メッセージ。 - diary
2025-02-20
# にゃー
感情労働はしんどい。だから感情じゃない労働、端的にそれを表す言葉が分からないけど、そういうものに流れてしまいがちだと思う。でも、感情じゃない労働だけやるのもしんどいような気がする。日々無風で何もなければ良いのか。ただお金がもらえれば良いのか。楽なら楽なほうがいいのか。
もちろんお金は欲しいし仕事は楽なほうが良い。でも給料泥棒にはなりたくないよね。誰かの役に立って、喜んでもらえた対価としてお金をもらいたい。そのためにはしんどいこと、感情労働もやらなきゃいけないことがあるというか、頑張った先に価値をつかみとれたら、それは許容できるしんどさというか、やりがい?のようなものになると思う。
やりがいのない仕事はしんどいよ。ただ穴を掘って埋め戻すだけの仕事が一番苦しいという言葉があるように、仕事というのはそうじゃないものでなければならない。「自分がやっていることには価値がある」と思いたいし、逆に誰かに怒られたり見下されたり迷惑をかけたりしたくない。
「誰かに怒られたり見下されたり迷惑をかけたりしないためにはどうすれば良いか?」という観点では、できるだけリスクのあることは何もしないとか、できることだけをやる、といった対処法が思い付くけれども、このやり方は問題を先送りにしているだけで、不安の晴れない戦略になってしまう。
しんどいことはやりたくない、リスクのあることはしたくない、誰かに怒られたくない、そういう感情はもちろんあって、とくにぼくなんかはそれにずっと怯えている。でも、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけなくって、やってしまえば胸を張って先へ進めることがあるとも知っている。
だから必要なことは「絶対にやらなきゃいけないことは何か?」の選択と優先順位付けで、やらなきゃいけないことが決まったら次は、しんどくて嫌だけれどもとにかくやってみる勇気、そしてやってみたことに対しては結果が良くても悪くても「がんばったね」と褒めてもらえるような何かなんだと思う。
ただし、こんなものは精神論で、現場にはきちんとした技術やリソースも必要だ。心技体、というやつか。昔の人はうまいこと言うなぁ。心・技・体の3つが必要なんだよね。「精神論を言うな」という言葉も分かる。精神論だけ叫ぶような現場はろくでもない。でも心技体という言葉が表すように、精神論は排除すべきものではなく、必要な3つの要素のうちの1つなんだよ。
心(何をやりたいか、何をやるべきと考えたか)、技(学んできたこと、自分ができること、得意なこと)、体(それをやりきるだけの体力や資金)が3つとも必要で、どれかだけが突出するのではなくバランスされているほうが良い。そしてもちろん仕事というのは相手もあることだから、そこも忘れてはいけない。
そういうことを前提に、最終的に仕事というのは面白くあってほしい。そんなのは叶わぬ夢みたいに聞こえるけど、でも、世の中には良い仕事をしている人がいる。「良い仕事」よりも、「善い仕事」が適切かな。自分も善い仕事がしたい。みんなだってそうでしょう?誰かに怒られたくないし、誰かを怒りたくもないよね。みんなが善い仕事ができたら、めちゃくちゃハッピーじゃん。
「みんなが善い仕事ができたら」なんてのは本当に夢物語だけれども、でもたまに善い仕事をしている人を見ることがあるんだから、絶対に誰もできないようなことでもないんでしょう?だったらできるだけ近付きたいよなぁ。少なくとも、善い仕事をしたいと思ったり言ったり何かを試してみたりするのは自由なはずだ。
もちろんお金は欲しいし仕事は楽なほうが良い。でも給料泥棒にはなりたくないよね。誰かの役に立って、喜んでもらえた対価としてお金をもらいたい。そのためにはしんどいこと、感情労働もやらなきゃいけないことがあるというか、頑張った先に価値をつかみとれたら、それは許容できるしんどさというか、やりがい?のようなものになると思う。
やりがいのない仕事はしんどいよ。ただ穴を掘って埋め戻すだけの仕事が一番苦しいという言葉があるように、仕事というのはそうじゃないものでなければならない。「自分がやっていることには価値がある」と思いたいし、逆に誰かに怒られたり見下されたり迷惑をかけたりしたくない。
「誰かに怒られたり見下されたり迷惑をかけたりしないためにはどうすれば良いか?」という観点では、できるだけリスクのあることは何もしないとか、できることだけをやる、といった対処法が思い付くけれども、このやり方は問題を先送りにしているだけで、不安の晴れない戦略になってしまう。
