メッセージ。 - diary
2023-12-26
# にゃー
Nikon Zfの実機を触ってきた。スペック表からは大きさと重さが少なくともぼくのニーズに合わないから見送っていたのだけど、あまりにも評判が良いので気になったのだ。だってライカ使いの人が乗り換えようかなぁと言っているぐらいなんだもの。ただ、結局
Not for me だった。以降はニコン好き、ソニー好きの人は読まないほうがいいかもしれない。
実際に触ってみて、初報で分かっていたことだけどやっぱり重い。大きさについてはなんとか許容できるかもしれないけど、重さについてはグリップの形状もあいまってだいぶしんどく感じた。重いとなにが問題かというと、ぼくのスタイルではカメラを右手でつかんで被写体を捜す時間が長くなるので手が痛くなるのがつらい。それに被写体を見つけてからもカメラを構えるとき、カメラの重量が大きいことで向きを変えるヨーモーメントが大きくなり、軽いカメラに比べて自在に向きを変えにくいのもストレスになる。
それと、重量に関連して気になったのはグリップだ。あるのかないのか分からないぐらいのグリップがZfにはついているけど、人差し指があたる部分が尖っているので痛い。これは右手で掴んで持ち運ぶときもカメラを構えるときも影響があって、持ち方を工夫すれば痛みを緩和する持ち方ができそうにも思ったけれども、常時そのことを気にしながらカメラを使わなければいけないのはしんどい。心地良くない。
グリップの形状に関しては、もし親指をかけるサムグリップにあたる部分があればもう少しつかみやすくなっただろうにそれもない。結局何がしたかったのかよく分からないグリップになっている。あのように小さくて痛くてつかみにくい中途半端なグリップを付けるなら、いっそZfcのようにまったくグリップなしにすればよかったのに。まぁ、結局後付けのグリップを付ければそういった問題は解決するだろうからそうしろってことなのかもしれないけど。
次の不満点。前後ダイアルが硬い。上部のISOやシャッタースピードダイヤルと同じぐらいの硬さだったけれども、あの硬さでは軽快に回せない。カチ・カチ・カチと1つずつ間違いのないように回す用途ならあれでいいけど、前後ダイヤルはグルグルグルグルとたくさん回したい用途が普通だと思うのであれでは困る。実際、Zfcのほうも触ってみたけどZfcの前後ダイヤルはグルグルしやすい柔らかさだった。どうして機種によって違うのか。意図が分からない。
※ ちなみに、ダイヤルが硬いのはZ6とかも同じだから何らかの理由で「このグレードの機種のダイアルは硬めでなければならない」という考え方があるんだろうと想像する。でも個人的にはZ6にせよZfにせよあの硬さが好みではない。雪山とかで手袋をしているときにはいいのかもしれないけど…。
Zfに関してぼくにとっての主な、そして致命的な不満は以上かな。まぁ前後ダイヤルは使わなければ済む(代わりに上部ダイヤルでクラシックな操作をする)ことで対応できるし、グリップが痛くて中途半端でにぎりにくい件に関しては後付けグリップを付ければ対応できるか。ただ、以上2点に共通して言えることとしては、「どっちも用意したからどちらかを使えばいいでしょ」的な考え方が設計の背景にあるような気がして気分が良くない。
上記の不満点を胸に、近くにあったソニーのα7CIIも触ってみた。するととっても軽いしグリップも優しい。ペンタ部がないのでサイズも小振りでとてもいいではないか。ダイヤルの硬さは試すのを失念してしまったが、過去の経験上ソニーのα7系でダイヤルの硬さは「ちょうど良かった」と記憶している。そういう意味ではぼくの用途である「スナップシュート」において、よっぽど理想的だなと感じた。
ただ、α7CIIにも不満点がなくはなくて、手にして感じたのはシャッター音の違和感。なんかコピー機を動かしたときみたいな音が筐体内に響くし音自体もちょっと大きい。スナップショットは静かに写真を撮りたいのでこの点はうれしくない。Zfのシャッター音は上質に聞こえたのでこの部分はZfの圧勝だった。ちなみにZfcのシャッター音はあまり上質に聞こえず(ありていに言えばチープだった)音も少し大きめだった。それとソニーのカメラは以前使っていたときに故障が多くて辟易した記憶がよみがえる。どれも帯に短し襷に流しだ。100点満点のカメラはない。
