メッセージ。 - にゃー
# にゃー
最近感じたこと。読んだ記事など。
公園クレーマーの俺が公園クレーマーの考えてることを書くぞ
https://anond.hatelabo.jp/20230607162734
どちらかというと、ぼくはこの人のことを否定的に読んだ。ちょっと病気じゃないかと思った。昔でいうとこのノイローゼみたいな。とくに
というくだり。可能性があるから怖いという状態になってしまったことは同情するし、誰でも何かの強いプレッシャーでそうなってしまう可能性があると恐ろしく感じる。でも、可能性を恐れてしまったら、生きていくことができない。
この世界は恐ろしいことが起きる可能性に満ちているからだ。誰がいつ何をするのか分からない。あんな悪いやつがいるかもしれない、若い男は何を考えているのか分からない、自分より力の強いものがひどいことをしていくる可能性がある。そんな風に考えはじめてしまうと、どんどんこの世界が恐ろしくなる。
そういう視野狭窄のような状態になってしまうことそのものが恐ろしい。もともとは心の反射による生理的な反応がきっかけなんだと思うけど、それが悪い方向に働いてスパイラルになってしまい、そうとしか考えられなくなるのが恐ろしい。
それとぼくは、この人の書いている心理は公園クレーマーだけでなく最近の過激なフェミニストとか男性を怖がる女性の人たちにも似たような機序があるんじゃないかなと感じた。「可能性があるから怖い」という部分。オタクの萌え絵をバッシングしたり、キモいものを排除しようとしたりするのも、「自分に危害を加える可能性があるのから怖い」という感情が元にあるのではないかと思う。
元の記事へのはてなブックマークへの反応を読んでみての感想。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230607162734
思ったよりも公園クレーマーさんに同調するコメントが多い。こんなにたくさんの(割合の)人が公園クレーマーさん側に立った意見を言っている。正直意外だった。いや、「みなが何を感じているかを知って驚いたり意外に感じたりする」という経験が、はてなブックマークやSNSを読んでいると最近多いので、意外に感じること自体に慣れてきているというか、心の準備をしながらページを開くようになってきているのだけれども。
個人的には、可能性を怖がってしまう自分の心と感情と生理とは、戦わなければならないと思っている。それは当然怖いものだし負けそうになる気持ちも自分の中にあるけれども。結局のところ、怖いものやキモいものは、排除できない。「可能性を潰さなければ」と頑張っても可能性をゼロにはできない。怖いと思って、キモいと恐れて相手を叩いても、むしろ逆効果のはずだ。
だから、まず合理的な判断として、ぼくは誰かを叩くということはしたくない。怖いもの、危険性のあるものがあった場合、それと隔絶して触れないようにするのではなく、理解しようとしてみて、お互い危害を加えようとするつもりがないことを知り合う状態にするのがよいのかなと思う。
ネットというのは不思議だ。スマホやパソコンの画面ごしに世界を見ていると、意見の合わない人やキモい人がたくさん見える。それこそパンドラの箱のように物凄い量の見たくないものが飛び出してくる。でも一方で、画面を消してしまえばそれらは一瞬にして消えて、物理的に隔絶することができる。心の危険と体の安全が同居している。
でも画面を消したとしても、見たくないものや見たくない人は世界に存在している。あんなにたくさん存在している。なんとかして排除しないと、戦わないと、と思うのも当然かもしれない。パンドラの箱は、この世界にあるといえばある。開かれたといえば開かれた。ネットやSNSというのはまさにパンドラの箱と同義に見える。でも。現実の世界で暮らしていて、そんなに怖い人とか、嫌な人ばかりってわけでもないんだよね。
もちろんぼくだって嫌いな人はいるし、むしろネットでも現実でも、人とは分かりあえないことがほとんどだ。でもまぁ、なんとかやっていけている。生きていくうえでの喫緊の危険を感じるほどではない。99.9%の人は、他の人に迷惑をかけないように生きていると思っているし、ぼくも他の人にできるだけ迷惑をかけないよう生きていきたいと思っている。
パンドラの箱についてはもうちょっと書きたいことがあったけど長くなりすぎたのでまたこんど。バベルの搭というキーワードでも書こうと思っていたけどこれもまたこんど。
公園クレーマーの俺が公園クレーマーの考えてることを書くぞ