しんどいことはやりたくない、リスクのあることはしたくない、誰かに怒られたくない、そういう感情はもちろんあって、とくにぼくなんかはそれにずっと怯えている。でも、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけなくって、やってしまえば胸を張って先へ進めることがあるとも知っている。
だから必要なことは「絶対にやらなきゃいけないことは何か?」の選択と優先順位付けで、やらなきゃいけないことが決まったら次は、しんどくて嫌だけれどもとにかくやってみる勇気、そしてやってみたことに対しては結果が良くても悪くても「がんばったね」と褒めてもらえるような何かなんだと思う。
ただし、こんなものは精神論で、現場にはきちんとした技術やリソースも必要だ。心技体、というやつか。昔の人はうまいこと言うなぁ。心・技・体の3つが必要なんだよね。「精神論を言うな」という言葉も分かる。精神論だけ叫ぶような現場はろくでもない。でも心技体という言葉が表すように、精神論は排除すべきものではなく、必要な3つの要素のうちの1つなんだよ。
心(何をやりたいか、何をやるべきと考えたか)、技(学んできたこと、自分ができること、得意なこと)、体(それをやりきるだけの体力や資金)が3つとも必要で、どれかだけが突出するのではなくバランスされているほうが良い。そしてもちろん仕事というのは相手もあることだから、そこも忘れてはいけない。
そういうことを前提に、最終的に仕事というのは面白くあってほしい。そんなのは叶わぬ夢みたいに聞こえるけど、でも、世の中には良い仕事をしている人がいる。「良い仕事」よりも、「善い仕事」が適切かな。自分も善い仕事がしたい。みんなだってそうでしょう?誰かに怒られたくないし、誰かを怒りたくもないよね。みんなが善い仕事ができたら、めちゃくちゃハッピーじゃん。
「みんなが善い仕事ができたら」なんてのは本当に夢物語だけれども、でもたまに善い仕事をしている人を見ることがあるんだから、絶対に誰もできないようなことでもないんでしょう?だったらできるだけ近付きたいよなぁ。少なくとも、善い仕事をしたいと思ったり言ったり何かを試してみたりするのは自由なはずだ。
2025-01-31
# にゃー
たまに少女漫画っぽいのを読むことがあるんだけど、主人公の女の子がほぼ完璧だなーという作品によく出会う。真面目で優しくて周りの人のことを考える頑張り屋さん、でも少し抜けているところもある、みたいな。全方位に敵を作らないみたいな内面を抱えているのかなと感じて気になる。そんなに完璧じゃなくていいのにというか、もっと自由でいいのにと思う。
少年漫画だと、主人公が(つまり作者が)そういうことを気にしていないような気がする。「自分はこういう人だ」という描写があまりないというか、あるにはあるんだけど、周りに気を遣ってできちゃった人格という感じではなくて、「自分はなにをしたいだろう」、「自分に何ができるだろうか」、「自分はなにを選択すべきなんだろうか」というところから出発して、周りとの関係が動いて成長していくようなイメージがある。
少年漫画だと、主人公が(つまり作者が)そういうことを気にしていないような気がする。「自分はこういう人だ」という描写があまりないというか、あるにはあるんだけど、周りに気を遣ってできちゃった人格という感じではなくて、「自分はなにをしたいだろう」、「自分に何ができるだろうか」、「自分はなにを選択すべきなんだろうか」というところから出発して、周りとの関係が動いて成長していくようなイメージがある。
2025-01-17
# にゃー
YouTubeでカメラ系の人達を見てると、みなさん頻繁に機材を購入されてるのを見かけるけど、すごいなぁと思う。自分は不器用なのか、機材を追加してもあまり楽しめないみたいだ。
実はつい最近ぼくもレンズを一本買い足したのだけど、かなり四苦八苦している。いままで使っていた(いまも持っている)レンズへの愛着が強すぎるのか、新しいほうを使うときの戸惑いがとても大きい。
「古いほうはこんな風に使えたのに」とか「古いほうだとこんな写真が撮れたなぁ」と思い返してしまう。もちろん新しいほうにも良いところはある。新しいほうが便利な部分もあるし写りも良いみたいだし、いままで撮れなかった写真が撮れてたりもする。
心と身体を新しいほうに馴染ませようとしているところなんだけど、簡単にはいかない。なんだか気分が晴れない。
実はつい最近ぼくもレンズを一本買い足したのだけど、かなり四苦八苦している。いままで使っていた(いまも持っている)レンズへの愛着が強すぎるのか、新しいほうを使うときの戸惑いがとても大きい。
