メッセージ。 - diary
2023-11-16
# にゃー
PROSとCONSを挙げろっていわれて表を作りはじめるんだけど、いっつも途中でモヤモヤしちゃうんだよなぁ。たとえばごはんとパンを比べてごはんのPROS/CONSを作るとする。
ごはんのPROSは
1. 腹持ちがする
2. おにぎりにすると冷めてもおいしい
3. 一度炊いておけば色んなおかずと組み合わせできる
4. 小麦アレルギーの人でも食べられる
5. 国内自給できる
6. お米の状態であれば保存が効く
みたいなPROSリストができあがる。ここまではいいんだけど、次にCONSを書こうとしたときが問題で
ごはんのCONSは
1. 値段が高い
2. 調理に時間がかかる
3. 食べ終わったあとの洗い物が多い
のようになる。今回はごはんとパンを比べているので「ごはんのPROS」はイコール「パンのCONS」になるし、「ごはんのCONS」はイコール「パンのPROS」になる。つまり「ごはんのPROSってなんだろうなぁ?」と考えているとき、人間は「パンのCONS」のことを考えているし逆のこともしかりだ。
つまり、「ごはんのPROS」をリストアップしようと頭を捻らせているときには、つねに「パンのCONS」にも逆のことを書きたくなってしまう、でも同じことを2箇所に書くのは無駄なことだし、じゃあどっちかだけに書くとしてどっちに書くべき?という揺り返しがつねに起きてしまう。
それならば「ごはんのPROS」として「腹持ちがする」とかリストアップするのではなくて、「腹持ちがするか?:Yes/No」とか「腹持ちがするか?→3:2でごはんのほうが腹持ちする」のように評価したほうが良い。
つまり、PROSのリスト、CONSのリストを分けるのではなく、「比較の観点→結果」で1つのリストにするほうがスッキリするし、ついでに数値評価もできるメリットが出てくる。
これが「ごはんvsパン」のように「AかBか」ではなく「ごはんvsほかの主食類」というお題だったらPROS/CONSの2つのリストに分割するほうが良いケースも出てくるのかもしれないけど、しかし「ごはんvsほかの主食類オールスターズでPROS/CONS」とかvsをなくして「とにかくごはんのPROS/CONS」みたいになってくると、一概に「これがPROSだ」とか「CONSだ」と言い切れる要素がなくなってくると思われるのでやはりPROS/CONSは機能しないのではないか。
それとPROS/CONSにはほかにも問題があって、それは「ある条件のときはこちらのほうが良い」というPROS/CONSが出てくることだ。たとえばごはんvsパンの例でいうと「おにぎりにすると冷めてもおいしい」のようなケース。
「xxならばyyなのでPROS」のような記述を許してしまうと、でもxxが起こる頻度は十分低いから実用上無視できるよね?とか、「CONS側でもxxならばzzというメリットがある」などといった補足がたくさん出てきて収集がつかなくなる。「xxならば」の部分は要するに「目的や利用方法」なのでPROS/CONSでリストすべき「対象の特徴」とクロスする要素である。なのでPROS/CONSには収まりきらない。
また、似たようなケースで「xxxはCONSなんだけどyyyという補強をしてあげれば問題ではなくなる」とか「xxxはzzzといった条件でだけ問題になるのでzzzが起こらなくすればよい」といったPDCAのCAにあたる部分を記載したくなったときにPROS/CONSリストはどうしたら良いか分からなくなるという問題もある。人間というのは課題を分析しているときに対策のことも考えてしまう生き物だし、分析時にはやらないとしても、どうせ別のタイミングでは対策検討もするのだ。そのとき結局対策をどう記載するのか。
以上のような問題から、PROS/CONSリストを作ってもまとまらなくなってしまう(少なくともぼくは)。PROS/CONSというフォーマット自体が良くないと思う。
ごはんのPROSは
1. 腹持ちがする
2. おにぎりにすると冷めてもおいしい
3. 一度炊いておけば色んなおかずと組み合わせできる
