メッセージ。 - diary
2010-01-21
# 『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』
いまNHKでやっている、『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』。なんかちょっと、論者のピントが外れている気がするなぁ。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
--
あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。
「助けて」。この言葉が言えず、孤独死した30代の男性を去年10月にクローズアップ現代で取材し、放送した。番組では、生活に困窮し、命に危険を及ぼしかねない状況になっても助けを求めない30代の姿を取材。彼らは、こうした状況になったのは、自己責任だと自らを責め、「助けて」の言葉を拒み続けていた。この放送直後、インターネット上のブログでは書き込みが急増。わずか3日で2000件を超えた。その多くが30代で、驚くことに孤独死は他人事ではないと共感するものがほとんどだ。なかでも30代の女性に、共鳴する声が瞬く間に広がった。一体、いま30代に何が起きているのか?番組では、ブログの声から、静かに広がる「助け」を求められない30代の実像を継続取材した。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
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あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。
2009-11-13
# Haskellナイトの宣伝
宣伝っつーか、情報っつーか。2009年11月20日(金) 、つまり今日からちょうど1週間後の金曜夕方に、Haskell好きが集まるイベントがあります。これは、Haskellでの実用的なプログラミング手法を紹介した書籍『Real World Haskell』の翻訳版発行を記念して行われるものです(たぶん)。
ぼくは、このイベントの直接の関係者ではないのですが、「Haskellゴングというセッションで発表する人が足りないよー」という声が聞こえてきたので、ひょんなことから同セッションで短い発表をすることになりました。でも実際には、ぼくの発表なんてショボいものなので、とても不安です…。
応募多数になったらぼくが辞退できるので、「みんな応募してみるといいよ」って宣伝しようと思ったのですが、締め切りは1時間後か… orz。なんかいろいろすみませんって感じですが、もしこのイベントに興味のある方がいらしたら、参加してみてください。作品デモの応募も、ちょっとぐらいなら締切を過ぎても受付してくれるんじゃないかなぁ…。とにかく幹事さんに問い合わせてみるとよいのではないかと思います。
だいたいこの手のイベントの後は、ぼくは手持ち無沙汰でショボーンとしていますので、どなたかお話してくれる方がいらっしゃるとうれしいです。ま、あんまりお願いするのは良くないですね。Haskellに興味のある方でしたらそれなりに楽しいイベントではないかと思いますので、参加されてみてはいかがでしょうか。よろしくお願いします…。
ぼくは、このイベントの直接の関係者ではないのですが、「Haskellゴングというセッションで発表する人が足りないよー」という声が聞こえてきたので、ひょんなことから同セッションで短い発表をすることになりました。でも実際には、ぼくの発表なんてショボいものなので、とても不安です…。
応募多数になったらぼくが辞退できるので、「みんな応募してみるといいよ」って宣伝しようと思ったのですが、締め切りは1時間後か… orz。なんかいろいろすみませんって感じですが、もしこのイベントに興味のある方がいらしたら、参加してみてください。作品デモの応募も、ちょっとぐらいなら締切を過ぎても受付してくれるんじゃないかなぁ…。とにかく幹事さんに問い合わせてみるとよいのではないかと思います。
だいたいこの手のイベントの後は、ぼくは手持ち無沙汰でショボーンとしていますので、どなたかお話してくれる方がいらっしゃるとうれしいです。ま、あんまりお願いするのは良くないですね。Haskellに興味のある方でしたらそれなりに楽しいイベントではないかと思いますので、参加されてみてはいかがでしょうか。よろしくお願いします…。
