メッセージ。 - diary
2010-01-28
# [技術] Haskellを詳しく知らないプログラマさんにHaskellをどう説明するか
ちょっと人と会ってHaskellについて説明する機会があって。そのときはうまく説明できなかったのだが、帰り道に「ああ言えばよかったなぁ」と後悔した。そういうことはよくあるのだが、とりあえず今日の件をここに書き下しておく。
Haskellは、ほかのプログラミング言語と比べて一段抽象的にプログラミングができますが、逆に言えば一段抽象的にしかプログラムが書けないということでもあります。ここで「一段の抽象化」と言ったのがまさに「遅延評価」です。
Haskellでは一段抽象的にプログラムを書けるので、つまりコーディングが簡潔になります。コードの可読性は高くなりますし、「Cで書くよりRubyで書くほうが簡単」なのと同じように、「Rubyで書くよりHaskellで書くほうが簡単」になります(少なくとも理論上は)。
しかし一方で、基本的にHaskellでは一段抽象的にしかプログラムが書けません。これは、Haskellのプログラム内で具体的なこと、たとえば関数の実行順序やメモリ使用量などをコントロールしたい(減らしたい)といったことが、(ほかの言語でできるようには)自由にできないことを意味します。
たとえばC言語でプログラムを書いていると、ところどころでインラインアセンブラを使いたくなることがあるかもしれません。そういうとき、もし、「このCコンパイラではインラインアセンブラが使えないんですよ」と言われたらどうでしょうか? 不便に感じるかもしれません。まぁそれはそれで仕方がないかと思うかもしれません。
Haskellにもそういうところがあります。普通の言語がアセンブラだとしたら、Haskellは「インラインアセンブラが使えないCコンパイラ」みたいなものです。Haskellは一段抽象的なため、プログラムが書きやすくなります。ですが一方で、メモリ使用量や実行効率、デバッグ方法などの面で、ちょっと手が届かないところがでてきます。
Haskellは、ほかのプログラミング言語と比べて一段抽象的にプログラミングができますが、逆に言えば一段抽象的にしかプログラムが書けないということでもあります。ここで「一段の抽象化」と言ったのがまさに「遅延評価」です。
Haskellでは一段抽象的にプログラムを書けるので、つまりコーディングが簡潔になります。コードの可読性は高くなりますし、「Cで書くよりRubyで書くほうが簡単」なのと同じように、「Rubyで書くよりHaskellで書くほうが簡単」になります(少なくとも理論上は)。
しかし一方で、基本的にHaskellでは一段抽象的にしかプログラムが書けません。これは、Haskellのプログラム内で具体的なこと、たとえば関数の実行順序やメモリ使用量などをコントロールしたい(減らしたい)といったことが、(ほかの言語でできるようには)自由にできないことを意味します。
たとえばC言語でプログラムを書いていると、ところどころでインラインアセンブラを使いたくなることがあるかもしれません。そういうとき、もし、「このCコンパイラではインラインアセンブラが使えないんですよ」と言われたらどうでしょうか? 不便に感じるかもしれません。まぁそれはそれで仕方がないかと思うかもしれません。
Haskellにもそういうところがあります。普通の言語がアセンブラだとしたら、Haskellは「インラインアセンブラが使えないCコンパイラ」みたいなものです。Haskellは一段抽象的なため、プログラムが書きやすくなります。ですが一方で、メモリ使用量や実行効率、デバッグ方法などの面で、ちょっと手が届かないところがでてきます。
2010-01-26
# 物の価値が下がり続けている
百貨店の業績不振を伝えるニュースを見たりして思ったこと。
最近、食材や服なんかを見ていると、外国産が増えたなと思う。うちの親父なんて、酢豚を初めて食べたのは社会に出てからだとかなんとか言っていたが、そう考えると、ぼくらの暮らしは戦後からずっと国際化したり物が豊富になったりしているんだろう。昔は国産がほとんどで、外国産の服も食べ物も憧れの的だった。ぼくらは海外のことを知らなかった。しかしそのバランスはどんどん一方向に傾いている。