というわけで、最新の(魅力的な)カメラをいくつか触ってみたけれど、結論は「いま持ってるカメラでいいね」という「結局家が一番いいね」的なものになってしまった。良くも悪くも。まぁ、いま持ってるカメラも厳選した選考の結果手元に来ているわけだし、いろんなところに連れて行ってたくさんの写真を撮って手に馴染んでいるという愛着や情があるから、これを越えるのは難しい部分もあるのだ。
ちなみに、以下はいまの自分のカメラ選考基準。いずれも「普段使いの鞄に毎日入れて日常のなかでスナップシュートしたい」という用途・観点になっている。
- 操作性:
ダイヤルやボタン、機能、メニュー、ファインダーなどが「ちょうどいい」かどうか。手と体に馴染んで、心地良く、楽しめるかどうか。
- 画質:
出てくる画像に満足できるかどうか。RAW現像はあまりしたくないから撮って出しで満足できるのが理想。一応動画も撮れてほしい。
- 運用性
好みのスタイルで持ち歩けるかどうか。お気に入りの鞄に入るかどうか。重すぎて疲れたり肩が痛くなったり、大きすぎて「日常」を圧迫するのはNG。
- 価格
手が届く範囲の値段であることはもちろんだけど、アウトドアで使うので「壊れたらどうしよう」と心配になるのは困る。「壊れても修理して使いたい、壊れても常識的な値段で直せるし、最悪は買い直しも可能」と考えられる「入手性」が必要。なので背伸びして手を伸ばしてやっと届くというような価格はNG。「これは高価だから大事に扱わなければ」と家にしまっておいてしまうのも良くない。
- 壊れにくさ
価格にも関連するけど、壊れにくいというのは安心感につながるし、カメラと付き合いやすくなるので愛着にもつながる重要なファクター。個人的には物持ちが良いほうで、気に入ったら長く手元に置くからメーカー修理保証期間が過ぎても運用を続ける可能性が十分ある。それくらい長くできるだけ故障せずに使えるのが理想。そういう意味ではソニーは心許ない。「最新のやつに買い替えればいいでしょ」みたいな思想は困る。機能とかスペックとかはソニーのα7CIIがかなりいいセンいってるんだけど、思想とか安心感の部分でためらいがある。
Not for me だった。以降はニコン好き、ソニー好きの人は読まないほうがいいかもしれない。
実際に触ってみて、初報で分かっていたことだけどやっぱり重い。大きさについてはなんとか許容できるかもしれないけど、重さについてはグリップの形状もあいまってだいぶしんどく感じた。重いとなにが問題かというと、ぼくのスタイルではカメラを右手でつかんで被写体を捜す時間が長くなるので手が痛くなるのがつらい。それに被写体を見つけてからもカメラを構えるとき、カメラの重量が大きいことで向きを変えるヨーモーメントが大きくなり、軽いカメラに比べて自在に向きを変えにくいのもストレスになる。
それと、重量に関連して気になったのはグリップだ。あるのかないのか分からないぐらいのグリップがZfにはついているけど、人差し指があたる部分が尖っているので痛い。これは右手で掴んで持ち運ぶときもカメラを構えるときも影響があって、持ち方を工夫すれば痛みを緩和する持ち方ができそうにも思ったけれども、常時そのことを気にしながらカメラを使わなければいけないのはしんどい。心地良くない。
グリップの形状に関しては、もし親指をかけるサムグリップにあたる部分があればもう少しつかみやすくなっただろうにそれもない。結局何がしたかったのかよく分からないグリップになっている。あのように小さくて痛くてつかみにくい中途半端なグリップを付けるなら、いっそZfcのようにまったくグリップなしにすればよかったのに。まぁ、結局後付けのグリップを付ければそういった問題は解決するだろうからそうしろってことなのかもしれないけど。
