メッセージ。 - diary
2024-05-13
# にゃー
日本のGDP(国内総生産)が4位に転落したとか生産性や付加価値がどうとかいう話がよく目に付く。でもなんか、個人的にはGDPも生産性も付加価値もいまいちピンとこない。日本は生産性や付加価値が低くて、外国はそれらが高いというのはどういうことなのか。
なんとなくだけど、結局のところアメリカさんや世界の人は「お金が多く流通する」ことを生産性が高いと言っている気がする。たとえばアメリカではここ数十年で収入が何倍に増えたけれどもインフレで物価も上がったとか。たくさん収入をもらってたくさん支出したことを生産性と呼んでいるのではないか。
経済のことは素人だし頭がそんなに良くないのでまったく頓珍漢なことを言っているのかもしれないけど、もし「お金の流通の多寡を生産性と呼んでいます」と仮定すると、説明できるような気がするなぁという事象がいくつか思い付く。
たとえばインバウンド。外国からの観光客が日本に来ると、円安の影響もあって何もかもがとても安いと驚いているとのこと。しかも値段の安さに加えてサービスも断然いいとか、治安が良いとか街が綺麗だとかが評価されている模様。
値段の安さは円安とか長年のデフレが要因といえるだろうから保留するとして、後者のサービス、治安、街が綺麗はどういうことか。もしかしたらこれは、「日本人はお金をもらっていないにもかかわらず何らかの仕事をしている」ということなのではないか。
お店の人がお客さんのために期待以上の品質のサービスを提供しているとか、他者に迷惑をかけないよう暮らしているとか、人を平等に扱うとか。日本人にとっては当たり前のことでお金の授受がなくても自然に行われている行動が、外国人から見れば普通でないというのなら、外国ではそれらの安全や品質や親切をお金で売り買いするのがスタンダードだけれども、日本ではお金ではないもので授受されているということの気がする。
お金のやり取りが伴わないから経済活動にはカウントされず、結果として生産性や付加価値が低くて国内総生産も低いということなら、「なるほど、それはそうかもね」と納得できる部分がある。いや、日本すごいと言いたいわけではなく。生産性とかGDPの計算方法って、どこまで信じていいのかなというような話。
以前にブータンはGDP(国内総生産)ではなくGNH(国内総幸福量)を重視してますよといった話があったけれども、あれに似た話かな。たとえば唯物主義的になんでもかんでも「お金」を介するようにしたら、あちらさんのいう「生産性」も「国内総生産」も「付加価値」も上がるんじゃない?でもそういうことをして市民が日々の暮らしに幸せを感じられるようになるかは疑問だ。
逆にアメリカなんかで市民が不幸そうにしているのは、なんでもかんでもお金を介するようにしちゃった過度の資本主義が一因なんじゃないかとか。お金がなければ安全や安心や信頼が手に入らないなら、そりゃまぁしんどい社会だろうなと思う。
なんとなくだけど、結局のところアメリカさんや世界の人は「お金が多く流通する」ことを生産性が高いと言っている気がする。たとえばアメリカではここ数十年で収入が何倍に増えたけれどもインフレで物価も上がったとか。たくさん収入をもらってたくさん支出したことを生産性と呼んでいるのではないか。
経済のことは素人だし頭がそんなに良くないのでまったく頓珍漢なことを言っているのかもしれないけど、もし「お金の流通の多寡を生産性と呼んでいます」と仮定すると、説明できるような気がするなぁという事象がいくつか思い付く。
たとえばインバウンド。外国からの観光客が日本に来ると、円安の影響もあって何もかもがとても安いと驚いているとのこと。しかも値段の安さに加えてサービスも断然いいとか、治安が良いとか街が綺麗だとかが評価されている模様。
値段の安さは円安とか長年のデフレが要因といえるだろうから保留するとして、後者のサービス、治安、街が綺麗はどういうことか。もしかしたらこれは、「日本人はお金をもらっていないにもかかわらず何らかの仕事をしている」ということなのではないか。
お店の人がお客さんのために期待以上の品質のサービスを提供しているとか、他者に迷惑をかけないよう暮らしているとか、人を平等に扱うとか。日本人にとっては当たり前のことでお金の授受がなくても自然に行われている行動が、外国人から見れば普通でないというのなら、外国ではそれらの安全や品質や親切をお金で売り買いするのがスタンダードだけれども、日本ではお金ではないもので授受されているということの気がする。