かつては、日本という国の中に物がなかったのだ(あるいは物の多様性が低かった)。その意味で、かつての百貨店は珍しくて高級な物が買える場所として国民に受け入れられたのだろう。昔は、家族で百貨店に出かけ、ショッピングをし、レストランでお子様ランチを食べることがステータスでありレジャーだった。しかし時が過ぎ、いま百貨店は長らく不振を続けている。なぜか? それはやはり、百貨店の中に、憧れるに足る商品が少なくなってしまったからではないか。
百貨店だけではない。もはや、珍しく憧れるに足るような商品は、日本という国の中では見つけにくくなってしまった。原因の1つは物や価値観の「多様化」であるだろうが、別の側面から見ると物が「豊かになった」ことにあるのではないか。食材も服も文化製品も、もはや国境を容易に越えてやってくる。気が付けば否応なしにそこにある。それらが希少資源であった時代には、輸入して店先に並べるだけでお客の好奇心を満たすことができたが、現在ではそういう時代を過ぎ去ってしまった。
つまり日本人は、どんな物を持ってこられてもそう驚かなくなっているのではないか。価値を感じにくくなっているのではないか。そういう意味で、日本では戦後からずっと物の価値が下がり続けていて、逆に貨幣の価値が上がり続けていた、ということなのかもしれない。だとしたら、そりゃあビジネスも難しくなるはずだ。
最近、食材や服なんかを見ていると、外国産が増えたなと思う。うちの親父なんて、酢豚を初めて食べたのは社会に出てからだとかなんとか言っていたが、そう考えると、ぼくらの暮らしは戦後からずっと国際化したり物が豊富になったりしているんだろう。昔は国産がほとんどで、外国産の服も食べ物も憧れの的だった。ぼくらは海外のことを知らなかった。しかしそのバランスはどんどん一方向に傾いている。
かつては、日本という国の中に物がなかったのだ(あるいは物の多様性が低かった)。その意味で、かつての百貨店は珍しくて高級な物が買える場所として国民に受け入れられたのだろう。昔は、家族で百貨店に出かけ、ショッピングをし、レストランでお子様ランチを食べることがステータスでありレジャーだった。しかし時が過ぎ、いま百貨店は長らく不振を続けている。なぜか? それはやはり、百貨店の中に、憧れるに足る商品が少なくなってしまったからではないか。
百貨店だけではない。もはや、珍しく憧れるに足るような商品は、日本という国の中では見つけにくくなってしまった。原因の1つは物や価値観の「多様化」であるだろうが、別の側面から見ると物が「豊かになった」ことにあるのではないか。食材も服も文化製品も、もはや国境を容易に越えてやってくる。気が付けば否応なしにそこにある。それらが希少資源であった時代には、輸入して店先に並べるだけでお客の好奇心を満たすことができたが、現在ではそういう時代を過ぎ去ってしまった。
つまり日本人は、どんな物を持ってこられてもそう驚かなくなっているのではないか。価値を感じにくくなっているのではないか。そういう意味で、日本では戦後からずっと物の価値が下がり続けていて、逆に貨幣の価値が上がり続けていた、ということなのかもしれない。だとしたら、そりゃあビジネスも難しくなるはずだ。
2010-01-23
# 撤退戦
最近、人と話してるときとかに口にしている言葉:「撤退戦」。
たとえば友達の弟が、もともとは勤めている会社で技術職だったのだけど、この不景気でリストラが進められて営業職に異動になって悩んでいるというような話を聞く。転職したほうがいいんだろうか、とか。仕事がうまくこなせない、とか。
そういうときに「撤退戦」という言葉で、ちょっとアドバイスというか、思っていることを言いたくなる。それは、日本がここ20年ほど、「撤退戦」を戦っているということだ。
20年前のその前、日本は40年ほど、高度成長期などといって戦線を拡大していた。その時期には、どんな産業にあったとしても大かれ少なかれビジネスはうまくいき、平均以下の能力を持った人でも、仕事をすれば成功することも多かった。相場が上昇基調にあったからだ。その40年を知っている人(少なくともその一部)は、仕事やビジネスというものを、拡大戦線のイメージで捉えている。つまり彼らは、撤退の仕方を知らない。
