メッセージ。 - diary
2019-03-19
# にゃー
久しぶりにTwitterをのぞいてみたら、「あなたのつぶやきがリツイートされました」的な通知が来てた。2009年のつぶやきだったのだけど、内容は最近(2019年)にはてなブックマークでコメントしたものとまったく同じだった。よくいえば一貫しているけど、10年同じことを言ってて何も変わってないなら、もうボットでよくない?と思った。そして、この内容と同じものをまた10年後、どこかで書いてる予感。あるいは、もうすでにどこかに同じものを書いているのかもしれない。ありうる。もしくは、もうぼくはボットで、ここを見ている誰か(自分含む)ももうボットなのかもしれない。あるいは、どこかの世界から取り残された思念体か。
2019-03-18
# にゃー
禁煙ならぬ「禁はてなブックマーク」は継続中。たぶん1週間か1か月ぐらいはもつ。思えば子供のころ、欲しいものがあっても我慢する技術を身につけたので、その後もずっと、欲しいものがあってもなんとかやり過ごすことができている。逆にいえば、もうずっと、欲しいものから遠ざかっている。見ないようにしている。よく言えば、過ぎたるを望まず。足るを知る暮らしといえるかもしれない。ただこれで良かったのか悪かったのか。欲しいものを欲しいと望み、手に入れられる人生であったならばどうだったろうか。少なくとも、欲しいものを欲しいと願う気持ちだけでも、持ち続けるような人生のほうが、いいのではないか。ぼくだけではない。ほかの人や、これからを生きる子供たちに、こんな風に我慢し諦める生き方を是として伝えるべきか。最終的には。欲しいものすべてを手に入れるのは難しい。実質的に不可能だし、どこかで人は、どうしてもなくしたくないものさえ失ってしまう。だから、どこかで諦めるのはいい。諦め方を学ぶことはすごく大事だ。ただ、諦めで満たされたような生き方は悲しすぎる。人生は、変えられるはずだ。
2019-03-15
# にゃー
とりあえず、スマホからはてなブックマークアプリをアンインストールした。禁煙みたいなもので、いつまで続くか分からないけど。
そうした理由について。なんだろうなぁ。まあ、たいした話ではない。思うとおりの結果が得られなかったというか。記事にコメントを書いても、スターがもらえないとか。
バカみたいな話だ。まぁ、スターそのものが欲しいわけではないのだけど、そういうのが気になってしまって、でもそれが得られないというのは、嫌だなと。
認めたくないけど、承認欲求なのかもしれない。あるいは、誰かの共感を求めているというか。いずれにせよ、外に何かを求め、届かない状態。いったい自分は何をやっているのか。
外を見ることじたいは悪いことではない。人間には、中と外しかないから。中のみしか認知できないなら、自己を認知できないように思う。光がなければ物体が見えないように、物体そのものしかなければ、物体は自身の特性(色や形や重さや温もりなど)を認知できないのではないか。
もし五感を閉ざされた人がいたとして、何も見えず、何も聞こえず、何も触れず、何も味わえず、何も匂えないとしたら、自己が存在すると考えられるだろうか。
あるいは、後天的にその状態になってしまったとしたら。自己が生きているか、死んでいるか、考えるということそのものが形を失い、あるいは空間自体がなくなり、時間さえも失って、すべて溶け合って、消えてなくなってしまうのではないか。
だから、外が存在すること、そことのつながりを求めること自体は否定しない。生きている、あるいはこの次元に存在するということは、この次元の中の世界と何かしらインタラクションするということだ。たぶんそれは美しい。
そうした理由について。なんだろうなぁ。まあ、たいした話ではない。思うとおりの結果が得られなかったというか。記事にコメントを書いても、スターがもらえないとか。
バカみたいな話だ。まぁ、スターそのものが欲しいわけではないのだけど、そういうのが気になってしまって、でもそれが得られないというのは、嫌だなと。
認めたくないけど、承認欲求なのかもしれない。あるいは、誰かの共感を求めているというか。いずれにせよ、外に何かを求め、届かない状態。いったい自分は何をやっているのか。
外を見ることじたいは悪いことではない。人間には、中と外しかないから。中のみしか認知できないなら、自己を認知できないように思う。光がなければ物体が見えないように、物体そのものしかなければ、物体は自身の特性(色や形や重さや温もりなど)を認知できないのではないか。
もし五感を閉ざされた人がいたとして、何も見えず、何も聞こえず、何も触れず、何も味わえず、何も匂えないとしたら、自己が存在すると考えられるだろうか。
あるいは、後天的にその状態になってしまったとしたら。自己が生きているか、死んでいるか、考えるということそのものが形を失い、あるいは空間自体がなくなり、時間さえも失って、すべて溶け合って、消えてなくなってしまうのではないか。
だから、外が存在すること、そことのつながりを求めること自体は否定しない。生きている、あるいはこの次元に存在するということは、この次元の中の世界と何かしらインタラクションするということだ。たぶんそれは美しい。