お金のやり取りが伴わないから経済活動にはカウントされず、結果として生産性や付加価値が低くて国内総生産も低いということなら、「なるほど、それはそうかもね」と納得できる部分がある。いや、日本すごいと言いたいわけではなく。生産性とかGDPの計算方法って、どこまで信じていいのかなというような話。
以前にブータンはGDP(国内総生産)ではなくGNH(国内総幸福量)を重視してますよといった話があったけれども、あれに似た話かな。たとえば唯物主義的になんでもかんでも「お金」を介するようにしたら、あちらさんのいう「生産性」も「国内総生産」も「付加価値」も上がるんじゃない?でもそういうことをして市民が日々の暮らしに幸せを感じられるようになるかは疑問だ。
逆にアメリカなんかで市民が不幸そうにしているのは、なんでもかんでもお金を介するようにしちゃった過度の資本主義が一因なんじゃないかとか。お金がなければ安全や安心や信頼が手に入らないなら、そりゃまぁしんどい社会だろうなと思う。
2024-05-07
# にゃー
写真をレタッチすることの是非とか、どれくらいレタッチするべきかについて。
YouTubeでまきりなさんという方のチャネルをいつも楽しく試聴しているが、最近レタッチについて語られていた。自分でも考えることのあるテーマなので現時点での自分の考え方を書いてみる。
https://www.youtube.com/watch?v=f13AxSj3H88&t=15s
結論からいうと、ぼく個人としては「やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい」というのがレタッチに対する考え。「それは写真かどうか」は個人的に気にしない。
どうしてこう考えるかというと、きっかけになったのはモノクロ撮影かなぁ。まきりなさんや他の人が撮ってる写真を見て、最近自分でもモノクロ写真を撮っている。モノクロはけっこう楽しくって、カラー写真では見えなかったものが見えるというか、強調されるというか、「この絵はモノクロのほうがいいな」というケースがあるんだよね。
でも、モノクロというのは言ってしまえばレタッチだ。現実にある色を抜いてしまっているわけだし、カラーかモノクロかを撮影者が選んでいるわけだから。そこに作画の意図が介在しているし、モノクロかどうか以外にも被写体と背景の選択、構図や光やシャッタスピードなど、結局のところ写真は撮影者の意図が反映されている。
逆にほとんど意図せずランダムにシャッターを切っても、「面白い」写真というのはほとんど撮れないというのが経験上ある。だから写真というのはある程度撮影者によって作られたものであるし、撮影者が作るものだと思う。そして、どれくらい作り込むか、どう作るか、というのは結局のところ撮影者の意図しだいだし、それをどうこう言うつもりが自分にはあまりない。
個人的には自分が撮る写真はほとんどレタッチしない。基本的には自分の記録と記憶のために写真を撮っているから。絵を描いたり物語を作ったり他の人に見せる作品を作っているわけではないから。他の人の写真を見るときも、あまりレタッチが入っていないほうが好きかな。写真を見たとき、「すごい写真だなぁ」「どうやって撮ったんだろう」「自分でも撮ってみたいなぁ」という気持ちになることがあって、それがレタッチなしで撮られたものならより「すごいな」という感情が増すとは思うけど、別に競争をしているわけではないから、「レタッチするのはズルい」とか「真実じゃない」とかいう風には考えない。
「その人はそう選択したんだな」「その人はそういう人なんだな」というだけ。誰がどういう風に生きようとも、それはそれでいいと思う。ただそういったたくさんの生き方のなかで、「好きだな」と感じるものがたまにあって、そういうに触れるのはうれしいかな。いまのぼくにとって、そういうのはレタッチがどうこうというよりも、撮影した人の視点とか世界との接し方であることが多い気がする。「こんな風に世界を見て、世界と接することができるのは素敵だなぁ」という写真があるんだよね。世界観が写真に込められているというか。
というか、撮影とか絵作りに意図がある以上、どんな写真にも世界観が込められているのだろう。だとしたら、写真を見て好きかどうかは、撮った人の世界観、撮った人の世界が好きかどうかということになる。そんな風に、思わず好きになってしまう世界観を持っていて、それを写真に表現できる人はすごいなと思う。
YouTubeでまきりなさんという方のチャネルをいつも楽しく試聴しているが、最近レタッチについて語られていた。自分でも考えることのあるテーマなので現時点での自分の考え方を書いてみる。
