メッセージ。 - diary
2010-07-28
# ドコモ携帯を修理した
先日、携帯電話を踏んづけて壊してしまった。1週間ぐらいで修理して直ってきたのだけど、そのときのメモ。
ぼくは「ケータイ補償 お届けサービス」というのに入っている(ほとんどすべての人が入っているはず)。これは月々300円を支払えば、携帯が壊れたときに、郵送ベースで同型のリニューアル品と交換してくれるというもの(1~2営業日で交換してくれるらしい)。ただぼくは、物に愛着を持つほうというか、1つのものを修理して使いたいほうなので、今回はこのサービスは使わなかったし、今後も使いそうにないなと思った。リニューアル品では嫌なのだ(チワワが死んだって? ペットショップでもう1匹チワワを買ってくればいいじゃないか)。なので、後で解約したいと申し出た。ところが、ドコモショップのお姉さんは、「これは1回解約すると再契約できませんよ」という。「ケータイ補償 お届けサービス」は、携帯を買い替えたときにだけ契約できるオプションなのだそうだ。
そしてお姉さんは「ケータイ補償 お届けサービス」に入っていないと、「修理できない故障のときに困りますよ」と言う。「修理できない故障」なんてものが論理的に存在するのだろうか?とよくよく聞いてみたら、こういうことのようだ。要するに水濡れや携帯が2つに割れたなど、破損箇所が多かったりパーツ・モジュール交換で直らないような故障をNTTドコモでは「修理できない故障」と呼んでいると。そして、修理できる故障なら5,250円で直るし、そうでないなら「修理できない」として修理じたいを断るのだという(値段については想像の範囲を出ないので注意)。まぁ、客がどうしてもどうしても修理してくれという場合は見積り修理をするが、その場合は6~7万円とかの修理代になるけど、とのこと。
あと、詳しく分からないのだが、「ケータイ補償 お届けサービス」に入っていたら、携帯を紛失した場合でも新しい携帯と取り替えてくれるとかなんとか言っていた(古いのがないのに取り替えができるのかな?)。つまり、「ケータイ補償 お届けサービス」というのは、NTTドコモの「修理」の定義のなかで意味を持つ「保険サービス」ということだろう。
まぁたしかに、ディスプレイ割れの修理が5,250円というのは安いけど、その安さは保険に入っててその保険を使ってない人が多い(保険の利益が十分出ている)というカラクリがあったればこそのはず。携帯ってややこしい世界だなぁと思った。
- キャリア:NTTドコモ
- 端末:HT-03A(HTCが作ってるandroidのやつ)
- 故障箇所:ディスプレイが割れたけど、中身は生きている状態(のようだった)
- 修理代:5,250円。見積りとかなくすぐに「じゃあ5,250円ですね」とすぐ金額が出てきたので、ほとんどの故障で金額は固定なんだと思われる。(別のドコモショップに持って行ったときも「じゃあ5,250円ですね」とすぐ金額が出てきた)
- 修理期間:日曜日にドコモショップに出して、1週間後の月曜日に返ってきたので8日間
- 代替機:修理期間中、代替機としてdocomo PRIME series N-07Aを貸してくれた。無料。ただし、マニュアル等はないし、おっかなびっくり触っていたので電話帳を入れ替える気にならず、結局ほとんど使わなかった。また、あまり使いやすい感じでもなかった。カクカクしてて、通話するとき耳に当たって痛かったんだよなー。
- データの引き継ぎ:今回はディスプレイが壊れただけだったので、修理に出せば中のデータは残るんじゃないかと思ったけど、実際は修理に出すときに初期化しちゃうからデータは全部消えるんだって。個人情報保護とか、キャリアがリスクを負いたくないってことだろうけど、データ消しちゃうってどうなんだろう。ドコモショップでは、データのバックアップツールも用意しているようだったけど、HT-03Aは台湾メーカ製だからか、うまくバックアップができなかったようだった。しょうがないから一度自宅に持って帰ってPCに繋いだけど、事前にrootを取っておかないとバックアップもできない。それで結局、「もういいです。消しちゃってください」ということになった。ただ、実際には個人的に必要だった電話帳がGoogleのサーバーと自動的に同期されていて、直ってきた携帯を再セットアップするだけで勝手に同期されて助かった。
- 修理について:修理を依頼したところ、「ケータイ補償 お届けサービス」を使ってはどうですか?と尋ねられた。でもぼくはあくまで修理希望なのでそう伝えたら一応引き受けてくれたけど、破損箇所が多いと結局リニューアル品が返ってくるかもしれないとのこと。
「ケータイ補償 お届けサービス」について
