メッセージ。 - diary
2019-05-30
# にゃー
はてなブックマークをやめると決めてから、基本的にはてなブックマークは見ていない。しかしながら、実際のところ暇を持て余している。空いた時間にすることがないので、カメラ関係の記事を読み漁ったり、過去に自分で撮った写真を見返したりしている。ただ、この資本主義社会の世の中、カメラ関係の記事というとどうしても機材のレビューが中心になってしまう。機材のレビューを読んでいると、それが欲しくなる。でもお金がないし買えない。よしんば買える金額の商品だったとしても、ふとした疑問が頭をよぎる。「何のために?」。いったい何の目的で、その機材が必要なのか。その機材を買って、そのあとどうするつもりなのか。また別のものが欲しくなるだけではないか。なぜそれが欲しいのか。
いったい自分は何をしているのか。何をしたいのか。何をしたくないのか。この世界で。
もがいている。あがいている。出口を求めて。
そもそも、出口というのは存在するのだろうか。出口とは何なのか。出口があるなら入り口もあるはず。いつどうやって入り口をくぐったのか。いつからここにいるのか。なぜ、入り口と出口のある世界があるのか。出口をくぐれたとして、そのあとどうする?なぜ出口を求める?
いったい自分は何をしているのか。何をしたいのか。何をしたくないのか。この世界で。
もがいている。あがいている。出口を求めて。
そもそも、出口というのは存在するのだろうか。出口とは何なのか。出口があるなら入り口もあるはず。いつどうやって入り口をくぐったのか。いつからここにいるのか。なぜ、入り口と出口のある世界があるのか。出口をくぐれたとして、そのあとどうする?なぜ出口を求める?
2019-05-28
# にゃー
いまどきはオープンシステムが当たり前だけれども、オープンシステムによる難しさというものは、やはり厳然として存在しているように思う。それは、他社の機器というブラックボックスで何が起こっているか分からないこと、現場のネットワークで何が起こっているか分からないことに起因する。正常時には問題なく動いているものが、「たまに動かない」「現地での本番運用時にだけ問題が起こる」といった場合、いったいどうしたらいいのか。オープンシステムに機器を組み込む場合、それらは設計に組み入れられなければならない。
2019-05-24
# にゃー
こないだ、NHKで『4歳児のヒミツ』という番組をやっていて、非常に興味深かった。面白かったポイントはいくつもあるのだけど、ひとつだけ。
全体で10人ほど集められた4歳児は、ある日半数ずつのグループに分けられた。1つのグループは室内に通され、ホールのケーキを出される。でも、「残りのグループの子たちが来てからみんなで食べるから、手をつけずに待っててね」とお預けをくらって子供達だけにされる。
ここを我慢できるかというのが一つの山場だが、なんとかこの場はみんなしてやり過ごした。その後、残りのグループの子たちが入って来て、みんなでケーキタイム。このとき、番組はケーキを人数分に切り分けるのではなく、一人分多めに切り分けた。そして、「一つ余ったけど、欲しい子はいる?」と尋ねた。このときだ。
何人かの子が名乗りを上げて、ケーキは平和的に片付いたのだけど、名乗り上げた子供達の中に、2つ目のグループの子はいなかったんだって。後から来た子供達は、最初からいた子供達が我慢してケーキを待っていたことを知っていた。だから、最初からいて我慢していた子たちに遠慮してというか、手をあげなかった。最初からいた子たちには、より強い所有感、所有権が発生していて、その場にいた子供全体がその空気を理解していた。そのことが驚きだった。
たとえば大人でも転職したとき、新しい人間がプロジェクトの方向性を変えるのは難しい。前からある者のほうが、なぜかイニシアティブを握っていて、プロジェクトや会社にダメなところや改善すべき点があっても、言いにくいし聞き入れられにくい。ぼくはこれまで、この現象を「譜代と外様」に似せて考えてきたけど、モノにたいする物理的な執着や愛着差というものが、こんな小さな子供のレベルで、自然と社会ルール化するほどの原子発生的なものであるというのは、大変興味深い。
全体で10人ほど集められた4歳児は、ある日半数ずつのグループに分けられた。1つのグループは室内に通され、ホールのケーキを出される。でも、「残りのグループの子たちが来てからみんなで食べるから、手をつけずに待っててね」とお預けをくらって子供達だけにされる。
ここを我慢できるかというのが一つの山場だが、なんとかこの場はみんなしてやり過ごした。その後、残りのグループの子たちが入って来て、みんなでケーキタイム。このとき、番組はケーキを人数分に切り分けるのではなく、一人分多めに切り分けた。そして、「一つ余ったけど、欲しい子はいる?」と尋ねた。このときだ。
何人かの子が名乗りを上げて、ケーキは平和的に片付いたのだけど、名乗り上げた子供達の中に、2つ目のグループの子はいなかったんだって。後から来た子供達は、最初からいた子供達が我慢してケーキを待っていたことを知っていた。だから、最初からいて我慢していた子たちに遠慮してというか、手をあげなかった。最初からいた子たちには、より強い所有感、所有権が発生していて、その場にいた子供全体がその空気を理解していた。そのことが驚きだった。
たとえば大人でも転職したとき、新しい人間がプロジェクトの方向性を変えるのは難しい。前からある者のほうが、なぜかイニシアティブを握っていて、プロジェクトや会社にダメなところや改善すべき点があっても、言いにくいし聞き入れられにくい。ぼくはこれまで、この現象を「譜代と外様」に似せて考えてきたけど、モノにたいする物理的な執着や愛着差というものが、こんな小さな子供のレベルで、自然と社会ルール化するほどの原子発生的なものであるというのは、大変興味深い。