラムに「家庭科」が存在することも理解できるし、「性教育」も必要だろう(蛇足だが、「法律」や「政治」、「福祉」、「社会保障」、「金融」とかも必要だとおもう)。
ただ…、放っといても人間が「ものを食べることを忘れない」、「食べ方が分からなくなったりしない」ように、性行為についても、そうそう間違った方向に行かないんじゃないかなぁ、行くのかなぁ。まぁ、食事と違って性行為は他人に迷惑や危害が加わる可能性があるから、なんらかの禁止や抑止が必要ではあるか。ただ、「これが正しいやり方ですよ」って教えたところで、悪いことするやつはするというか。
そういう意味では、「人格の矯正みたいなのを教育に含めるか」という問題が、東西の違いとしてそもそもあるような気がする。西洋的キリスト教的な教育観では、「人格の矯正」を教育に含めているんじゃないかなぁ。「そもそも人間でないものを人間に育てる」というような。一方で東洋的な感覚では、「人間の性や業は変えられない」、「変えられないけれども、うまく折合いを付けることはできる」というか。よく分からん。間違ってるような感じもするけど。まーメモだしね。なんかそんなようなことを考えた。
村瀬の問題定義で同意できるのは、そもそもポルノに代わる「性教育」がなされていないということ。現在学校でおこなわれているのは「性器教育」や「生殖教育」であり、「快楽、喜びとしての性」や女性差別を問う視点が存在しない、と村瀬は指摘している。
たしかに、この指摘についてはぼくも同意できる。ただ、それだけでも十分じゃなくね?とも思う。
たとえばぼく自身、この手の問題について最初に興味を持ったのは「昆虫図鑑」だった。子供のころ、昆虫が好きでよく図鑑を見ていたのだけど、最初はカラーページにある綺麗な昆虫の写真ばかり見ていたのが、だんだんのめり込んでいって後ろのほうのモノクロページにある、昆虫の生態等を紹介したページが面白くなっていったからだ。
そこには当然性交についても説明があって、ぼくはそこを読むことによって大きな知的満足を得たのを覚えている。「ああ、そうなっているのか。生物というのは、そのように『生きて』いるのか」とでもいうような感じ。人間も動物の1つであって、多かれ少なかれ、人間もそのように「生きて」いるのだろうなぁと、ぼくはボンヤリと理解した。
たぶん、小学校低学年ぐらいのときのことだ。「いやらしい」とは感じなかったし、性的な興味があったというわけでもなかった。ただ、あのころのぼくには隠されていた世界、大人たちが隠していて見せてくれない、彼らがうまく説明できない世界について、そこに書かれてあるということが分かったし、図鑑の説明は簡潔にして的確で、昆虫好きの少年を高揚させる力を持っていた。世界について理解することの喜びがあった。
他の人が、昆虫の図鑑のようなものに興味を示すのかは、よく分からない。ただ、もしぼくが性についての教育カリキュラムを考えるのだったら、他の動物や昆虫が、どのように暮らし生きているのかを教えたいなと思う。たとえば女王を中心に巣で生活をする蟻たち。一匹の雄がボスとなってハーレムを形成する猿たち。性交のあと興奮して(タンパク質を補うためという説もある)オスを食べてしまうこともあるカマキリのメス。たくさんの卵から生まれるが、そのほとんどが大人になる前に食べられてしまう、海亀の子供たち。
そういった生き物たちの生態や「社会」を知ってもらい、一方で人間というものがどのような生態と「社会」を持っているのか、今後築くのがよいのかを考えてもらうことが、性教育の一部として重要な価値があると思うからだ。もちろんその中には、「快楽、喜びとしての性」や女性差別も含まれる。人間の性交には(一般的に)快楽があること、なぜ快楽があるのか、子供を生み育てるということの意味、そして差別という名の「社会と個」の問題も当然含まれる。
猿のハーレムに差別はないのか、当の猿たちはどう思っているだろうか。カマキリは、ライオンは、海亀は、そして地球上に散らばっている多くの人間の部族と彼らの習慣。歴史上の出来事。いろんな人がいること。人にはそれぞれ違いがあり、攻撃的な人もいれば温和な人もいる。痛みを強く感じる人もいれば、短命な人もいる。悩みをかかえる人、病気と闘う人、生まれたばかりの人、死にゆく人、戦地にいる人、お金持ちの人。王様もいれば奴隷として生まれてしまった人もいる。病気になれば王様だって苦しいし、死は免れない。命は平等だ。