ぼくは「ケータイ補償 お届けサービス」というのに入っている(ほとんどすべての人が入っているはず)。これは月々300円を支払えば、携帯が壊れたときに、郵送ベースで同型のリニューアル品と交換してくれるというもの(1~2営業日で交換してくれるらしい)。ただぼくは、物に愛着を持つほうというか、1つのものを修理して使いたいほうなので、今回はこのサービスは使わなかったし、今後も使いそうにないなと思った。リニューアル品では嫌なのだ(チワワが死んだって? ペットショップでもう1匹チワワを買ってくればいいじゃないか)。なので、後で解約したいと申し出た。ところが、ドコモショップのお姉さんは、「これは1回解約すると再契約できませんよ」という。「ケータイ補償 お届けサービス」は、携帯を買い替えたときにだけ契約できるオプションなのだそうだ。
そしてお姉さんは「ケータイ補償 お届けサービス」に入っていないと、「修理できない故障のときに困りますよ」と言う。「修理できない故障」なんてものが論理的に存在するのだろうか?とよくよく聞いてみたら、こういうことのようだ。要するに水濡れや携帯が2つに割れたなど、破損箇所が多かったりパーツ・モジュール交換で直らないような故障をNTTドコモでは「修理できない故障」と呼んでいると。そして、修理できる故障なら5,250円で直るし、そうでないなら「修理できない」として修理じたいを断るのだという(値段については想像の範囲を出ないので注意)。まぁ、客がどうしてもどうしても修理してくれという場合は見積り修理をするが、その場合は6~7万円とかの修理代になるけど、とのこと。
あと、詳しく分からないのだが、「ケータイ補償 お届けサービス」に入っていたら、携帯を紛失した場合でも新しい携帯と取り替えてくれるとかなんとか言っていた(古いのがないのに取り替えができるのかな?)。つまり、「ケータイ補償 お届けサービス」というのは、NTTドコモの「修理」の定義のなかで意味を持つ「保険サービス」ということだろう。
まぁたしかに、ディスプレイ割れの修理が5,250円というのは安いけど、その安さは保険に入っててその保険を使ってない人が多い(保険の利益が十分出ている)というカラクリがあったればこそのはず。携帯ってややこしい世界だなぁと思った。
2010-07-08
# Lispのマクロ
いまonLispを読んでるんだけど、半分ぐらいまできて思ったこと:
Lispのマクロって、コンパイラに似ている。マクロによって吐き出されたLispコードがマシン語で書かれたコードみたいに見えたというか。具体的にそう感じたのはこれ:
ということは、、というか、、Lispってコンパイラなんだ、とやけに腑に落ちた感じがした。
で、onLispはコンパイラの使い方を解説している本なんだ。マシン語としてのLispコードを、マクロでどうやって吐き出すか。どういう風にマクロを使うと、意図したコードを吐き出すコンパイルができるのかを解説している。
この本で解説しようとしているのは、マシン語としてのLispや、Lispマクロというコンパイラの仕組み、コンパイラができることとは何か?なんじゃないだろうか。そして、Lispがほかの言語と違う部分があるとするならそこだと指摘しているのではないか。まだ途中まで流し読みしただけだけど、そういうことが書かれている気がした。
Lispのマクロって、コンパイラに似ている。マクロによって吐き出されたLispコードがマシン語で書かれたコードみたいに見えたというか。具体的にそう感じたのはこれ:
(let* ((#:g1 x) (#:g4 ar) (#:g3 (incf i)) (#:g2 (aref #:g4 #:g3)) (#:g6 lst) (#:g5 (car #:g6))) (unless (> #:g1 #:g2) (rotatef #:g1 #:g2)) (unless (> #:g1 #:g5) (rotatef #:g1 #:g5)) (unless (> #:g2 #:g5) (rotatef #:g2 #:g5)) (setq x #:g1) (system:set-aref #:g2 #:g4 #:g3) (system:set-car #:g6 #:g5))
Lispのマクロが吐き出したLispコード
ということは、、というか、、Lispってコンパイラなんだ、とやけに腑に落ちた感じがした。
で、onLispはコンパイラの使い方を解説している本なんだ。マシン語としてのLispコードを、マクロでどうやって吐き出すか。どういう風にマクロを使うと、意図したコードを吐き出すコンパイルができるのかを解説している。
この本で解説しようとしているのは、マシン語としてのLispや、Lispマクロというコンパイラの仕組み、コンパイラができることとは何か?なんじゃないだろうか。そして、Lispがほかの言語と違う部分があるとするならそこだと指摘しているのではないか。まだ途中まで流し読みしただけだけど、そういうことが書かれている気がした。
2010-06-24
# 違うことと同じこと
先日、親戚の集まる機会があって、そのときうちの親父がこんなことを言っていた。
それを聞いたぼくは、「なにをまた馬鹿なことを言ってるんだ」と思ったのだが、そのときはうまく反論できなかった(このパターン多し)。それで、しばらくこのことについて考えていて思ったこと。