https://anond.hatelabo.jp/20230607162734
どちらかというと、ぼくはこの人のことを否定的に読んだ。ちょっと病気じゃないかと思った。昔でいうとこのノイローゼみたいな。とくに
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
というくだり。可能性があるから怖いという状態になってしまったことは同情するし、誰でも何かの強いプレッシャーでそうなってしまう可能性があると恐ろしく感じる。でも、可能性を恐れてしまったら、生きていくことができない。
この世界は恐ろしいことが起きる可能性に満ちているからだ。誰がいつ何をするのか分からない。あんな悪いやつがいるかもしれない、若い男は何を考えているのか分からない、自分より力の強いものがひどいことをしていくる可能性がある。そんな風に考えはじめてしまうと、どんどんこの世界が恐ろしくなる。
そういう視野狭窄のような状態になってしまうことそのものが恐ろしい。もともとは心の反射による生理的な反応がきっかけなんだと思うけど、それが悪い方向に働いてスパイラルになってしまい、そうとしか考えられなくなるのが恐ろしい。
それとぼくは、この人の書いている心理は公園クレーマーだけでなく最近の過激なフェミニストとか男性を怖がる女性の人たちにも似たような機序があるんじゃないかなと感じた。「可能性があるから怖い」という部分。オタクの萌え絵をバッシングしたり、キモいものを排除しようとしたりするのも、「自分に危害を加える可能性があるのから怖い」という感情が元にあるのではないかと思う。
元の記事へのはてなブックマークへの反応を読んでみての感想。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230607162734
思ったよりも公園クレーマーさんに同調するコメントが多い。こんなにたくさんの(割合の)人が公園クレーマーさん側に立った意見を言っている。正直意外だった。いや、「みなが何を感じているかを知って驚いたり意外に感じたりする」という経験が、はてなブックマークやSNSを読んでいると最近多いので、意外に感じること自体に慣れてきているというか、心の準備をしながらページを開くようになってきているのだけれども。
個人的には、可能性を怖がってしまう自分の心と感情と生理とは、戦わなければならないと思っている。それは当然怖いものだし負けそうになる気持ちも自分の中にあるけれども。結局のところ、怖いものやキモいものは、排除できない。「可能性を潰さなければ」と頑張っても可能性をゼロにはできない。怖いと思って、キモいと恐れて相手を叩いても、むしろ逆効果のはずだ。
だから、まず合理的な判断として、ぼくは誰かを叩くということはしたくない。怖いもの、危険性のあるものがあった場合、それと隔絶して触れないようにするのではなく、理解しようとしてみて、お互い危害を加えようとするつもりがないことを知り合う状態にするのがよいのかなと思う。
ネットというのは不思議だ。スマホやパソコンの画面ごしに世界を見ていると、意見の合わない人やキモい人がたくさん見える。それこそパンドラの箱のように物凄い量の見たくないものが飛び出してくる。でも一方で、画面を消してしまえばそれらは一瞬にして消えて、物理的に隔絶することができる。心の危険と体の安全が同居している。
でも画面を消したとしても、見たくないものや見たくない人は世界に存在している。あんなにたくさん存在している。なんとかして排除しないと、戦わないと、と思うのも当然かもしれない。パンドラの箱は、この世界にあるといえばある。開かれたといえば開かれた。ネットやSNSというのはまさにパンドラの箱と同義に見える。でも。現実の世界で暮らしていて、そんなに怖い人とか、嫌な人ばかりってわけでもないんだよね。
もちろんぼくだって嫌いな人はいるし、むしろネットでも現実でも、人とは分かりあえないことがほとんどだ。でもまぁ、なんとかやっていけている。生きていくうえでの喫緊の危険を感じるほどではない。99.9%の人は、他の人に迷惑をかけないように生きていると思っているし、ぼくも他の人にできるだけ迷惑をかけないよう生きていきたいと思っている。
パンドラの箱についてはもうちょっと書きたいことがあったけど長くなりすぎたのでまたこんど。バベルの搭というキーワードでも書こうと思っていたけどこれもまたこんど。
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