次の不満点。前後ダイアルが硬い。上部のISOやシャッタースピードダイヤルと同じぐらいの硬さだったけれども、あの硬さでは軽快に回せない。カチ・カチ・カチと1つずつ間違いのないように回す用途ならあれでいいけど、前後ダイヤルはグルグルグルグルとたくさん回したい用途が普通だと思うのであれでは困る。実際、Zfcのほうも触ってみたけどZfcの前後ダイヤルはグルグルしやすい柔らかさだった。どうして機種によって違うのか。意図が分からない。
※ ちなみに、ダイヤルが硬いのはZ6とかも同じだから何らかの理由で「このグレードの機種のダイアルは硬めでなければならない」という考え方があるんだろうと想像する。でも個人的にはZ6にせよZfにせよあの硬さが好みではない。雪山とかで手袋をしているときにはいいのかもしれないけど…。
Zfに関してぼくにとっての主な、そして致命的な不満は以上かな。まぁ前後ダイヤルは使わなければ済む(代わりに上部ダイヤルでクラシックな操作をする)ことで対応できるし、グリップが痛くて中途半端でにぎりにくい件に関しては後付けグリップを付ければ対応できるか。ただ、以上2点に共通して言えることとしては、「どっちも用意したからどちらかを使えばいいでしょ」的な考え方が設計の背景にあるような気がして気分が良くない。
上記の不満点を胸に、近くにあったソニーのα7CIIも触ってみた。するととっても軽いしグリップも優しい。ペンタ部がないのでサイズも小振りでとてもいいではないか。ダイヤルの硬さは試すのを失念してしまったが、過去の経験上ソニーのα7系でダイヤルの硬さは「ちょうど良かった」と記憶している。そういう意味ではぼくの用途である「スナップシュート」において、よっぽど理想的だなと感じた。
ただ、α7CIIにも不満点がなくはなくて、手にして感じたのはシャッター音の違和感。なんかコピー機を動かしたときみたいな音が筐体内に響くし音自体もちょっと大きい。スナップショットは静かに写真を撮りたいのでこの点はうれしくない。Zfのシャッター音は上質に聞こえたのでこの部分はZfの圧勝だった。ちなみにZfcのシャッター音はあまり上質に聞こえず(ありていに言えばチープだった)音も少し大きめだった。それとソニーのカメラは以前使っていたときに故障が多くて辟易した記憶がよみがえる。どれも帯に短し襷に流しだ。100点満点のカメラはない。
というわけで、最新の(魅力的な)カメラをいくつか触ってみたけれど、結論は「いま持ってるカメラでいいね」という「結局家が一番いいね」的なものになってしまった。良くも悪くも。まぁ、いま持ってるカメラも厳選した選考の結果手元に来ているわけだし、いろんなところに連れて行ってたくさんの写真を撮って手に馴染んでいるという愛着や情があるから、これを越えるのは難しい部分もあるのだ。
ちなみに、以下はいまの自分のカメラ選考基準。いずれも「普段使いの鞄に毎日入れて日常のなかでスナップシュートしたい」という用途・観点になっている。
- 操作性:
ダイヤルやボタン、機能、メニュー、ファインダーなどが「ちょうどいい」かどうか。手と体に馴染んで、心地良く、楽しめるかどうか。
- 画質:
出てくる画像に満足できるかどうか。RAW現像はあまりしたくないから撮って出しで満足できるのが理想。一応動画も撮れてほしい。
- 運用性
好みのスタイルで持ち歩けるかどうか。お気に入りの鞄に入るかどうか。重すぎて疲れたり肩が痛くなったり、大きすぎて「日常」を圧迫するのはNG。
- 価格
手が届く範囲の値段であることはもちろんだけど、アウトドアで使うので「壊れたらどうしよう」と心配になるのは困る。「壊れても修理して使いたい、壊れても常識的な値段で直せるし、最悪は買い直しも可能」と考えられる「入手性」が必要。なので背伸びして手を伸ばしてやっと届くというような価格はNG。「これは高価だから大事に扱わなければ」と家にしまっておいてしまうのも良くない。
- 壊れにくさ
価格にも関連するけど、壊れにくいというのは安心感につながるし、カメラと付き合いやすくなるので愛着にもつながる重要なファクター。個人的には物持ちが良いほうで、気に入ったら長く手元に置くからメーカー修理保証期間が過ぎても運用を続ける可能性が十分ある。それくらい長くできるだけ故障せずに使えるのが理想。そういう意味ではソニーは心許ない。「最新のやつに買い替えればいいでしょ」みたいな思想は困る。機能とかスペックとかはソニーのα7CIIがかなりいいセンいってるんだけど、思想とか安心感の部分でためらいがある。