4. 小麦アレルギーの人でも食べられる
5. 国内自給できる
6. お米の状態であれば保存が効く
みたいなPROSリストができあがる。ここまではいいんだけど、次にCONSを書こうとしたときが問題で
ごはんのCONSは
1. 値段が高い
2. 調理に時間がかかる
3. 食べ終わったあとの洗い物が多い
のようになる。今回はごはんとパンを比べているので「ごはんのPROS」はイコール「パンのCONS」になるし、「ごはんのCONS」はイコール「パンのPROS」になる。つまり「ごはんのPROSってなんだろうなぁ?」と考えているとき、人間は「パンのCONS」のことを考えているし逆のこともしかりだ。
つまり、「ごはんのPROS」をリストアップしようと頭を捻らせているときには、つねに「パンのCONS」にも逆のことを書きたくなってしまう、でも同じことを2箇所に書くのは無駄なことだし、じゃあどっちかだけに書くとしてどっちに書くべき?という揺り返しがつねに起きてしまう。
それならば「ごはんのPROS」として「腹持ちがする」とかリストアップするのではなくて、「腹持ちがするか?:Yes/No」とか「腹持ちがするか?→3:2でごはんのほうが腹持ちする」のように評価したほうが良い。
つまり、PROSのリスト、CONSのリストを分けるのではなく、「比較の観点→結果」で1つのリストにするほうがスッキリするし、ついでに数値評価もできるメリットが出てくる。
これが「ごはんvsパン」のように「AかBか」ではなく「ごはんvsほかの主食類」というお題だったらPROS/CONSの2つのリストに分割するほうが良いケースも出てくるのかもしれないけど、しかし「ごはんvsほかの主食類オールスターズでPROS/CONS」とかvsをなくして「とにかくごはんのPROS/CONS」みたいになってくると、一概に「これがPROSだ」とか「CONSだ」と言い切れる要素がなくなってくると思われるのでやはりPROS/CONSは機能しないのではないか。
それとPROS/CONSにはほかにも問題があって、それは「ある条件のときはこちらのほうが良い」というPROS/CONSが出てくることだ。たとえばごはんvsパンの例でいうと「おにぎりにすると冷めてもおいしい」のようなケース。
「xxならばyyなのでPROS」のような記述を許してしまうと、でもxxが起こる頻度は十分低いから実用上無視できるよね?とか、「CONS側でもxxならばzzというメリットがある」などといった補足がたくさん出てきて収集がつかなくなる。「xxならば」の部分は要するに「目的や利用方法」なのでPROS/CONSでリストすべき「対象の特徴」とクロスする要素である。なのでPROS/CONSには収まりきらない。
また、似たようなケースで「xxxはCONSなんだけどyyyという補強をしてあげれば問題ではなくなる」とか「xxxはzzzといった条件でだけ問題になるのでzzzが起こらなくすればよい」といったPDCAのCAにあたる部分を記載したくなったときにPROS/CONSリストはどうしたら良いか分からなくなるという問題もある。人間というのは課題を分析しているときに対策のことも考えてしまう生き物だし、分析時にはやらないとしても、どうせ別のタイミングでは対策検討もするのだ。そのとき結局対策をどう記載するのか。
以上のような問題から、PROS/CONSリストを作ってもまとまらなくなってしまう(少なくともぼくは)。PROS/CONSというフォーマット自体が良くないと思う。
2023-11-11
# にゃー
もうかなり昔のことになるけど、初めてカメラを購入して写真を撮ったときの感想は「ふぅん、こんなもんか」だった。意を決して買ったそれなりに高価なカメラであれば「いい写真」が撮れるだろうと購入前は期待したが、そのような期待はまたしても裏切られた。カメラに限らないことだけれども、皆がすごいと誉めそやすような製品を手に入れたとして、それが自分の手元で期待どおりにうまくいったような記憶はほとんどない。端的に言ってぼくの人生は負け続けなのだ。
