メッセージ。 - にゃー
# にゃー
天を論じないものに大事をなせるだろうか。「なせる」という論と「なせない」という論があるだろう。「なせる」派は単に技術さえあれば、そこに意志は不要という考え方だ。ただ、「ことを成す」のはたぶんどこまで行っても人間か人間の集まりであって、そこに悪意や間違いや暴走があったときにも問題が起こらないかは考えておかなければいけない。悪意や間違いや暴走さえ防げるような技術があれば問題ないという考え方もあって、それはシステムにコントロールを完全に預け、外部から停止する機能を持たないことを意味するだろう。あるいは、人間もある種の機械のようなものなので、システムの中に人間も含めてしまって、人間とシステムの判断によってシステムを停止したり、挙動を微調整するような仕組みか。ただここで問題になるのは「大事をなす」の定義だろう。それが単に「系をできるだけ長く安定させる」ことを指すなら、そういう仕組みで何も問題ないのかもしれない。もしくは、こういった考えそのものが、「人間以外に実行系を持たない」時代のものなのかもしれない。もはや人間など介さずとも計算機がいろいろなことを実行できる環境が見えてきている現代において、心配する必要がないという考え方もある。悪意はさておき、間違いや暴走をできるだけ防ぐ、つまりバグを出さないようにすればいい。といっても未来予見が必要だったり再現性が低かったりするのである程度難しいだろうけど、長期的にはヒューリスティックに補正していくことで系は安定するはず。
ええと、で、何が書きたかったかというと、逆に「なせない」派の視点に立ったとき。「天を論じないものに大事はなせない」というのが命題でこれは「天を論じないものに世界は救えるか?」と言い換えられると思ったんだよな。「できるだけ長く系を安定させる」と「世界を救う」の間には開きがあるような気がするけど。まあとにかく、「世界を救う」と「天を論じる」の二つを考えたとき、天を論じることなく世界を救うような物語が多いなぁと。たとえば『ドラえもん』の大長編映画では、のび太やドラえもんたちがひょんなことから世界の危機に直面し、そして紆余曲折のすえ解決してしまったりする。その話中、彼らが天を論じる箇所はほとんど見ない。同じような構図はそこかしこにあって、普通の少年少女がいつのまにか世界の危機に巻き込まれ、しかしやがて世界を救っていく物語が多い。外観的には「天を論じる」場面など出てこないし、子供たちはそんなようなことは語らない。語られない。でも、それらの物語に通底しているのは、たしかにそういう物語性というか、意志なんじゃないかなぁと思うんだよな。
ええと、で、何が書きたかったかというと、逆に「なせない」派の視点に立ったとき。「天を論じないものに大事はなせない」というのが命題でこれは「天を論じないものに世界は救えるか?」と言い換えられると思ったんだよな。「できるだけ長く系を安定させる」と「世界を救う」の間には開きがあるような気がするけど。まあとにかく、「世界を救う」と「天を論じる」の二つを考えたとき、天を論じることなく世界を救うような物語が多いなぁと。たとえば『ドラえもん』の大長編映画では、のび太やドラえもんたちがひょんなことから世界の危機に直面し、そして紆余曲折のすえ解決してしまったりする。その話中、彼らが天を論じる箇所はほとんど見ない。同じような構図はそこかしこにあって、普通の少年少女がいつのまにか世界の危機に巻き込まれ、しかしやがて世界を救っていく物語が多い。外観的には「天を論じる」場面など出てこないし、子供たちはそんなようなことは語らない。語られない。でも、それらの物語に通底しているのは、たしかにそういう物語性というか、意志なんじゃないかなぁと思うんだよな。
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