2023-11-16
# にゃー
PROSとCONSを挙げろっていわれて表を作りはじめるんだけど、いっつも途中でモヤモヤしちゃうんだよなぁ。たとえばごはんとパンを比べてごはんのPROS/CONSを作るとする。
ごはんのPROSは
1. 腹持ちがする
2. おにぎりにすると冷めてもおいしい
3. 一度炊いておけば色んなおかずと組み合わせできる
4. 小麦アレルギーの人でも食べられる
5. 国内自給できる
6. お米の状態であれば保存が効く
みたいなPROSリストができあがる。ここまではいいんだけど、次にCONSを書こうとしたときが問題で
ごはんのCONSは
1. 値段が高い
2. 調理に時間がかかる
3. 食べ終わったあとの洗い物が多い
のようになる。今回はごはんとパンを比べているので「ごはんのPROS」はイコール「パンのCONS」になるし、「ごはんのCONS」はイコール「パンのPROS」になる。つまり「ごはんのPROSってなんだろうなぁ?」と考えているとき、人間は「パンのCONS」のことを考えているし逆のこともしかりだ。
つまり、「ごはんのPROS」をリストアップしようと頭を捻らせているときには、つねに「パンのCONS」にも逆のことを書きたくなってしまう、でも同じことを2箇所に書くのは無駄なことだし、じゃあどっちかだけに書くとしてどっちに書くべき?という揺り返しがつねに起きてしまう。
それならば「ごはんのPROS」として「腹持ちがする」とかリストアップするのではなくて、「腹持ちがするか?:Yes/No」とか「腹持ちがするか?→3:2でごはんのほうが腹持ちする」のように評価したほうが良い。
つまり、PROSのリスト、CONSのリストを分けるのではなく、「比較の観点→結果」で1つのリストにするほうがスッキリするし、ついでに数値評価もできるメリットが出てくる。
これが「ごはんvsパン」のように「AかBか」ではなく「ごはんvsほかの主食類」というお題だったらPROS/CONSの2つのリストに分割するほうが良いケースも出てくるのかもしれないけど、しかし「ごはんvsほかの主食類オールスターズでPROS/CONS」とかvsをなくして「とにかくごはんのPROS/CONS」みたいになってくると、一概に「これがPROSだ」とか「CONSだ」と言い切れる要素がなくなってくると思われるのでやはりPROS/CONSは機能しないのではないか。
それとPROS/CONSにはほかにも問題があって、それは「ある条件のときはこちらのほうが良い」というPROS/CONSが出てくることだ。たとえばごはんvsパンの例でいうと「おにぎりにすると冷めてもおいしい」のようなケース。
「xxならばyyなのでPROS」のような記述を許してしまうと、でもxxが起こる頻度は十分低いから実用上無視できるよね?とか、「CONS側でもxxならばzzというメリットがある」などといった補足がたくさん出てきて収集がつかなくなる。「xxならば」の部分は要するに「目的や利用方法」なのでPROS/CONSでリストすべき「対象の特徴」とクロスする要素である。なのでPROS/CONSには収まりきらない。
また、似たようなケースで「xxxはCONSなんだけどyyyという補強をしてあげれば問題ではなくなる」とか「xxxはzzzといった条件でだけ問題になるのでzzzが起こらなくすればよい」といったPDCAのCAにあたる部分を記載したくなったときにPROS/CONSリストはどうしたら良いか分からなくなるという問題もある。人間というのは課題を分析しているときに対策のことも考えてしまう生き物だし、分析時にはやらないとしても、どうせ別のタイミングでは対策検討もするのだ。そのとき結局対策をどう記載するのか。
以上のような問題から、PROS/CONSリストを作ってもまとまらなくなってしまう(少なくともぼくは)。PROS/CONSというフォーマット自体が良くないと思う。
ごはんのPROSは