その話をし始めるとキリがないし詮ないことであるのでここではカメラの話だけを書く。その後思うように撮れないカメラをぼくがどうしたかというと、キッパリ諦めて手放したわけでも猛勉強をして写真道を極めたわけでもなく、なんとなく「うまくなりたいなぁ、なにがいけないんだろうなぁ」と思いながら、たまにカメラを持ち出すだけという典型的な買い物失敗経験を得ただけだった。
その後かなりの時間がたって、そのときのカメラはもう箪笥の奥にしまわれているけれども、ぼくは今でもなんだかんだとカメラで写真を撮り続けている。写真の腕前はちょっと上がり、以前よりは楽しめるようになったかな。「写真が上手くなる本」みたいなのをなんとなく読んだり、レンズを買ってみたり、カメラを買い替えたりしながら、シャッターを切り続けているうちに何年もなんねんも経って、撮れる写真に納得が行く機会が増えてきた(正確には写真が上手になったのか、期待が低くなったのか定かではない)。
出かけるときはいつでもカメラを持ち歩き、気が向いたらシャッターを切る。めったに遠出はしないので、基本的には家の近所の見飽きた町角でばかり写真を撮っている。主な被写体は、たまたま巡り合わせた道端の猫やカラス、そこらへんに落ちている枯葉、冴えない町並に受かぶ雲と空(たいていは電柱や電線がかぶってしまう)、名前を知らない木の枝や実や季節の移り変わりなど。
写真がうまいわけではないし、いい写真が撮れているわけでもないので、人にはお見せしていないしできない。ただ撮って、気が向いたときに自分で見返して、たまに家族に見せるぐらいだ。他人から見ればまったくもって「こんなもんか」と一瞥にも値しないだろう写真たちだから、恥ずかしくてとても人様にはお見せできない。
カメラを買った当初に感じた自分の中の「こんなもんか」という気持ちは半分ぐらい克服できたけれども、人に見せられるようなものにはなかなかならない。まぁ、見せたい気持ちもそんなにないけど。いつもの見知った路地裏を歩いて、目についたなんでもないものを写真に切り取る。そりゃあ「こんなもんか」という写真が撮れるよ。だって、なんでもない人間がなんでもない近所の路地裏でシャッターを切っているんだから。まったくもって、この世界も生きるということも「こんなもんか」である。
普通の人間が普通に生きたら普通の結果しか出力されない。当然だよね。でも、だから、じゃぁ、これからどうするか。とりあえずぼくは、まだこれからも当分はシャッターを切ると思う。というのも、ちょっとは面白いから。人に見せられるようなものじゃないけど、シャッターを切るのも撮れた写真を見返すのも、ちょっと楽しい。「こんなもんか」という世界のなかにも面白いものが見えるときがあるし、なんでもないものが無性に「写真に収めたい」という気持ちにさせることがあるから。
美しいものは当然写真に撮っても美しい。壮大な自然や綺麗なモデルさん、素敵な意匠や特別な場所といった非日常・ハレの世界に遭遇することがあれば、ぼくだって喜んでシャッターを切る。でもそうでない日常・ケの世界もね。なんかいいんだよ。誰からも顧みられることがないけれども、この世界にはとてもたくさんの生き物やオブジェクトがあって、それらすべてがこの瞬間を生きて散っている。
たとえば道に落ちたいちまいの枯葉。普通に考えれば、それは「こんなもん」ですらないだろう。ゴミであり世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在。だから誰も気にかけない。それはそうだ。ぼくだってそう思う。
だけど、「世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在」ってぼく自身と何が違うの?なんにも違わない。本人が言うんだから間違いない。だからあの枯葉はぼく自身の行く末を表していると感じるし、ぼく以外のみんなだって、遅かれ早かれどこかへ行ってしまう。だからぼくは、あの一枚の枯葉と、見も知らない人々や世界の未来の姿を重ねずにはいられない。そんなの、写真に撮りたいと思っても仕方ないでしょう?