ぼくが思うのは。あなた方が子供たちに対し、「ああ、暑さや寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と見ているならば、その瞬間、またあなた方世代も同様に、「ああ、涼しい職場で仕事をして、暑さ寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と思われているということだ。
そうして同様に、汽車ができたときは「歩くことをやめた世代」が、電灯ができたときは「眠ることをやめた世代」が生まれてきた。……ということになるだろう。でも、そうだとするならば、ずっとずっとそれは続いてきたことなんだ。古い世代は若い世代を見て、「彼らは自分たちとは違う、新しい世代だ」と感じ続けてきたということになる。
しかし、だとすれば、そうだとすれば、そんなことに感嘆することに、どういう意味があるだろう。その感嘆のもととなったものは、「人類は歩みを続けているのだ」、「時間は進んでいるのだ」、「いまは近代だ」という感嘆なのだろうか? それならばいい。それならば、ぼくも共感できる気がする。でもぼくにはどうも、そうは感じられなかった。
「新しい世代が、自分たちとは違う存在だ」という指摘は、事実なんだろうか。事実だとしたら、実際「どう違う」のだろうか。違うからどうなんだろうか。なにが問題なんだろうというか、そこに差異を見出して、そこに線引きをして、いったいなにをしようというのだろうか。それがぼくには、よく分からない。
レトリックを少し取り除いてみれば、人類は、暑さ寒さを100%我慢しなくてよくなったわけじゃない。電車や自動車があっても、歩くことなしに人間は生きられないし、どんなに科学が進歩しても死は免れない。どんな強国の王様だって、風邪を引けばしんどいのだ。では本当に、そこにはどんな違いがあるのか。なにが違って、なにが同じなのか。
実際のところ、人がなにに感嘆しようが、ぼくには文句を言う筋合いはないし、なにかを説得したり、伝えたりするつもりもない。人間は多様だから、それぞれ好きなことを言い、好きなことに感嘆して生きればよい。誰のうえにも時は流れている。悠久の時間。
うちの子供たちが小学生のころ、学校にクーラーが備え付けられていると聞いてびっくりした。ぼくらのころは、クーラーなんてとんでもなかった。だから、小学校にクーラーがあると聞いて心底びっくりしたんだ。そしてこう思った。「ああ、暑さや寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と。
それを聞いたぼくは、「なにをまた馬鹿なことを言ってるんだ」と思ったのだが、そのときはうまく反論できなかった(このパターン多し)。それで、しばらくこのことについて考えていて思ったこと。
ぼくが思うのは。あなた方が子供たちに対し、「ああ、暑さや寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と見ているならば、その瞬間、またあなた方世代も同様に、「ああ、涼しい職場で仕事をして、暑さ寒さを我慢しない世代が生まれたんだな」と思われているということだ。
そうして同様に、汽車ができたときは「歩くことをやめた世代」が、電灯ができたときは「眠ることをやめた世代」が生まれてきた。……ということになるだろう。でも、そうだとするならば、ずっとずっとそれは続いてきたことなんだ。古い世代は若い世代を見て、「彼らは自分たちとは違う、新しい世代だ」と感じ続けてきたということになる。
しかし、だとすれば、そうだとすれば、そんなことに感嘆することに、どういう意味があるだろう。その感嘆のもととなったものは、「人類は歩みを続けているのだ」、「時間は進んでいるのだ」、「いまは近代だ」という感嘆なのだろうか? それならばいい。それならば、ぼくも共感できる気がする。でもぼくにはどうも、そうは感じられなかった。
「新しい世代が、自分たちとは違う存在だ」という指摘は、事実なんだろうか。事実だとしたら、実際「どう違う」のだろうか。違うからどうなんだろうか。なにが問題なんだろうというか、そこに差異を見出して、そこに線引きをして、いったいなにをしようというのだろうか。それがぼくには、よく分からない。
レトリックを少し取り除いてみれば、人類は、暑さ寒さを100%我慢しなくてよくなったわけじゃない。電車や自動車があっても、歩くことなしに人間は生きられないし、どんなに科学が進歩しても死は免れない。どんな強国の王様だって、風邪を引けばしんどいのだ。では本当に、そこにはどんな違いがあるのか。なにが違って、なにが同じなのか。
実際のところ、人がなにに感嘆しようが、ぼくには文句を言う筋合いはないし、なにかを説得したり、伝えたりするつもりもない。人間は多様だから、それぞれ好きなことを言い、好きなことに感嘆して生きればよい。誰のうえにも時は流れている。悠久の時間。