1. 腹持ちがする
2. おにぎりにすると冷めてもおいしい
3. 一度炊いておけば色んなおかずと組み合わせできる
4. 小麦アレルギーの人でも食べられる
5. 国内自給できる
6. お米の状態であれば保存が効く
みたいなPROSリストができあがる。ここまではいいんだけど、次にCONSを書こうとしたときが問題で
ごはんのCONSは
1. 値段が高い
2. 調理に時間がかかる
3. 食べ終わったあとの洗い物が多い
のようになる。今回はごはんとパンを比べているので「ごはんのPROS」はイコール「パンのCONS」になるし、「ごはんのCONS」はイコール「パンのPROS」になる。つまり「ごはんのPROSってなんだろうなぁ?」と考えているとき、人間は「パンのCONS」のことを考えているし逆のこともしかりだ。
つまり、「ごはんのPROS」をリストアップしようと頭を捻らせているときには、つねに「パンのCONS」にも逆のことを書きたくなってしまう、でも同じことを2箇所に書くのは無駄なことだし、じゃあどっちかだけに書くとしてどっちに書くべき?という揺り返しがつねに起きてしまう。
それならば「ごはんのPROS」として「腹持ちがする」とかリストアップするのではなくて、「腹持ちがするか?:Yes/No」とか「腹持ちがするか?→3:2でごはんのほうが腹持ちする」のように評価したほうが良い。
つまり、PROSのリスト、CONSのリストを分けるのではなく、「比較の観点→結果」で1つのリストにするほうがスッキリするし、ついでに数値評価もできるメリットが出てくる。
これが「ごはんvsパン」のように「AかBか」ではなく「ごはんvsほかの主食類」というお題だったらPROS/CONSの2つのリストに分割するほうが良いケースも出てくるのかもしれないけど、しかし「ごはんvsほかの主食類オールスターズでPROS/CONS」とかvsをなくして「とにかくごはんのPROS/CONS」みたいになってくると、一概に「これがPROSだ」とか「CONSだ」と言い切れる要素がなくなってくると思われるのでやはりPROS/CONSは機能しないのではないか。
それとPROS/CONSにはほかにも問題があって、それは「ある条件のときはこちらのほうが良い」というPROS/CONSが出てくることだ。たとえばごはんvsパンの例でいうと「おにぎりにすると冷めてもおいしい」のようなケース。
「xxならばyyなのでPROS」のような記述を許してしまうと、でもxxが起こる頻度は十分低いから実用上無視できるよね?とか、「CONS側でもxxならばzzというメリットがある」などといった補足がたくさん出てきて収集がつかなくなる。「xxならば」の部分は要するに「目的や利用方法」なのでPROS/CONSでリストすべき「対象の特徴」とクロスする要素である。なのでPROS/CONSには収まりきらない。
また、似たようなケースで「xxxはCONSなんだけどyyyという補強をしてあげれば問題ではなくなる」とか「xxxはzzzといった条件でだけ問題になるのでzzzが起こらなくすればよい」といったPDCAのCAにあたる部分を記載したくなったときにPROS/CONSリストはどうしたら良いか分からなくなるという問題もある。人間というのは課題を分析しているときに対策のことも考えてしまう生き物だし、分析時にはやらないとしても、どうせ別のタイミングでは対策検討もするのだ。そのとき結局対策をどう記載するのか。
以上のような問題から、PROS/CONSリストを作ってもまとまらなくなってしまう(少なくともぼくは)。PROS/CONSというフォーマット自体が良くないと思う。
2023-11-11
# にゃー
もうかなり昔のことになるけど、初めてカメラを購入して写真を撮ったときの感想は「ふぅん、こんなもんか」だった。意を決して買ったそれなりに高価なカメラであれば「いい写真」が撮れるだろうと購入前は期待したが、そのような期待はまたしても裏切られた。カメラに限らないことだけれども、皆がすごいと誉めそやすような製品を手に入れたとして、それが自分の手元で期待どおりにうまくいったような記憶はほとんどない。端的に言ってぼくの人生は負け続けなのだ。