その話をし始めるとキリがないし詮ないことであるのでここではカメラの話だけを書く。その後思うように撮れないカメラをぼくがどうしたかというと、キッパリ諦めて手放したわけでも猛勉強をして写真道を極めたわけでもなく、なんとなく「うまくなりたいなぁ、なにがいけないんだろうなぁ」と思いながら、たまにカメラを持ち出すだけという典型的な買い物失敗経験を得ただけだった。
その後かなりの時間がたって、そのときのカメラはもう箪笥の奥にしまわれているけれども、ぼくは今でもなんだかんだとカメラで写真を撮り続けている。写真の腕前はちょっと上がり、以前よりは楽しめるようになったかな。「写真が上手くなる本」みたいなのをなんとなく読んだり、レンズを買ってみたり、カメラを買い替えたりしながら、シャッターを切り続けているうちに何年もなんねんも経って、撮れる写真に納得が行く機会が増えてきた(正確には写真が上手になったのか、期待が低くなったのか定かではない)。
出かけるときはいつでもカメラを持ち歩き、気が向いたらシャッターを切る。めったに遠出はしないので、基本的には家の近所の見飽きた町角でばかり写真を撮っている。主な被写体は、たまたま巡り合わせた道端の猫やカラス、そこらへんに落ちている枯葉、冴えない町並に受かぶ雲と空(たいていは電柱や電線がかぶってしまう)、名前を知らない木の枝や実や季節の移り変わりなど。
写真がうまいわけではないし、いい写真が撮れているわけでもないので、人にはお見せしていないしできない。ただ撮って、気が向いたときに自分で見返して、たまに家族に見せるぐらいだ。他人から見ればまったくもって「こんなもんか」と一瞥にも値しないだろう写真たちだから、恥ずかしくてとても人様にはお見せできない。
カメラを買った当初に感じた自分の中の「こんなもんか」という気持ちは半分ぐらい克服できたけれども、人に見せられるようなものにはなかなかならない。まぁ、見せたい気持ちもそんなにないけど。いつもの見知った路地裏を歩いて、目についたなんでもないものを写真に切り取る。そりゃあ「こんなもんか」という写真が撮れるよ。だって、なんでもない人間がなんでもない近所の路地裏でシャッターを切っているんだから。まったくもって、この世界も生きるということも「こんなもんか」である。
普通の人間が普通に生きたら普通の結果しか出力されない。当然だよね。でも、だから、じゃぁ、これからどうするか。とりあえずぼくは、まだこれからも当分はシャッターを切ると思う。というのも、ちょっとは面白いから。人に見せられるようなものじゃないけど、シャッターを切るのも撮れた写真を見返すのも、ちょっと楽しい。「こんなもんか」という世界のなかにも面白いものが見えるときがあるし、なんでもないものが無性に「写真に収めたい」という気持ちにさせることがあるから。
美しいものは当然写真に撮っても美しい。壮大な自然や綺麗なモデルさん、素敵な意匠や特別な場所といった非日常・ハレの世界に遭遇することがあれば、ぼくだって喜んでシャッターを切る。でもそうでない日常・ケの世界もね。なんかいいんだよ。誰からも顧みられることがないけれども、この世界にはとてもたくさんの生き物やオブジェクトがあって、それらすべてがこの瞬間を生きて散っている。
たとえば道に落ちたいちまいの枯葉。普通に考えれば、それは「こんなもん」ですらないだろう。ゴミであり世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在。だから誰も気にかけない。それはそうだ。ぼくだってそう思う。
だけど、「世界にゴマンとある塵芥であり、ほうっておけばどこかへ消えて行ってしまう、何の価値も意味もない存在」ってぼく自身と何が違うの?なんにも違わない。本人が言うんだから間違いない。だからあの枯葉はぼく自身の行く末を表していると感じるし、ぼく以外のみんなだって、遅かれ早かれどこかへ行ってしまう。だからぼくは、あの一枚の枯葉と、見も知らない人々や世界の未来の姿を重ねずにはいられない。そんなの、写真に撮りたいと思っても仕方ないでしょう?