だからどうしても、戦線を拡大するやり方で、この撤退戦を戦おうとしてしまう。売上が落ちてきたら、キャンペーンを打ったり、新規事業に投資したりして売上を補おうとする。売上を拡大しようとする。しかし多分、そういったやり方は、なかなかうまくいかないのではないか。
いまの時代、売上が下がるのは仕方ないと考えたほうがよいのかもしれない。無理に売り上げを大きくするのではなく、下がり続ける売上でどう利益を確保するか。どのように守るかが重要なのではないかと思う。もちろん、必要な投資はしたほうがよい。しかし、昔と比べると投資も難しくなっている。昔ならうまくいったような投資が、今では回収できなくなっている。
まぁ、投資というのはそもそも失敗しがちで、エジソンの発明のように「うまくいかない方法を100個も見つけた」というように積み重ねるものでもあるのだろうけど。ただ、なんというのかなぁ、いまは環境が厳しいので、精度を高めたり、最大限コストを抑えながら投資することが大事なんじゃないかなぁ、と。少なくとも、いままでのようなジャブジャブの投資はやめたほうがよいだろうと思う。
冒頭の、友達の弟さんの話に戻ると、そのときは、「まぁ難しいけど、いま日本が撤退戦にあることをちょっと意識してみてもいいんじゃないかな」みたいな話をした。ぼくも過去、いくつか会社を転職した。転職するときは、「この会社はもう駄目なんじゃないか」と感じたこともあった。でも、転職して数年たって振り返って見てみると、あのときの会社は案外元気にやっていたりする。社員数が順調に増えていたり、新製品を発表していたり。だから案外、会社というのは潰れないものだということを、後を歩く人には言いたい。
そしてもう1つ、技術職から営業職に異動になって難しいというような問題については、あまり悩みすぎないように、ってことかな。いまは撤退戦にあるのだから、そもそも「仕事はうまくいかない時期にあるのだ」と考えよう。悩んでいるのはあなただけじゃない。いまの時代は、みんなが「仕事がうまくいかない」と悩んでいる。うまくいかなくて普通なんだ。平均点が「前年比マイナス5%ぐらいなんだ」って。そのうえで、技術職から営業職に変わったことを、ポジティブに捉えることもできるのではないかと思う。
会社はあなたをクビにしなかったのだから。クビにする代わりに彼らは、あなたを異動させた。彼らはあなたに可能性を感じているし、なんらかの良い結果が起こる*かもしれない*と考えてそのような試みをしているのだろう。だからあなたは、そこで自分のできることを試してみればよいのではないかと思う。どうせ今は、前年比マイナス5%ぐらいの時代。良い結果を出せなくても悩みすぎずに、ちょっと視点を変えるつもりで、与えられた仕事にあたってみてはどうだろうか。
転職も悪くはないけど、転職したからといっていまの時代、新しい会社の元気が良いとは限らない。やっぱり新しい会社も、前年比マイナス5%ぐらいで苦しんでいる場合も多いだろう。だから転職も、なかなか難しい。どこにいたって、前年比5%プラスぐらいにするのは難しいのだ。だったら現状をあまり悩みすぎずに、「マイナスで当たり前だよね」ぐらいに考えたほうがいい。やがてときがくれば、流れも変わる。そのときまで、いろいろ勉強して力を貯めるとか、長期的に考えて自分がやるべきだと思うことに力を入れるとか、すればよいのではないかと思うのだ。
たとえば友達の弟が、もともとは勤めている会社で技術職だったのだけど、この不景気でリストラが進められて営業職に異動になって悩んでいるというような話を聞く。転職したほうがいいんだろうか、とか。仕事がうまくこなせない、とか。
そういうときに「撤退戦」という言葉で、ちょっとアドバイスというか、思っていることを言いたくなる。それは、日本がここ20年ほど、「撤退戦」を戦っているということだ。