https://www.youtube.com/watch?v=f13AxSj3H88&t=15s
結論からいうと、ぼく個人としては「やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい」というのがレタッチに対する考え。「それは写真かどうか」は個人的に気にしない。
どうしてこう考えるかというと、きっかけになったのはモノクロ撮影かなぁ。まきりなさんや他の人が撮ってる写真を見て、最近自分でもモノクロ写真を撮っている。モノクロはけっこう楽しくって、カラー写真では見えなかったものが見えるというか、強調されるというか、「この絵はモノクロのほうがいいな」というケースがあるんだよね。
でも、モノクロというのは言ってしまえばレタッチだ。現実にある色を抜いてしまっているわけだし、カラーかモノクロかを撮影者が選んでいるわけだから。そこに作画の意図が介在しているし、モノクロかどうか以外にも被写体と背景の選択、構図や光やシャッタスピードなど、結局のところ写真は撮影者の意図が反映されている。
逆にほとんど意図せずランダムにシャッターを切っても、「面白い」写真というのはほとんど撮れないというのが経験上ある。だから写真というのはある程度撮影者によって作られたものであるし、撮影者が作るものだと思う。そして、どれくらい作り込むか、どう作るか、というのは結局のところ撮影者の意図しだいだし、それをどうこう言うつもりが自分にはあまりない。
個人的には自分が撮る写真はほとんどレタッチしない。基本的には自分の記録と記憶のために写真を撮っているから。絵を描いたり物語を作ったり他の人に見せる作品を作っているわけではないから。他の人の写真を見るときも、あまりレタッチが入っていないほうが好きかな。写真を見たとき、「すごい写真だなぁ」「どうやって撮ったんだろう」「自分でも撮ってみたいなぁ」という気持ちになることがあって、それがレタッチなしで撮られたものならより「すごいな」という感情が増すとは思うけど、別に競争をしているわけではないから、「レタッチするのはズルい」とか「真実じゃない」とかいう風には考えない。
「その人はそう選択したんだな」「その人はそういう人なんだな」というだけ。誰がどういう風に生きようとも、それはそれでいいと思う。ただそういったたくさんの生き方のなかで、「好きだな」と感じるものがたまにあって、そういうに触れるのはうれしいかな。いまのぼくにとって、そういうのはレタッチがどうこうというよりも、撮影した人の視点とか世界との接し方であることが多い気がする。「こんな風に世界を見て、世界と接することができるのは素敵だなぁ」という写真があるんだよね。世界観が写真に込められているというか。
というか、撮影とか絵作りに意図がある以上、どんな写真にも世界観が込められているのだろう。だとしたら、写真を見て好きかどうかは、撮った人の世界観、撮った人の世界が好きかどうかということになる。そんな風に、思わず好きになってしまう世界観を持っていて、それを写真に表現できる人はすごいなと思う。
2024-01-26
# にゃー
少し前に人と話していて、「英語が喋れてすごいですね。外国人と喋っているところを見て感動しました」みたいなことを言われた。なので「いやいや、ぼくの英語なんて全然たいしたことないんですよ」と返事したうえで以下のようなことを説明した(実際、ぼくの英語はひどいもので本当にたいしたことではない)。
- 人間どうし、生きているどうしなので、面と向かえばお互い言葉が分からなくても言いたいことはなんとなく分かる。大事なのは英語や言葉を喋ることではなくて、相手が言いたがっていることやしたがっていることを理解し何かをしてあげようとする気持ちだ。むしろ言葉が分からないのに、なんとかして相手を助けてあげようとするその姿勢にこそ、人は感動する。だから英語を話せないことを恥じる必要はない。「英語が話せないから」とかいう理由で怖気づき、相手に対して手を差し延べられなかったならば、それこそが恥じるべきことだ。
- とはいえ英語がまったく喋れないと相手の言いたいことが大雑把にしか理解できないので、喋れるほうが便利だ。それに少しでも喋れると勇気になる。ぼくも過去にできなかったことがたくさんあって悔やしかったので、英語を勉強しはじめた。