その話をし始めるとキリがないし詮ないことであるのでここではカメラの話だけを書く。その後思うように撮れないカメラをぼくがどうしたかというと、キッパリ諦めて手放したわけでも猛勉強をして写真道を極めたわけでもなく、なんとなく「うまくなりたいなぁ、なにがいけないんだろうなぁ」と思いながら、たまにカメラを持ち出すだけという典型的な買い物失敗経験を得ただけだった。
その後かなりの時間がたって、そのときのカメラはもう箪笥の奥にしまわれているけれども、ぼくは今でもなんだかんだとカメラで写真を撮り続けている。写真の腕前はちょっと上がり、以前よりは楽しめるようになったかな。「写真が上手くなる本」みたいなのをなんとなく読んだり、レンズを買ってみたり、カメラを買い替えたりしながら、シャッターを切り続けているうちに何年もなんねんも経って、撮れる写真に納得が行く機会が増えてきた(正確には写真が上手になったのか、期待が低くなったのか定かではない)。
出かけるときはいつでもカメラを持ち歩き、気が向いたらシャッターを切る。めったに遠出はしないので、基本的には家の近所の見飽きた町角でばかり写真を撮っている。主な被写体は、たまたま巡り合わせた道端の猫やカラス、そこらへんに落ちている枯葉、冴えない町並に受かぶ雲と空(たいていは電柱や電線がかぶってしまう)、名前を知らない木の枝や実や季節の移り変わりなど。
写真がうまいわけではないし、いい写真が撮れているわけでもないので、人にはお見せしていないしできない。ただ撮って、気が向いたときに自分で見返して、たまに家族に見せるぐらいだ。他人から見ればまったくもって「こんなもんか」と一瞥にも値しないだろう写真たちだから、恥ずかしくてとても人様にはお見せできない。
カメラを買った当初に感じた自分の中の「こんなもんか」という気持ちは半分ぐらい克服できたけれども、人に見せられるようなものにはなかなかならない。まぁ、見せたい気持ちもそんなにないけど。いつもの見知った路地裏を歩いて、目についたなんでもないものを写真に切り取る。そりゃあ「こんなもんか」という写真が撮れるよ。だって、なんでもない人間がなんでもない近所の路地裏でシャッターを切っているんだから。まったくもって、この世界も生きるということも「こんなもんか」である。
普通の人間が普通に生きたら普通の結果しか出力されない。当然だよね。でも、だから、じゃぁ、これからどうするか。とりあえずぼくは、まだこれからも当分はシャッターを切ると思う。というのも、ちょっとは面白いから。人に見せられるようなものじゃないけど、シャッターを切るのも撮れた写真を見返すのも、ちょっと楽しい。「こんなもんか」という世界のなかにも面白いものが見えるときがあるし、なんでもないものが無性に「写真に収めたい」という気持ちにさせることがあるから。
美しいものは当然写真に撮っても美しい。壮大な自然や綺麗なモデルさん、素敵な意匠や特別な場所といった非日常・ハレの世界に遭遇することがあれば、ぼくだって喜んでシャッターを切る。でもそうでない日常・ケの世界もね。なんかいいんだよ。誰からも顧みられることがないけれども、この世界にはとてもたくさんの生き物やオブジェクトがあって、それらすべてがこの瞬間を生きて散っている。
たとえば道に落ちたいちまいの枯葉。普通に考えれば、それは「こんなもん」ですらないだろう。ゴミであり世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在。だから誰も気にかけない。それはそうだ。ぼくだってそう思う。
だけど、「世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在」ってぼく自身と何が違うの?なんにも違わない。本人が言うんだから間違いない。だからあの枯葉はぼく自身の行く末を表していると感じるし、ぼく以外のみんなだって、遅かれ早かれどこかへ行ってしまう。だからぼくは、あの一枚の枯葉と、見も知らない人々や世界の未来の姿を重ねずにはいられない。そんなの、写真に撮りたいと思っても仕方ないでしょう?
