メッセージ。 - にゃー
# にゃー
「はい。ここで泣いてください」またいな作品があまり好きではない。なぜかというと、泣くのはやはり悲しいから、もしくは悲しさからの開放時のうれしさから出てくる感情だと思うから。登場人物のおかれた境遇や心境を想像し、その決断にどのような葛藤があったか、自分ならどう感じどう行動しただろうかと考える、その過程に価値があると信じるから。
逆に「ここで泣いてください」風の作品からは「泣けるでしょう?泣くと気持ちいいでしょう?」という囁きが聞こえてくる。気持ちいいということは結局のところ快楽であり、悲しみの対極にあるはずだ。なのに涙を流して気持ちがいいとはどういうことか。涙をなんだと思っているのか。
物語には緊張と弛緩がある。強い緊張からの開放によって気持ちよさが生じることは否定しない。しかし、気持ちよさだけを摂取するのでは何も学びがないし、メッセージもないではないか。もちろん現代のほとんどのフィクションは商業目的でありエンターテイメントであるからして、快楽が主たるドライバになっていることは否定できない。快楽のない作品だけを楽しめといわれてもしんどい。
だけど、快楽だけあれば良いというのではつまらない。それではまるで、作品に関わる人の尊厳を否定されているみたいだ。作品に込められているのは物語でありメッセージであるはず。「誰か」がそこにいたという信号であり証であり、「誰か」がそれを受け取ったという証である。つまり、宇宙やあなたや私の存在を示す手がかりである。この暗くて広い空間のなかで、それを見つけ、できるならつなげたい。そうでなければなにをしているのか分からない。
逆に「ここで泣いてください」風の作品からは「泣けるでしょう?泣くと気持ちいいでしょう?」という囁きが聞こえてくる。気持ちいいということは結局のところ快楽であり、悲しみの対極にあるはずだ。なのに涙を流して気持ちがいいとはどういうことか。涙をなんだと思っているのか。
物語には緊張と弛緩がある。強い緊張からの開放によって気持ちよさが生じることは否定しない。しかし、気持ちよさだけを摂取するのでは何も学びがないし、メッセージもないではないか。もちろん現代のほとんどのフィクションは商業目的でありエンターテイメントであるからして、快楽が主たるドライバになっていることは否定できない。快楽のない作品だけを楽しめといわれてもしんどい。
だけど、快楽だけあれば良いというのではつまらない。それではまるで、作品に関わる人の尊厳を否定されているみたいだ。作品に込められているのは物語でありメッセージであるはず。「誰か」がそこにいたという信号であり証であり、「誰か」がそれを受け取ったという証である。つまり、宇宙やあなたや私の存在を示す手がかりである。この暗くて広い空間のなかで、それを見つけ、できるならつなげたい。そうでなければなにをしているのか分からない。
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