- 英語の勉強法はいろいろあるけれども、楽しみながらやるのがいいんじゃないかと思う。たとえばぼくは、最近YouTubeで外国人によるカメラレビューや写真について語っているのをよく見る。英語についていけなくて何を言っているのかよく分からないことも多いけれど、それでも同じカメラ好き、写真好きどうし、どんな気持ちでどんなことを言おうとしているかはなんとなく分かる。語られているカメラやレンズのことを知りたい、撮られた写真の撮影技法などを知りたいという気持ちで見ているけど、この人はどういう考えで写真に向きあっているか、この人はどんな人なのかにも興味が湧いてくる。いや、もっといえば「この人はこういう人なんだな」というリアルな実像が心のなかに住みつくような感じ。ちょっと好きだな、みたいな。
- そんな風にただ楽しんでいるだけなんだけど、英語を学ぶ過程で「英語を喋っている誰かを好きになる」というのは重要な要素なのではないかと思う。なぜかというと、英語を喋れるようになるためには、英語自体を学ぶだけではダメで、英語で喋っているその音や表情に込められた気持ちとか共感とかコンテキストが、「喋る」という行為の根幹にあると思うから。逆に文法や単語だけ一生懸命覚えて使いこなせるようになったとしても、そこに乗る気持ちや心を理解できなければ喋れるようにはならないだろうから。
- あと、ぼくは基本ダメな人間だから、頑張って英語を勉強するということが難しい。だから頑張ってなんかいなくて、ただ英語の勉強をやめなかっただけ。自分の頭が悪いことを自覚して、無理せずちょっとずつでもいいからできることをやっている。「ちょっとでもいいから今よりできるようになりたい」、そういう気持ちを10年とかもっと長い期間持ち続けて何がしかをしているから、多少は英語を喋れるようになってきている。
- 人間どうし、生きているどうしなので、面と向かえばお互い言葉が分からなくても言いたいことはなんとなく分かる。大事なのは英語や言葉を喋ることではなくて、相手が言いたがっていることやしたがっていることを理解し何かをしてあげようとする気持ちだ。むしろ言葉が分からないのに、なんとかして相手を助けてあげようとするその姿勢にこそ、人は感動する。だから英語を話せないことを恥じる必要はない。「英語が話せないから」とかいう理由で怖気づき、相手に対して手を差し延べられなかったならば、それこそが恥じるべきことだ。
- とはいえ英語がまったく喋れないと相手の言いたいことが大雑把にしか理解できないので、喋れるほうが便利だ。それに少しでも喋れると勇気になる。ぼくも過去にできなかったことがたくさんあって悔やしかったので、英語を勉強しはじめた。
- 英語の勉強法はいろいろあるけれども、楽しみながらやるのがいいんじゃないかと思う。たとえばぼくは、最近YouTubeで外国人によるカメラレビューや写真について語っているのをよく見る。英語についていけなくて何を言っているのかよく分からないことも多いけれど、それでも同じカメラ好き、写真好きどうし、どんな気持ちでどんなことを言おうとしているかはなんとなく分かる。語られているカメラやレンズのことを知りたい、撮られた写真の撮影技法などを知りたいという気持ちで見ているけど、この人はどういう考えで写真に向きあっているか、この人はどんな人なのかにも興味が湧いてくる。いや、もっといえば「この人はこういう人なんだな」というリアルな実像が心のなかに住みつくような感じ。ちょっと好きだな、みたいな。
- そんな風にただ楽しんでいるだけなんだけど、英語を学ぶ過程で「英語を喋っている誰かを好きになる」というのは重要な要素なのではないかと思う。なぜかというと、英語を喋れるようになるためには、英語自体を学ぶだけではダメで、英語で喋っているその音や表情に込められた気持ちとか共感とかコンテキストが、「喋る」という行為の根幹にあると思うから。逆に文法や単語だけ一生懸命覚えて使いこなせるようになったとしても、そこに乗る気持ちや心を理解できなければ喋れるようにはならないだろうから。
- あと、ぼくは基本ダメな人間だから、頑張って英語を勉強するということが難しい。だから頑張ってなんかいなくて、ただ英語の勉強をやめなかっただけ。自分の頭が悪いことを自覚して、無理せずちょっとずつでもいいからできることをやっている。「ちょっとでもいいから今よりできるようになりたい」、そういう気持ちを10年とかもっと長い期間持ち続けて何がしかをしているから、多少は英語を喋れるようになってきている。
2024-01-20
# にゃー
ここのところ、ずっと暗い世相だ。世界で起きている戦争のこと、疫病のこと、災害のこと、事故のこと、政治のこと。言いたいことが山ほどある。それらのことを調べ、考える。ときには何がしかを書きはじめて送信ボタンを押す寸前まで行くこともある。
