メッセージ。 - diary
2019-05-24
# にゃー
こないだ、NHKで『4歳児のヒミツ』という番組をやっていて、非常に興味深かった。面白かったポイントはいくつもあるのだけど、ひとつだけ。
全体で10人ほど集められた4歳児は、ある日半数ずつのグループに分けられた。1つのグループは室内に通され、ホールのケーキを出される。でも、「残りのグループの子たちが来てからみんなで食べるから、手をつけずに待っててね」とお預けをくらって子供達だけにされる。
ここを我慢できるかというのが一つの山場だが、なんとかこの場はみんなしてやり過ごした。その後、残りのグループの子たちが入って来て、みんなでケーキタイム。このとき、番組はケーキを人数分に切り分けるのではなく、一人分多めに切り分けた。そして、「一つ余ったけど、欲しい子はいる?」と尋ねた。このときだ。
何人かの子が名乗りを上げて、ケーキは平和的に片付いたのだけど、名乗り上げた子供達の中に、2つ目のグループの子はいなかったんだって。後から来た子供達は、最初からいた子供達が我慢してケーキを待っていたことを知っていた。だから、最初からいて我慢していた子たちに遠慮してというか、手をあげなかった。最初からいた子たちには、より強い所有感、所有権が発生していて、その場にいた子供全体がその空気を理解していた。そのことが驚きだった。
たとえば大人でも転職したとき、新しい人間がプロジェクトの方向性を変えるのは難しい。前からある者のほうが、なぜかイニシアティブを握っていて、プロジェクトや会社にダメなところや改善すべき点があっても、言いにくいし聞き入れられにくい。ぼくはこれまで、この現象を「譜代と外様」に似せて考えてきたけど、モノにたいする物理的な執着や愛着差というものが、こんな小さな子供のレベルで、自然と社会ルール化するほどの原子発生的なものであるというのは、大変興味深い。
全体で10人ほど集められた4歳児は、ある日半数ずつのグループに分けられた。1つのグループは室内に通され、ホールのケーキを出される。でも、「残りのグループの子たちが来てからみんなで食べるから、手をつけずに待っててね」とお預けをくらって子供達だけにされる。
ここを我慢できるかというのが一つの山場だが、なんとかこの場はみんなしてやり過ごした。その後、残りのグループの子たちが入って来て、みんなでケーキタイム。このとき、番組はケーキを人数分に切り分けるのではなく、一人分多めに切り分けた。そして、「一つ余ったけど、欲しい子はいる?」と尋ねた。このときだ。
何人かの子が名乗りを上げて、ケーキは平和的に片付いたのだけど、名乗り上げた子供達の中に、2つ目のグループの子はいなかったんだって。後から来た子供達は、最初からいた子供達が我慢してケーキを待っていたことを知っていた。だから、最初からいて我慢していた子たちに遠慮してというか、手をあげなかった。最初からいた子たちには、より強い所有感、所有権が発生していて、その場にいた子供全体がその空気を理解していた。そのことが驚きだった。
たとえば大人でも転職したとき、新しい人間がプロジェクトの方向性を変えるのは難しい。前からある者のほうが、なぜかイニシアティブを握っていて、プロジェクトや会社にダメなところや改善すべき点があっても、言いにくいし聞き入れられにくい。ぼくはこれまで、この現象を「譜代と外様」に似せて考えてきたけど、モノにたいする物理的な執着や愛着差というものが、こんな小さな子供のレベルで、自然と社会ルール化するほどの原子発生的なものであるというのは、大変興味深い。
2019-05-23
# にゃー
お互いが自分の意見を言い合い、どちらが正しいかをがなり立てるのは不毛だ。問題は、「どちらが」「強いか」じゃない。「なにが」「良いか」だ。そのためには、もっと問う必要がある。それぞれの仮説に対して、なぜその仮説が成り立つと思うのか?どうしたら確かめられるのか?他の仮説はどうなのか?それにはもちろん時間もかかる。ゆっくり時間をとって、率直な考えを交換する必要がある。これは議論の基本のキだと思うが、基本からガタガタで支離滅裂なセッションが多い。というかほとんどがそう。人類の多くが、驚くほど稚拙なセッションに甘んじている。
2019-05-16
# にゃー
最近、カメラの楽しみ方(たくさんあるだろううちの一つ)が少し分かってきたような気がする。いままでは、基本的に「どうして思ったものがそのまま撮れないんだろう」「どうして目で見たものがそのまま撮れないんだろう」と思っていた。でも、ようやく最近分かってきたことがあって、それは「カメラと人間の目や脳は特性が違う」ということ。
ぼくがカメラに求めていたのは、僕が感じた心地良さやせつなさや、思い出に残っている『光景』であって、それは光だけでは構成されていない。音や匂いやあたたかさ、寒さや言葉や感情、つかれや思いや時の流れがないまぜになってそのときを構成している。だから基本的に、光を記録する機械では、それらを記録できない。その機械にできることがあるとしたら、ぼくの中にあるそのときの記憶を呼び覚ますような「写真」だ。それがどれくらい可能なのか、なぜそういった写真をいまぼくがうまく撮れないのかは、まだよく分からない。
一方で、「カメラというのは、ただ光を記録するための機械なんだ。人間とはまったく特性が違うんだ」と割り切ってしまうと、それによって得られるものがあることにも気づく。たとえばカメラは時間を止めることができる(人間の目で見えないほど短い時間に起こったことを見える形に記録できる)。望遠レンズを使えばとても遠くが見えるし、圧縮効果で空間を誇張することもできる。広角レンズも同様に、空間を誇張したり、普段見ることのない視点から風景を残すことができる。
そう考えると、それはそれで面白い。それはもはや、絵を描くことに近い。
ぼくがカメラに求めていたのは、僕が感じた心地良さやせつなさや、思い出に残っている『光景』であって、それは光だけでは構成されていない。音や匂いやあたたかさ、寒さや言葉や感情、つかれや思いや時の流れがないまぜになってそのときを構成している。だから基本的に、光を記録する機械では、それらを記録できない。その機械にできることがあるとしたら、ぼくの中にあるそのときの記憶を呼び覚ますような「写真」だ。それがどれくらい可能なのか、なぜそういった写真をいまぼくがうまく撮れないのかは、まだよく分からない。
一方で、「カメラというのは、ただ光を記録するための機械なんだ。人間とはまったく特性が違うんだ」と割り切ってしまうと、それによって得られるものがあることにも気づく。たとえばカメラは時間を止めることができる(人間の目で見えないほど短い時間に起こったことを見える形に記録できる)。望遠レンズを使えばとても遠くが見えるし、圧縮効果で空間を誇張することもできる。広角レンズも同様に、空間を誇張したり、普段見ることのない視点から風景を残すことができる。
そう考えると、それはそれで面白い。それはもはや、絵を描くことに近い。