2023-06-15
# にゃー
最近感じたこと。読んだ記事など。
公園クレーマーの俺が公園クレーマーの考えてることを書くぞ
https://anond.hatelabo.jp/20230607162734
どちらかというと、ぼくはこの人のことを否定的に読んだ。ちょっと病気じゃないかと思った。昔でいうとこのノイローゼみたいな。とくに
というくだり。可能性があるから怖いという状態になってしまったことは同情するし、誰でも何かの強いプレッシャーでそうなってしまう可能性があると恐ろしく感じる。でも、可能性を恐れてしまったら、生きていくことができない。
この世界は恐ろしいことが起きる可能性に満ちているからだ。誰がいつ何をするのか分からない。あんな悪いやつがいるかもしれない、若い男は何を考えているのか分からない、自分より力の強いものがひどいことをしていくる可能性がある。そんな風に考えはじめてしまうと、どんどんこの世界が恐ろしくなる。
そういう視野狭窄のような状態になってしまうことそのものが恐ろしい。もともとは心の反射による生理的な反応がきっかけなんだと思うけど、それが悪い方向に働いてスパイラルになってしまい、そうとしか考えられなくなるのが恐ろしい。
それとぼくは、この人の書いている心理は公園クレーマーだけでなく最近の過激なフェミニストとか男性を怖がる女性の人たちにも似たような機序があるんじゃないかなと感じた。「可能性があるから怖い」という部分。オタクの萌え絵をバッシングしたり、キモいものを排除しようとしたりするのも、「自分に危害を加える可能性があるのから怖い」という感情が元にあるのではないかと思う。
元の記事へのはてなブックマークへの反応を読んでみての感想。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230607162734
思ったよりも公園クレーマーさんに同調するコメントが多い。こんなにたくさんの(割合の)人が公園クレーマーさん側に立った意見を言っている。正直意外だった。いや、「みなが何を感じているかを知って驚いたり意外に感じたりする」という経験が、はてなブックマークやSNSを読んでいると最近多いので、意外に感じること自体に慣れてきているというか、心の準備をしながらページを開くようになってきているのだけれども。
個人的には、可能性を怖がってしまう自分の心と感情と生理とは、戦わなければならないと思っている。それは当然怖いものだし負けそうになる気持ちも自分の中にあるけれども。結局のところ、怖いものやキモいものは、排除できない。「可能性を潰さなければ」と頑張っても可能性をゼロにはできない。怖いと思って、キモいと恐れて相手を叩いても、むしろ逆効果のはずだ。
だから、まず合理的な判断として、ぼくは誰かを叩くということはしたくない。怖いもの、危険性のあるものがあった場合、それと隔絶して触れないようにするのではなく、理解しようとしてみて、お互い危害を加えようとするつもりがないことを知り合う状態にするのがよいのかなと思う。
ネットというのは不思議だ。スマホやパソコンの画面ごしに世界を見ていると、意見の合わない人やキモい人がたくさん見える。それこそパンドラの箱のように物凄い量の見たくないものが飛び出してくる。でも一方で、画面を消してしまえばそれらは一瞬にして消えて、物理的に隔絶することができる。心の危険と体の安全が同居している。
でも画面を消したとしても、見たくないものや見たくない人は世界に存在している。あんなにたくさん存在している。なんとかして排除しないと、戦わないと、と思うのも当然かもしれない。パンドラの箱は、この世界にあるといえばある。開かれたといえば開かれた。ネットやSNSというのはまさにパンドラの箱と同義に見える。でも。現実の世界で暮らしていて、そんなに怖い人とか、嫌な人ばかりってわけでもないんだよね。
もちろんぼくだって嫌いな人はいるし、むしろネットでも現実でも、人とは分かりあえないことがほとんどだ。でもまぁ、なんとかやっていけている。生きていくうえでの喫緊の危険を感じるほどではない。99.9%の人は、他の人に迷惑をかけないように生きていると思っているし、ぼくも他の人にできるだけ迷惑をかけないよう生きていきたいと思っている。
パンドラの箱についてはもうちょっと書きたいことがあったけど長くなりすぎたのでまたこんど。バベルの搭というキーワードでも書こうと思っていたけどこれもまたこんど。