2009-09-17
# 民主党はなぜ勝利したのか?
民主党の首脳陣は、廃れつつあるものと、勃興しつつあるものを、見間違えてはなりません。そのことを、自民党の壊滅から学んだのではありませんでしたか。学んでいないのなら、面白いことになりますよ。
先日、テレビ東京の『ルビコンの決断』で、民主党が先の総選挙でどのような選挙対策を行っていたのかを放送していた。民主党というか、小沢一郎さんの選挙戦術という紹介の仕方だったけど。
番組によると、今回たくさん当選した民主党の新人議員たちは、小沢一郎さんのバックアップにより選挙活動を行い、当選できたのだそうだ。番組内では彼らのことを「小沢チルドレン」と呼んでいた。紹介されていた選挙戦術は主に次の3点。
- 川上作戦
- 1日に50回以上を目標に、街頭演説をすること
- 小沢さんの顔を使用した選挙区引き締め
川上作戦というのは、文字どおり選挙区内で川の上流にあたる地域から、各家を個別訪問するという選挙活動。小沢チルドレンたちは、今回の選挙の実に1年以上前から、川上作戦と称して田舎の川上の家を毎日回っていたそうだ。
これにはどういう効果があるかというと、「こんな田舎にも民主党の議員さんは目をかけてくれているんだ」という好印象を与えるということらしい。ただし、無名の新人さんが行ったところで効果は薄いかもしれないので、実際には彼らとは別に、「小沢議員の秘書」という肩書を持った人たちも、別途各地方を回っていたとのこと。「小沢さんもこの地域を気にかけていくれている」という好印象を与えていた。
実際、小沢さんというのは、秘書をたくさん持っているらしい。自宅にはたくさんの門下生を住まわせていて、昔でいうところの書生さんをたくさん世話しているのだと言っていた。その書生さんたちが秘書となって全国に散らばり、各候補者の選挙を暗に陽にバックアップしている。
川上作戦というのはこういう意味がある。つまり、川の上流にあるような地域は要するに田舎で、お年寄りが住んでいる。そういった人たちの印象を良くすれば、評判は口コミで川下にいる彼らの子供や孫など若い人たちに自然に伝わっていく。川下に住む人たちにとって、政治家が来ることなどたいした意味がないとしても、川上に住む人たちにとっては大事件なのだ。
候補者たちは、人がほとんど通らない村の辻であっても、少しずつ場所を変えて1日50回の街頭演説を行う。そうやって川上から順に顔を売っていくのだ。
この番組はけっこう面白かった。選挙運動ってこんなことやってるんだって知らなかったし、1年も前からそういう活動をやってることもはじめて知った。選挙運動は公職選挙法で細かく規制されているので、ぼくにとっては何が違法でなにが合法なのか分からない。上記の説明で書いた文章も、記憶を頼りに書いているので文言や言葉の定義などがかなり曖昧だ。たぶん間違っている箇所がいくつもあるだろう。でもまぁ、実際に小沢さん陣営がそのように活動し、テレビで放送するぐらいだから、上記のような活動は合法なのだろう。
そして思ったことは、「やっぱり選挙というのは政策や政治内容ではなく、印象を操作することでなされるのだ」と。「なにをする人か」ではなく、「誰が味方か」を判断して、人は投票行為を行うのではないか。選挙前のネットでは、民主党の評判はそんなに良くなかった。ネットの評判は極端な傾向があるので、一般とはある程度開きがあるだろうとは思っている。
ただ、かといってテレビや新聞が一般の評判を反映しているかというと、ちょっと疑問に感じるところがある。テレビも新聞も、麻生さんのことを揚げ足取りして悪く言いすぎだと思うし、民主党の言う「まず、政権交代」とかいうロジックもそう説得力があるように思えない。では、誰が民主党に投票したのか? なぜ選挙直前、民主党の支持率があれほど高かったのか? ネット世論からはそれほど自民党支持のエネルギーを感じなかったけど、かといって「民主党がいいんだ」というエネルギーもそれほど感じなかった。
