メッセージ。 - にゃー
# にゃー
「天」という概念がいいなとぼくが思う理由は、それが人生と社会と世界を運命論的に扱うからだ。それぞれに意味があるという考え方が根底にある。逆に、「すべてに意味なんてないんだ。現代において人間は、動物的に、意味や物語でなく唯物論的に快楽的に生きればいいんだ」という意見もあるけど。
人間は何か大きなものに仮託して生きたくなってしまう生き物だ。個人的にはあまり好きな考えではないというか、認めたくない考え方だけど。しかし、人生に意味は欲しい。生きている、生きていく、死んでいくとは何なのかと考えてしまう。究極的には、誰かに認められる必要なんかない。自分で自分を認める必要すらないのではないかと思う。ただここにある以上、なにかを願い、祈らざるを得ないような感じ。死への道筋でただ一つ何かをしていいと許されるなら、それは祈りなのではないか。
何の話だっけ。天か。まとまらないけど、「天」という言葉の感覚は、ぼくにとってはお釈迦様が空から人びとを見ているような感覚がある。人間や生き物や世界、地上の世界が幸せにあるよう見守っているような。それぞれの人生、それぞれの一瞬一瞬、それぞれの国家、それぞれのプロジェクトに、そのときどき果たすべき役割があるというような感覚。社会のなかの存在意味でなくても、個としての存在意味を与えるような。
相変わらずまとまらないけど、「天」という感覚を持つことが、ある意味で教養なのではないか。中島らもは「一人で誰にも迷惑をかけず時間を過ごせる技術が教養だ」というようなことを言った。それはまさに「天」と個との感覚を言っているように思うし、天という価値観がなければ、国家運営のような大事を成すことは難しいようにも思う。
人間は何か大きなものに仮託して生きたくなってしまう生き物だ。個人的にはあまり好きな考えではないというか、認めたくない考え方だけど。しかし、人生に意味は欲しい。生きている、生きていく、死んでいくとは何なのかと考えてしまう。究極的には、誰かに認められる必要なんかない。自分で自分を認める必要すらないのではないかと思う。ただここにある以上、なにかを願い、祈らざるを得ないような感じ。死への道筋でただ一つ何かをしていいと許されるなら、それは祈りなのではないか。
何の話だっけ。天か。まとまらないけど、「天」という言葉の感覚は、ぼくにとってはお釈迦様が空から人びとを見ているような感覚がある。人間や生き物や世界、地上の世界が幸せにあるよう見守っているような。それぞれの人生、それぞれの一瞬一瞬、それぞれの国家、それぞれのプロジェクトに、そのときどき果たすべき役割があるというような感覚。社会のなかの存在意味でなくても、個としての存在意味を与えるような。
相変わらずまとまらないけど、「天」という感覚を持つことが、ある意味で教養なのではないか。中島らもは「一人で誰にも迷惑をかけず時間を過ごせる技術が教養だ」というようなことを言った。それはまさに「天」と個との感覚を言っているように思うし、天という価値観がなければ、国家運営のような大事を成すことは難しいようにも思う。
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