公園クレーマーの俺が公園クレーマーの考えてることを書くぞ
https://anond.hatelabo.jp/20230607162734
どちらかというと、ぼくはこの人のことを否定的に読んだ。ちょっと病気じゃないかと思った。昔でいうとこのノイローゼみたいな。とくに
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
というくだり。可能性があるから怖いという状態になってしまったことは同情するし、誰でも何かの強いプレッシャーでそうなってしまう可能性があると恐ろしく感じる。でも、可能性を恐れてしまったら、生きていくことができない。
この世界は恐ろしいことが起きる可能性に満ちているからだ。誰がいつ何をするのか分からない。あんな悪いやつがいるかもしれない、若い男は何を考えているのか分からない、自分より力の強いものがひどいことをしていくる可能性がある。そんな風に考えはじめてしまうと、どんどんこの世界が恐ろしくなる。
そういう視野狭窄のような状態になってしまうことそのものが恐ろしい。もともとは心の反射による生理的な反応がきっかけなんだと思うけど、それが悪い方向に働いてスパイラルになってしまい、そうとしか考えられなくなるのが恐ろしい。
それとぼくは、この人の書いている心理は公園クレーマーだけでなく最近の過激なフェミニストとか男性を怖がる女性の人たちにも似たような機序があるんじゃないかなと感じた。「可能性があるから怖い」という部分。オタクの萌え絵をバッシングしたり、キモいものを排除しようとしたりするのも、「自分に危害を加える可能性があるのから怖い」という感情が元にあるのではないかと思う。
元の記事へのはてなブックマークへの反応を読んでみての感想。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230607162734
思ったよりも公園クレーマーさんに同調するコメントが多い。こんなにたくさんの(割合の)人が公園クレーマーさん側に立った意見を言っている。正直意外だった。いや、「みなが何を感じているかを知って驚いたり意外に感じたりする」という経験が、はてなブックマークやSNSを読んでいると最近多いので、意外に感じること自体に慣れてきているというか、心の準備をしながらページを開くようになってきているのだけれども。
個人的には、可能性を怖がってしまう自分の心と感情と生理とは、戦わなければならないと思っている。それは当然怖いものだし負けそうになる気持ちも自分の中にあるけれども。結局のところ、怖いものやキモいものは、排除できない。「可能性を潰さなければ」と頑張っても可能性をゼロにはできない。怖いと思って、キモいと恐れて相手を叩いても、むしろ逆効果のはずだ。
だから、まず合理的な判断として、ぼくは誰かを叩くということはしたくない。怖いもの、危険性のあるものがあった場合、それと隔絶して触れないようにするのではなく、理解しようとしてみて、お互い危害を加えようとするつもりがないことを知り合う状態にするのがよいのかなと思う。
ネットというのは不思議だ。スマホやパソコンの画面ごしに世界を見ていると、意見の合わない人やキモい人がたくさん見える。それこそパンドラの箱のように物凄い量の見たくないものが飛び出してくる。でも一方で、画面を消してしまえばそれらは一瞬にして消えて、物理的に隔絶することができる。心の危険と体の安全が同居している。
でも画面を消したとしても、見たくないものや見たくない人は世界に存在している。あんなにたくさん存在している。なんとかして排除しないと、戦わないと、と思うのも当然かもしれない。パンドラの箱は、この世界にあるといえばある。開かれたといえば開かれた。ネットやSNSというのはまさにパンドラの箱と同義に見える。でも。現実の世界で暮らしていて、そんなに怖い人とか、嫌な人ばかりってわけでもないんだよね。
もちろんぼくだって嫌いな人はいるし、むしろネットでも現実でも、人とは分かりあえないことがほとんどだ。でもまぁ、なんとかやっていけている。生きていくうえでの喫緊の危険を感じるほどではない。99.9%の人は、他の人に迷惑をかけないように生きていると思っているし、ぼくも他の人にできるだけ迷惑をかけないよう生きていきたいと思っている。
パンドラの箱についてはもうちょっと書きたいことがあったけど長くなりすぎたのでまたこんど。バベルの搭というキーワードでも書こうと思っていたけどこれもまたこんど。