「古いほうはこんな風に使えたのに」とか「古いほうだとこんな写真が撮れたなぁ」と思い返してしまう。もちろん新しいほうにも良いところはある。新しいほうが便利な部分もあるし写りも良いみたいだし、いままで撮れなかった写真が撮れてたりもする。
心と身体を新しいほうに馴染ませようとしているところなんだけど、簡単にはいかない。なんだか気分が晴れない。
2024-12-24
# にゃー
街中で写真を撮っていて、「ファインダーを覗く行為が一番周りへの圧力が高いのではないか」という写真家さん(?)の意見を見かけた。それについて、初見では何かを書くほどの気にはならなかったのだけど、反応の意見を見かけてちょっと書きたくなった。
https://www.youtube.com/watch?v=EjguIVcsioE
まず、個人的にはファインダーが一番の要素とは思わないかなぁ。ぼくの感覚としては、街の人は「普通の人かどうか」「悪いことをしてなそうかどうか」「普通に話ができそうかどうか(常識がある人かどうか)」「嫌なことをされないかどうか」を気にしている気がする。
結局のところ、NGなものを撮らない、撮ってほしくないものを撮らない、というルールを守れるならば、そこまで目くじらを立てる必要がないというか、ルールを厳しくしすぎてもお互いしんどくなるだけなので、とくに日本人の場合は「人に迷惑をかけない」という点が基準になっていると思う。
だから逆に街中で写真を撮りたい人は、「人に迷惑をかけなさそう」と思わせるような配慮をできるだけすれば、周囲との軋轢も減らせるように思うんだよね。具体的には、
- 女性で優しそうである
- イケメンで優しそうである
- 清潔感があり、上品でかつ「近寄りがたくない格好(話しやすそうな雰囲気)」をしている
- 目が会えば笑顔で会釈をしたり挨拶をしたりし、必要十分な会話もする
あたりができればほぼ理想であり、100%理想的でなくても近くなるよう努力することが必要かと思う。
ファインダーを覗くという行為に関して、人間は他者の目(視線)を見てその意図や感情を理解しようとするものだから、それが隠されて意思疎通が一方通行になってしまう「ファインダーを覗く」という行為自体は確かにマイナス要素になる。
でも、ファインダーってずーっと覗いているものでもないし、その前後の振る舞いも含めてどう見られるかじゃないかな。具体的な言葉を交わすわけじゃなくても、どんな服装と表情と立ち居振る舞いでその場にいて、どう邪魔にならずに、周りの人とコミュニケーションするか(視線が触れるだけでもコミュニケーションだ)。そういうことも含めて「表現」なんだろうと思う。
まぁ、ぼくもそんなにできているわけではないけれども。
https://www.youtube.com/watch?v=EjguIVcsioE
まず、個人的にはファインダーが一番の要素とは思わないかなぁ。ぼくの感覚としては、街の人は「普通の人かどうか」「悪いことをしてなそうかどうか」「普通に話ができそうかどうか(常識がある人かどうか)」「嫌なことをされないかどうか」を気にしている気がする。
結局のところ、NGなものを撮らない、撮ってほしくないものを撮らない、というルールを守れるならば、そこまで目くじらを立てる必要がないというか、ルールを厳しくしすぎてもお互いしんどくなるだけなので、とくに日本人の場合は「人に迷惑をかけない」という点が基準になっていると思う。
だから逆に街中で写真を撮りたい人は、「人に迷惑をかけなさそう」と思わせるような配慮をできるだけすれば、周囲との軋轢も減らせるように思うんだよね。具体的には、
- 女性で優しそうである
- イケメンで優しそうである
- 清潔感があり、上品でかつ「近寄りがたくない格好(話しやすそうな雰囲気)」をしている
- 目が会えば笑顔で会釈をしたり挨拶をしたりし、必要十分な会話もする
あたりができればほぼ理想であり、100%理想的でなくても近くなるよう努力することが必要かと思う。
ファインダーを覗くという行為に関して、人間は他者の目(視線)を見てその意図や感情を理解しようとするものだから、それが隠されて意思疎通が一方通行になってしまう「ファインダーを覗く」という行為自体は確かにマイナス要素になる。
でも、ファインダーってずーっと覗いているものでもないし、その前後の振る舞いも含めてどう見られるかじゃないかな。具体的な言葉を交わすわけじゃなくても、どんな服装と表情と立ち居振る舞いでその場にいて、どう邪魔にならずに、周りの人とコミュニケーションするか(視線が触れるだけでもコミュニケーションだ)。そういうことも含めて「表現」なんだろうと思う。
まぁ、ぼくもそんなにできているわけではないけれども。