メッセージ。 - 梅田さんと「アテネの学堂」

# 梅田さんと「アテネの学堂」

梅田さんが「好き」であって、日本でもその登場を期待したネットの世界とは、「バーチャル・アテネの学堂」だったんじゃないかと思う。(中略)「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という特徴を使って、知的な議論が交わされ、シリコンバレーでよく使われる用語を使って大げさに言えば「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくことが「すごいこと」なんだと思う。
(中略)
つまり、彼は日本(あるいは日本語世界)の知的エリートたちがふがいないことを攻撃している。同時に、知的エリートの世界に参加したいと潜在的に思っている人たちをつまらない嫉妬で引きずりおろそうとする「大衆の愚」に怒っている。

この解釈は正しいのかな? 正確には、梅田さん本人に確認しないと分からないと思うが、とりあえずその解釈が正しいと仮定して話を進める。

たしかに梅田さんは、「ハイブロウな人やものが好き」と言っている。「ハイブロウ」って何かと思って調べてみると「学問や教養の高い人, 知識」(広辞苑)とのこと。high browは直訳すると「額が広い」ということで、ぼくは学者さんのようなタイプを思い浮かべた。

ただぼくは、「ハイブロウな人」が「自らの考えを公表したり議論したりする」のに最適の場所は、アカデミア(学会)だと思っている。人文・社会科学系にせよ自然科学にせよ、知識を戦わせ、研鑽させるために、アカデミア(学会や大学)は設計されているのだから。

そして当然のことながら、「そのような場としてアカデミアは最適である(そうであるのが当然だ)」という命題は、ネットの登場以前も以降も変わらない。アカデミアは、そのために用意された場だ。

だから逆説的だけれども、「ネットがそのような場にならないのはおかしい(ネットがそのような場になってほしい)」という考えはおかしい。ネットがそのような場にならないのは当然なのだ。過去も未来も、アカデミアこそがそのような場であるのだから。

アカデミアというのは、そもそもが「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」を集めるための場所だ。「そのような知識が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくこと」というのは、ネット以前であっても、アカデミアの存在意義として求められていることだ。

そしてまた、俯瞰してみれば分かるが、「すごいこと」というのは、実はネット以前からアカデミアと社会が実現してきた。仕方のないことだが、一般にそのことは忘れられがちだ。もし海部さんの解釈が正しいのだとすれば、彼らは「ネット」に「アカデミアになること」を求めていることになる。だけどネットは、アカデミアにはなれないだろう。

「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という利点を、ネットは世の中一般に提供した。これによってアカデミアは、今まで以上に強力になり得るだろう。しかし、世の中一般が「アカデミア」になることはないし、その必要もない。(人類全体の生産性が向上したことで、アカデミアが抱えることのできる人材規模には、拡大の余地ができただろうとは思う。)

たしかにアメリカというところは、社会とアカデミアの距離が近い。アカデミアで紡ぎだされた知識が、社会に適用されることが多い。逆に日本は、アカデミアの権威が低く、マスメディアも政府も、そして社会も、あまり科学的アプローチを取り込んでくれない。それは残念なことだとぼくも思う。

日本の知的エリートがふがいないというか、日本の社会構造があまりアカデミズムを取り込んでくれないというのは、ここ最近の話ではない。ちょっと前のエントリで書いたように、もうずっと何百年も続いてきたことだ。だから今この段階で、「日本のネットは残念」という風に捉えるのは、ちょっと危ういと思う。「日本の社会が残念」と捉えるならもっと良いだろうと、ぼくは考えている。
2009-06-09 15:57:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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