しかし、件の番組の内容をある程度重く見るなら納得がいく。年配の人を中心に、地方にいる人たちが民主党に投票したのだ。だからネットを見ていたり、比較的若く都市に住むような人たちを見ていても、民主支持の手応えを感じないのではないか。都市に住む若い人たちの中にも民主党に投票した人がいるだろうが、それに加えて比較的多くの地方にいる年配の人が、民主党に投票したんじゃないかと。そしてそのような投票を引き起こしたのは、小沢さん流の選挙活動、つまりそもそも田中角栄さんから連なる、まさしく自民党的な手法に依るのではないかと。
国民は、政策ではなく、政治の方向性でもなく、「誰が味方か」を頼りに今回の結論を出した。だとするなら、国民のなかには「廃れつつあるものと、勃興しつつあるもの」といったものは存在しないのではないか。まったく新しい新種の風が吹いたというよりは、同じ風が単にその風向きを変えただけに過ぎないのではないかと思う。
# Haskellでのデータベースの話の続き
昨日の話の続き。昨日書いたように、HDBCでMySQLを使おうとすると、UTF8の文字列が化けるので使うのは諦めた。それで、今日はHDBC-PostgreSQLが使えないか試し中。HDBC-PostgreSQLを叩く簡単なドライバを作ったことで、UTF8が文字化けしないと確認できた。そのため、rssmixはHDBC-PostgreSQLに対応させることにした。rssmix自体のHDBC-PostgreSQL対応はほぼ完了し、本番サーバのデータをテスト用サーバにインポートしてテストしてみてるのだけど…。
すごいよPostgreSQL!!!!! ちょう速い!!!!! 非力なテスト用サーバーでも、本番のデータでサクサク動いてる。SQLiteで遅かったのは何だったんだろうか。rssmix内に埋め込まれているSQL文じたいは何も変わってないのに。まぁ、ファイルベースのDBMSは、性能面で非常に不利だというのは理解するけど。とにかくすばらしいぞ-、PostgreSQL!!! …ということで、ひととおりテストが終わったら、本番サーバーのrssmixもPostgreSQL版に移行します。
すごいよPostgreSQL!!!!! ちょう速い!!!!! 非力なテスト用サーバーでも、本番のデータでサクサク動いてる。SQLiteで遅かったのは何だったんだろうか。rssmix内に埋め込まれているSQL文じたいは何も変わってないのに。まぁ、ファイルベースのDBMSは、性能面で非常に不利だというのは理解するけど。とにかくすばらしいぞ-、PostgreSQL!!! …ということで、ひととおりテストが終わったら、本番サーバーのrssmixもPostgreSQL版に移行します。
2009-09-15
# Haskellでのデータベース(ストレージIO)
rssmixで、たくさんサイトを登録しているユーザーのページ表示が非常に重い。数日前から調べているのだけど、どうやらDBとして使っているSQLiteが重い模様。データ量はせいぜい2~3万件なのだけど、この程度がスケールしないのかなぁ。DBのチューニングも試してみたけど、うまくいかない。
それで、SQLiteの代わりにMySQLを使えないか試してみた。rssmixはHaskellで組んでいて、DBとの接続にはHDBC(SQLiteとの接続はHDBC-SQLiteモジュール)を使っている。これを差し替えてHDBC-MySQLにすれば、上物のコードはほとんど変えずに、DBMSだけ替えることができるはずだ。
で、やってみたところ失敗。MySQLには接続できるのだけど、日本語が「?」に文字化けしてしまうのだ。どうしたらいいのかなぁ。HDBC-MySQLのコードを修正すればよさそうけど、いまのぼくのスキルではちょっと重い。ほかにもいろいろやりたいことがあるので、この案件にあまり時間をかけたくなくて焦っている。