20年前のその前、日本は40年ほど、高度成長期などといって戦線を拡大していた。その時期には、どんな産業にあったとしても大かれ少なかれビジネスはうまくいき、平均以下の能力を持った人でも、仕事をすれば成功することも多かった。相場が上昇基調にあったからだ。その40年を知っている人(少なくともその一部)は、仕事やビジネスというものを、拡大戦線のイメージで捉えている。つまり彼らは、撤退の仕方を知らない。
だからどうしても、戦線を拡大するやり方で、この撤退戦を戦おうとしてしまう。売上が落ちてきたら、キャンペーンを打ったり、新規事業に投資したりして売上を補おうとする。売上を拡大しようとする。しかし多分、そういったやり方は、なかなかうまくいかないのではないか。
いまの時代、売上が下がるのは仕方ないと考えたほうがよいのかもしれない。無理に売り上げを大きくするのではなく、下がり続ける売上でどう利益を確保するか。どのように守るかが重要なのではないかと思う。もちろん、必要な投資はしたほうがよい。しかし、昔と比べると投資も難しくなっている。昔ならうまくいったような投資が、今では回収できなくなっている。
まぁ、投資というのはそもそも失敗しがちで、エジソンの発明のように「うまくいかない方法を100個も見つけた」というように積み重ねるものでもあるのだろうけど。ただ、なんというのかなぁ、いまは環境が厳しいので、精度を高めたり、最大限コストを抑えながら投資することが大事なんじゃないかなぁ、と。少なくとも、いままでのようなジャブジャブの投資はやめたほうがよいだろうと思う。
冒頭の、友達の弟さんの話に戻ると、そのときは、「まぁ難しいけど、いま日本が撤退戦にあることをちょっと意識してみてもいいんじゃないかな」みたいな話をした。ぼくも過去、いくつか会社を転職した。転職するときは、「この会社はもう駄目なんじゃないか」と感じたこともあった。でも、転職して数年たって振り返って見てみると、あのときの会社は案外元気にやっていたりする。社員数が順調に増えていたり、新製品を発表していたり。だから案外、会社というのは潰れないものだということを、後を歩く人には言いたい。
そしてもう1つ、技術職から営業職に異動になって難しいというような問題については、あまり悩みすぎないように、ってことかな。いまは撤退戦にあるのだから、そもそも「仕事はうまくいかない時期にあるのだ」と考えよう。悩んでいるのはあなただけじゃない。いまの時代は、みんなが「仕事がうまくいかない」と悩んでいる。うまくいかなくて普通なんだ。平均点が「前年比マイナス5%ぐらいなんだ」って。そのうえで、技術職から営業職に変わったことを、ポジティブに捉えることもできるのではないかと思う。
会社はあなたをクビにしなかったのだから。クビにする代わりに彼らは、あなたを異動させた。彼らはあなたに可能性を感じているし、なんらかの良い結果が起こる*かもしれない*と考えてそのような試みをしているのだろう。だからあなたは、そこで自分のできることを試してみればよいのではないかと思う。どうせ今は、前年比マイナス5%ぐらいの時代。良い結果を出せなくても悩みすぎずに、ちょっと視点を変えるつもりで、与えられた仕事にあたってみてはどうだろうか。
転職も悪くはないけど、転職したからといっていまの時代、新しい会社の元気が良いとは限らない。やっぱり新しい会社も、前年比マイナス5%ぐらいで苦しんでいる場合も多いだろう。だから転職も、なかなか難しい。どこにいたって、前年比5%プラスぐらいにするのは難しいのだ。だったら現状をあまり悩みすぎずに、「マイナスで当たり前だよね」ぐらいに考えたほうがいい。やがてときがくれば、流れも変わる。そのときまで、いろいろ勉強して力を貯めるとか、長期的に考えて自分がやるべきだと思うことに力を入れるとか、すればよいのではないかと思うのだ。
2010-01-21
# 『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』
いまNHKでやっている、『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』。なんかちょっと、論者のピントが外れている気がするなぁ。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