でも、難しい。結局のところぼくは何もできない。世界を変えられない。ぼくの言うことも書くことも、いま起きている悲惨な出来事の前では無力だ。どんなに正論を振りかざしてもまったく虚しい。ぼくは安全な場所にいるだけで何も行動していないし、たいしたことをすることもできない。綺麗事を並べれば並べるほど、自分の愚かさを痛感して嫌になる。
だから何も書けずにいる。気になって心配しているあの人たちのことも、地域のことも、書けない。「そうじゃないでしょう」と憤るニュースについても書けない。逆に手元にある日常のささいなことも書くことを憚られる。
たとえば「今日は空が綺麗だった。それだけでいい日だった」なんて思う日もある。でも、ふと我にかえって世界に目を向けると、そんなことを思っていいのかとも思う。「いい日だった」なんていう言葉が、誰かを傷付けてしまうことが怖い。本当に「いい日」だったんだろうか。
それが率直な気持ち。自分にはどうすればいいのか分からない。でも、ある程度分かっていることもあり、分かっていないこともある、と思う。
子供のころ、世界は変えられると思っていたし、いまでもちょっとぐらいなら変えられると信じている。でも21世紀になって、あるいは大人になって。この世界で何が起きているのかを、知ることすら難しいと感じている。
ときには間違うこともあるけれど、大人の言うことは正しいと思って生きてきた。でもいつからか、実際には新聞の言うことも、偉い人が言うことも、大統領の言葉さえ、正しいのかどうか疑わなければいけなくなってしまった。
「大人の言うことが正しくない」とか、「大人は何もできない」という気持ちがどんどん増えている。誰かを責めているわけじゃない。自分自身大人になって、何が正しいのか正直分からないし、何ができるかと問われても答えに窮する。でも、こんなのあんまりだという気持ちもある。
ぼくは世界につながっている。世界のなかで果たすべき責任がある。その責任とは何か。そして、責任を果たした先に何があるのか。何をもらい、何を与えるのか。あるいは逆に、ぼくは世界につながっているとして、「どのくらい」つながっているのか。
結論は出ない。いまのところ。でも、まだ、ぼくは生きている。いまのところ。
でも、難しい。結局のところぼくは何もできない。世界を変えられない。ぼくの言うことも書くことも、いま起きている悲惨な出来事の前では無力だ。どんなに正論を振りかざしてもまったく虚しい。ぼくは安全な場所にいるだけで何も行動していないし、たいしたことをすることもできない。綺麗事を並べれば並べるほど、自分の愚かさを痛感して嫌になる。
だから何も書けずにいる。気になって心配しているあの人たちのことも、地域のことも、書けない。「そうじゃないでしょう」と憤るニュースについても書けない。逆に手元にある日常のささいなことも書くことを憚られる。
たとえば「今日は空が綺麗だった。それだけでいい日だった」なんて思う日もある。でも、ふと我にかえって世界に目を向けると、そんなことを思っていいのかとも思う。「いい日だった」なんていう言葉が、誰かを傷付けてしまうことが怖い。本当に「いい日」だったんだろうか。
それが率直な気持ち。自分にはどうすればいいのか分からない。でも、ある程度分かっていることもあり、分かっていないこともある、と思う。
子供のころ、世界は変えられると思っていたし、いまでもちょっとぐらいなら変えられると信じている。でも21世紀になって、あるいは大人になって。この世界で何が起きているのかを、知ることすら難しいと感じている。
ときには間違うこともあるけれど、大人の言うことは正しいと思って生きてきた。でもいつからか、実際には新聞の言うことも、偉い人が言うことも、大統領の言葉さえ、正しいのかどうか疑わなければいけなくなってしまった。
「大人の言うことが正しくない」とか、「大人は何もできない」という気持ちがどんどん増えている。誰かを責めているわけじゃない。自分自身大人になって、何が正しいのか正直分からないし、何ができるかと問われても答えに窮する。でも、こんなのあんまりだという気持ちもある。
ぼくは世界につながっている。世界のなかで果たすべき責任がある。その責任とは何か。そして、責任を果たした先に何があるのか。何をもらい、何を与えるのか。あるいは逆に、ぼくは世界につながっているとして、「どのくらい」つながっているのか。
結論は出ない。いまのところ。でも、まだ、ぼくは生きている。いまのところ。