その話をし始めるとキリがないし詮ないことであるのでここではカメラの話だけを書く。その後思うように撮れないカメラをぼくがどうしたかというと、キッパリ諦めて手放したわけでも猛勉強をして写真道を極めたわけでもなく、なんとなく「うまくなりたいなぁ、なにがいけないんだろうなぁ」と思いながら、たまにカメラを持ち出すだけという典型的な買い物失敗経験を得ただけだった。
その後かなりの時間がたって、そのときのカメラはもう箪笥の奥にしまわれているけれども、ぼくは今でもなんだかんだとカメラで写真を撮り続けている。写真の腕前はちょっと上がり、以前よりは楽しめるようになったかな。「写真が上手くなる本」みたいなのをなんとなく読んだり、レンズを買ってみたり、カメラを買い替えたりしながら、シャッターを切り続けているうちに何年もなんねんも経って、撮れる写真に納得が行く機会が増えてきた(正確には写真が上手になったのか、期待が低くなったのか定かではない)。
出かけるときはいつでもカメラを持ち歩き、気が向いたらシャッターを切る。めったに遠出はしないので、基本的には家の近所の見飽きた町角でばかり写真を撮っている。主な被写体は、たまたま巡り合わせた道端の猫やカラス、そこらへんに落ちている枯葉、冴えない町並に受かぶ雲と空(たいていは電柱や電線がかぶってしまう)、名前を知らない木の枝や実や季節の移り変わりなど。
写真がうまいわけではないし、いい写真が撮れているわけでもないので、人にはお見せしていないしできない。ただ撮って、気が向いたときに自分で見返して、たまに家族に見せるぐらいだ。他人から見ればまったくもって「こんなもんか」と一瞥にも値しないだろう写真たちだから、恥ずかしくてとても人様にはお見せできない。
カメラを買った当初に感じた自分の中の「こんなもんか」という気持ちは半分ぐらい克服できたけれども、人に見せられるようなものにはなかなかならない。まぁ、見せたい気持ちもそんなにないけど。いつもの見知った路地裏を歩いて、目についたなんでもないものを写真に切り取る。そりゃあ「こんなもんか」という写真が撮れるよ。だって、なんでもない人間がなんでもない近所の路地裏でシャッターを切っているんだから。まったくもって、この世界も生きるということも「こんなもんか」である。
普通の人間が普通に生きたら普通の結果しか出力されない。当然だよね。でも、だから、じゃぁ、これからどうするか。とりあえずぼくは、まだこれからも当分はシャッターを切ると思う。というのも、ちょっとは面白いから。人に見せられるようなものじゃないけど、シャッターを切るのも撮れた写真を見返すのも、ちょっと楽しい。「こんなもんか」という世界のなかにも面白いものが見えるときがあるし、なんでもないものが無性に「写真に収めたい」という気持ちにさせることがあるから。
美しいものは当然写真に撮っても美しい。壮大な自然や綺麗なモデルさん、素敵な意匠や特別な場所といった非日常・ハレの世界に遭遇することがあれば、ぼくだって喜んでシャッターを切る。でもそうでない日常・ケの世界もね。なんかいいんだよ。誰からも顧みられることがないけれども、この世界にはとてもたくさんの生き物やオブジェクトがあって、それらすべてがこの瞬間を生きて散っている。
たとえば道に落ちたいちまいの枯葉。普通に考えれば、それは「こんなもん」ですらないだろう。ゴミであり世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在。だから誰も気にかけない。それはそうだ。ぼくだってそう思う。
だけど、「世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在」ってぼく自身と何が違うの?なんにも違わない。本人が言うんだから間違いない。だからあの枯葉はぼく自身の行く末を表していると感じるし、ぼく以外のみんなだって、遅かれ早かれどこかへ行ってしまう。だからぼくは、あの一枚の枯葉と、見も知らない人々や世界の未来の姿を重ねずにはいられない。そんなの、写真に撮りたいと思っても仕方ないでしょう?