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あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。
「助けて」。この言葉が言えず、孤独死した30代の男性を去年10月にクローズアップ現代で取材し、放送した。番組では、生活に困窮し、命に危険を及ぼしかねない状況になっても助けを求めない30代の姿を取材。彼らは、こうした状況になったのは、自己責任だと自らを責め、「助けて」の言葉を拒み続けていた。この放送直後、インターネット上のブログでは書き込みが急増。わずか3日で2000件を超えた。その多くが30代で、驚くことに孤独死は他人事ではないと共感するものがほとんどだ。なかでも30代の女性に、共鳴する声が瞬く間に広がった。一体、いま30代に何が起きているのか?番組では、ブログの声から、静かに広がる「助け」を求められない30代の実像を継続取材した。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
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あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。
2009-11-13
# Haskellナイトの宣伝
宣伝っつーか、情報っつーか。2009年11月20日(金) 、つまり今日からちょうど1週間後の金曜夕方に、Haskell好きが集まるイベントがあります。これは、Haskellでの実用的なプログラミング手法を紹介した書籍『Real World Haskell』の翻訳版発行を記念して行われるものです(たぶん)。
ぼくは、このイベントの直接の関係者ではないのですが、「Haskellゴングというセッションで発表する人が足りないよー」という声が聞こえてきたので、ひょんなことから同セッションで短い発表をすることになりました。でも実際には、ぼくの発表なんてショボいものなので、とても不安です…。
応募多数になったらぼくが辞退できるので、「みんな応募してみるといいよ」って宣伝しようと思ったのですが、締め切りは1時間後か… orz。なんかいろいろすみませんって感じですが、もしこのイベントに興味のある方がいらしたら、参加してみてください。作品デモの応募も、ちょっとぐらいなら締切を過ぎても受付してくれるんじゃないかなぁ…。とにかく幹事さんに問い合わせてみるとよいのではないかと思います。
だいたいこの手のイベントの後は、ぼくは手持ち無沙汰でショボーンとしていますので、どなたかお話してくれる方がいらっしゃるとうれしいです。ま、あんまりお願いするのは良くないですね。Haskellに興味のある方でしたらそれなりに楽しいイベントではないかと思いますので、参加されてみてはいかがでしょうか。よろしくお願いします…。
ぼくは、このイベントの直接の関係者ではないのですが、「Haskellゴングというセッションで発表する人が足りないよー」という声が聞こえてきたので、ひょんなことから同セッションで短い発表をすることになりました。でも実際には、ぼくの発表なんてショボいものなので、とても不安です…。
応募多数になったらぼくが辞退できるので、「みんな応募してみるといいよ」って宣伝しようと思ったのですが、締め切りは1時間後か… orz。なんかいろいろすみませんって感じですが、もしこのイベントに興味のある方がいらしたら、参加してみてください。作品デモの応募も、ちょっとぐらいなら締切を過ぎても受付してくれるんじゃないかなぁ…。とにかく幹事さんに問い合わせてみるとよいのではないかと思います。
だいたいこの手のイベントの後は、ぼくは手持ち無沙汰でショボーンとしていますので、どなたかお話してくれる方がいらっしゃるとうれしいです。ま、あんまりお願いするのは良くないですね。Haskellに興味のある方でしたらそれなりに楽しいイベントではないかと思いますので、参加されてみてはいかがでしょうか。よろしくお願いします…。