そうだ、関連で調べたこと。DBMSではなくてもっとシンプルなDBM系を使うことも検討してみてるのだけど、Hackageには適当なライブラリが公開されていない。具体的にはGDBMを使いたいのだけど、GDBMを使うライブラリはなかった。それ以外に使えそうなのが数個あるにはあったが、たとえばTokyo Cabinetのライブラリをコンパイルしようとしたらエラーが出てうまくいかない。結局、Haskellでうまく使えるストレージIOライブラリが見つからない。うぐぐぐ。
2009-09-17 追記。その後、PostgreSQLがうまく使えそうだと分かったので、rssmixではPostgreSQLを使うことになりそうです。→その後の話
それで、SQLiteの代わりにMySQLを使えないか試してみた。rssmixはHaskellで組んでいて、DBとの接続にはHDBC(SQLiteとの接続はHDBC-SQLiteモジュール)を使っている。これを差し替えてHDBC-MySQLにすれば、上物のコードはほとんど変えずに、DBMSだけ替えることができるはずだ。
で、やってみたところ失敗。MySQLには接続できるのだけど、日本語が「?」に文字化けしてしまうのだ。どうしたらいいのかなぁ。HDBC-MySQLのコードを修正すればよさそうけど、いまのぼくのスキルではちょっと重い。ほかにもいろいろやりたいことがあるので、この案件にあまり時間をかけたくなくて焦っている。
そうだ、関連で調べたこと。DBMSではなくてもっとシンプルなDBM系を使うことも検討してみてるのだけど、Hackageには適当なライブラリが公開されていない。具体的にはGDBMを使いたいのだけど、GDBMを使うライブラリはなかった。それ以外に使えそうなのが数個あるにはあったが、たとえばTokyo Cabinetのライブラリをコンパイルしようとしたらエラーが出てうまくいかない。結局、Haskellでうまく使えるストレージIOライブラリが見つからない。うぐぐぐ。
2009-09-17 追記。その後、PostgreSQLがうまく使えそうだと分かったので、rssmixではPostgreSQLを使うことになりそうです。→その後の話
2009-09-14
# 先入観と内省、コミュニケーション
昨日だったか、一昨日だったか、『cool japan』という番組を見ていて面白いシーンがあった。この番組は、日本に住んでいる外国人のコメンテーター10人程度をスタジオに集め、日本での生活や日本の習慣について感想を話してもらうというもの。NHKが放送している。
先日の回でのテーマは、「プライバシー」。44分の放送中、いろんな話がなされたのだけど、そのなかで「子供と一緒に寝る日本の習慣は変だ」という話になった。番組中の日本人へのインタビューでは、多くの日本人は子供がある程度大きく(10歳ぐらい?に)なるまで一緒に寝ているということだった。
外国人たちは(この回ではなぜかヨーロッパ系の人がほとんどだったが)、この習慣は変でno goodだと言った。彼らの国では、1歳とか2~3歳ぐらいで子供は一人で寝かされるという。彼らは言った。「子供にもプライバシーは必要だ」、「人間というのは自分の空間が必要なものなんだ」、「子供と一緒に寝ていたら、夫婦の時間が持てない」と。
でも、というか「そして」というか、少し話が進んでみると、キャスターの日本人が1つの事実に気付いた。彼ら外国人が言う「自分の空間が必要」というのは、「子供自身の空間」ではなくて「大人の空間」という意味で使われていたのだ。キャスターは尋ねた。「子供を一人で寝かせるのは子供のためではなくて、子供がいると夜の営みが持てないという大人自身の都合のためですか?」と。
外国人たちは苦笑いしながら、「そうです」と答えていた。外国人の一人は、「子供たちには兄弟姉妹がいたほうがいい。だから子供が一人で寝るのは、彼ら子供たち自身のためなんだ」と笑いながら言い訳さえしていた。
ぼくは彼らをあげつらうつもりはないし、人間が間違いを犯すのは仕方がないと思っている。ただこれを見た瞬間は、欺瞞を感じたような気がした。彼らは日本人の習慣を良いか悪いかの観点で論じているフリをして、いや彼ら自身がそのつもりでいたのに、実際は良いか悪いかを公平な視点から論じることなどできていなかったのだ。彼らはただ単に、「自分たちが習慣が正しい」と言っていたにすぎない。