そういうことについて話さないと、性教育にはならないんじゃないかなぁ。違うのかなぁ。確かに、こういう話に興味のない子供や大人も、たくさんいるだろう。ぼくは教育論については素人なのでよく分からないけど、できるだけ多くの子供や大人が興味を持てるよう、できれば多様なカリキュラムを用意したほうがよいだろうとおもう。でもいずれにせよ、上記のようなカリキュラムも、あってもよいのじゃないかという気がする。
一方で従来の性教育というのは、どんな感じなんだろうか。現場のことは知らないでまったく想像で書くけれども、どうも上記のような視点はあまりないんじゃないか。キリスト教をベースとする欧米の教育方法論では、人間を「動物の延長」として説明することを、あまり望まないのではないかと考える。彼らにとっての教育とは、(動物とは違い、神の子である存在としての)「人間」を育てるという視点が大きいのではないか。
フェミニズムや差別についての議論を見ていると、どうもそこに超人主義的というか、「正しい人間のあり方」とでもいうものが存在しているかのような「感覚」があるような感じがする。「未熟で動物的な存在を、教育によって人間にするのだ」というか。たとえば「ポルノ(姦淫)は悪である」とか。一方で、日本人の性は江戸時代にけっこう大らかだったという話があるように、「性欲や淫欲は必ずしも悪いものじゃない」という考え方だってありうるはずだ。
だって、性欲なんて、食欲とどう違うのか。どうして一方は隠さなければならなくて、もう一方は大っぴらにしてよいのか。「性欲は汚くて恥ずかしくて人に見せられないものだ」と言う人がいるかもしれないが、食欲だってそうだとぼくは思う。他者の命を奪ってわがものとする行為が、そうそう褒められたことだろうか? 肉や魚や野菜、あれらは生き物の死体だ。生き物を殺し、その死体を貪ってわれわれは生きている。そのような行為が恥ずかしくないと言いきれるだろうか。言いきれるとすればなぜだろうか。
あれ? 脱線したぞ。なんの話だっけ。ああ、そうそう性教育だ。なんだろうなぁ。たとえば江戸時代に長屋住みだった人たちは、どのように性行為をしていたのだろう。一間しかなくて、子供と夫婦と川の字で寝ていた人たちは、子供にどうしても性行為を見られないよう、努力していたのだろうか。努力していたとしたら、なぜなのか。そのへんがよく分からない。もう別に、子供に見られてもいいじゃないかとか。子供に見せて、いったいどんな問題があるのだろうか。それは文字通り「夫婦の営み」であって、もっと言えば「家族の営み」でもあるんじゃないのか。
複雑化し高度化した現代社会において、あるいは文明が発達し公共地(コモンズ)が広くなった現代社会において、教育もまた(家ではなく)学校という場に多くを委ねられるようになったというのは合理的だと理解できるし、反論もない。学校というものが、社会で生活するために必要なルールや基礎知識を教えられるべき場所だということも賛成する。その意味で、教育カリキュラムに「家庭科」が存在することも理解できるし、「性教育」も必要だろう(蛇足だが、「法律」や「政治」、「福祉」、「社会保障」、「金融」とかも必要だとおもう)。
ただ…、放っといても人間が「ものを食べることを忘れない」、「食べ方が分からなくなったりしない」ように、性行為についても、そうそう間違った方向に行かないんじゃないかなぁ、行くのかなぁ。まぁ、食事と違って性行為は他人に迷惑や危害が加わる可能性があるから、なんらかの禁止や抑止が必要ではあるか。ただ、「これが正しいやり方ですよ」って教えたところで、悪いことするやつはするというか。
そういう意味では、「人格の矯正みたいなのを教育に含めるか」という問題が、東西の違いとしてそもそもあるような気がする。西洋的キリスト教的な教育観では、「人格の矯正」を教育に含めているんじゃないかなぁ。「そもそも人間でないものを人間に育てる」というような。一方で東洋的な感覚では、「人間の性や業は変えられない」、「変えられないけれども、うまく折合いを付けることはできる」というか。よく分からん。間違ってるような感じもするけど。まーメモだしね。なんかそんなようなことを考えた。
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