これは、彼らの悪い癖だ。彼らは歴史的に見て、何度も同じことをやってきた。公平な視点を持っているフリをして、公平なつもりになっている一方で、その実は全然公平なんかではない。番組のなかで、彼らはその間違いに気付いた。その間違いに気付いたことで良心の呵責を感じてくれるなら、よいのだ。自分が必ずしも正しいわけではないことを心に刻み、他者の文化や精神に敬意をもって接してくれるならそれでいい。
でも番組での彼らの態度は曖昧で、彼らの心に少しでも反省の気持ちが芽生えたのかどうか、定かではなかった。ぼくは彼らに、知的であってほしいと思う。彼らは、自分の誤ちに気付き、それを認めることができるぐらい知的なのだ。彼らは知的であり、知的であることを自認さえしている。ならば、その知性をもって内省をしてほしい。そうでなければ話ができない。「じゃあどうやって子供を育てるのが理想的なのか」、頭ごなしに変な先入観をぶつけあうだけでは、コミュニケーションをする意味に乏しいのではないかと思う。
先日の回でのテーマは、「プライバシー」。44分の放送中、いろんな話がなされたのだけど、そのなかで「子供と一緒に寝る日本の習慣は変だ」という話になった。番組中の日本人へのインタビューでは、多くの日本人は子供がある程度大きく(10歳ぐらい?に)なるまで一緒に寝ているということだった。
外国人たちは(この回ではなぜかヨーロッパ系の人がほとんどだったが)、この習慣は変でno goodだと言った。彼らの国では、1歳とか2~3歳ぐらいで子供は一人で寝かされるという。彼らは言った。「子供にもプライバシーは必要だ」、「人間というのは自分の空間が必要なものなんだ」、「子供と一緒に寝ていたら、夫婦の時間が持てない」と。
でも、というか「そして」というか、少し話が進んでみると、キャスターの日本人が1つの事実に気付いた。彼ら外国人が言う「自分の空間が必要」というのは、「子供自身の空間」ではなくて「大人の空間」という意味で使われていたのだ。キャスターは尋ねた。「子供を一人で寝かせるのは子供のためではなくて、子供がいると夜の営みが持てないという大人自身の都合のためですか?」と。
外国人たちは苦笑いしながら、「そうです」と答えていた。外国人の一人は、「子供たちには兄弟姉妹がいたほうがいい。だから子供が一人で寝るのは、彼ら子供たち自身のためなんだ」と笑いながら言い訳さえしていた。
ぼくは彼らをあげつらうつもりはないし、人間が間違いを犯すのは仕方がないと思っている。ただこれを見た瞬間は、欺瞞を感じたような気がした。彼らは日本人の習慣を良いか悪いかの観点で論じているフリをして、いや彼ら自身がそのつもりでいたのに、実際は良いか悪いかを公平な視点から論じることなどできていなかったのだ。彼らはただ単に、「自分たちが習慣が正しい」と言っていたにすぎない。
これは、彼らの悪い癖だ。彼らは歴史的に見て、何度も同じことをやってきた。公平な視点を持っているフリをして、公平なつもりになっている一方で、その実は全然公平なんかではない。番組のなかで、彼らはその間違いに気付いた。その間違いに気付いたことで良心の呵責を感じてくれるなら、よいのだ。自分が必ずしも正しいわけではないことを心に刻み、他者の文化や精神に敬意をもって接してくれるならそれでいい。
でも番組での彼らの態度は曖昧で、彼らの心に少しでも反省の気持ちが芽生えたのかどうか、定かではなかった。ぼくは彼らに、知的であってほしいと思う。彼らは、自分の誤ちに気付き、それを認めることができるぐらい知的なのだ。彼らは知的であり、知的であることを自認さえしている。ならば、その知性をもって内省をしてほしい。そうでなければ話ができない。「じゃあどうやって子供を育てるのが理想的なのか」、頭ごなしに変な先入観をぶつけあうだけでは、コミュニケーションをする意味に乏しいのではないかと思う。