メッセージ。 - diary
2010-02-05
# [就職活動] お仕事(わりと真剣に)探し中
最近、就職活動をしている。でもなかなか仕事が見つからない。どうして見つからないのか。就職活動をしてみて感じたことは、「企業は即戦力を求めている」ということだ。たとえば、モバイルサイトの開発会社なら携帯サイト開発経験者を募集してるし、組込み機器の開発会社では組込み開発の経験者を募集している。だから、ぼくのように「ジョブチェンジしたい」という人は、なかなか要らないようなのだ。(とくにぼくの場合は、歳がいっているということもある。書類選考で落ちることも多い)。
まぁたしかに、企業の立場に立って考えてみれば経験者が欲しいというのも分かる。自分の経歴書を見て自問自答をしてみても、「いったいこの人は何ができるのか? この人を雇ってペイするのか?」と感じる。しかし、時代は変化しているのだから、「ジョブチェンジしたい」という人もそれなりに存在すると思うんだよなぁ。たとえば今はSEをやってるけどこの先不安だとか、パン屋をやってるけどもう疲れたとか。でもこの不況の時代、「ジョブチェンジしたい」と思ってもなかなかうまくいかないのだろう。厳しい。
ぼくの場合も前職が雑誌の編集職で、しかし編集職なんてこの長い出版不況の中で募集があるわけがない。というかぼく自身が、雑誌の編集をしたいとか「自分は雑誌の編集をしている」とかそもそも思っていないのだが。前にどこかで読んだ、「Googleで働いているオフィス清掃の人は、自分の仕事が掃除夫だとは思っていない。彼は自分の仕事が世界中の知識を整理する仕事を手伝うことだと思ってる」みたいな意見があったけど、それに近いことをぼくも思っている。あれ? 話が脱線した。要するに、「新しい仕事」を求めている人って、今の時代多いと思うんだよなぁ。それはあたかも、新しい未来を求めるように。
何年か前に梅田さんのWeb進化論で、「インターネットのおかげでこれからは仕事や雇用というものが流動化する」ということが書かれていたけど、ああいうのは本当に実現するのかなぁ。まぁそもそも、そういう働き方ができるのはピラミッドの上のほう一部だけで、ぼくみたいなヘッポコには関係ないのかもしれないけど。ただ、あの本が書かれた当時を振り返ってみると、アメリカが好景気で中国とかBRICsとかが今ほど力強く感じることはなかった時代で、いまのような「少ない仕事とお金を奪い合う」みたいな状況が想定されていなかったのではないかなぁ、とか思う。
ぼく自身のことを言うと、関数型言語が割と好きで、SchemeとかHaskellとかを勉強してきたけど、でもそういう技術要素で募集をかけている企業は、就職情報サイトを探してもぜんぜん見つからない。技術者として募集されているのはたいてい、PHPかJavaかせいぜいRuby on Railsができる人で、しかも最近だとそれらのうち、何らかの(メジャーな)フレームワーク経験者ばかりが求められている。まぁそりゃあ分かるのだ。分かるのだが、自分からすればあまりにも遠くに来てしまった感があり、困ったなぁ、と。Web上ではたまに、Joelの文章で「どんな技術者を採用すべきか」というのがコピペされているが、そこには「ポインタを真に理解している技術者を慎重に見分けるべきだ」みたいなことが書かれていて、ちょっと腹立つ。ポインタの理解なんて、どこの企業が求めてるんだべ? ポインタを理解しているからって雇ってくれる企業ってあるのかな?
まぁいい。いいのだ。就職活動しているといっても、まだそれほど動いているわけじゃないし、いろいろ勉強になっている。ある程度苦労したほうが、現実世界を理解するのに役立つとも思っている。だからまぁ、いいのだ。しかしこの先、どうなるのかなぁ。なんとかお金を手に入れなきゃいけないのだが、お金を稼ぐというのはとても難しいものだと実感する。UK STUDIOさんが「プログラマという職業は「ふつう」の人には厳しくないか」と書かれていたが、お金を手に入れるのは「ふつう」の自分には厳しいのかもしれない。いや、自分が普通以下の可能性も高いか。
普通以下という話でいえば、ぼく自身がSchemeやHaskellの分野でとくに優れた業績を出せていないというのも厳しい話だ。それらの言語が好きだと言ってもたんなる下手の横好きで、extremeなプロダクトを開発するなんてところには全然手が届かない。まぁなんとか新規性のあるものを作りたいと思っているが、「新規性があるかどうか」を把握すること自体が難しい。ソフトウェア開発には研究的な要素があり、そういう非労働集約的なR&Dがしたいと思ったらそれはそれなりのコストセンターというかビジネスエンジンが必要だ。逆に労働集約的なビジネスならそういったビジネスにも、それなりのビジネスエンジンが必要である。そしてぼくは、そのどちらにも引っかからない中途半端に位置にいるのではないか、とか。
いったい自分には何ができるのか? 以前テレビで『人生が変わる1分間の深イイ話』で、奈良で刀鍛冶をしているという人間国宝の人の意見が紹介されていた。「一生をかけるに足る仕事の見つけ方とは?」というもので、その人はこう答えていた。「一生をかけるに足る仕事を見つけるというのは難しくて、どうすればよいのか自分にもよく分からない。でも、一生をかけるに足る師匠を見つけるのなら、できるのではないかと思う。仕事を探すのではなく、人を探してみてはどうか」と。まったく同感で、自分もそういう風に働けたらなぁ、と思う。そういう風に働きたい。でも具体的には、どうすりゃいいのかなぁ。
あれ? でもなんか、そもそも自分は、「一生をかけるに足る仕事」を探しているのではなかったかも。いまでもなんとなく、やりたい仕事、やらなければならない仕事のようなものはボンヤリと見えている気がする。でも、そこに辿り付く方法が全然想像つかないのと、「これ」という具体性を帯びていないように感じる。あと、自分にそれをする能力があるのか?という問題。それとそれと、やっぱり師匠みたいな人がいたらなぁと思うんだよなぁ。なんというか、道が欲しいというか。道が欲しいなんて贅沢なのかなぁ。まぁとにかく、なにか仕事があったらどんな仕事でもいいから声かけてください。という状況に、だんだんなりつつあります。
まぁたしかに、企業の立場に立って考えてみれば経験者が欲しいというのも分かる。自分の経歴書を見て自問自答をしてみても、「いったいこの人は何ができるのか? この人を雇ってペイするのか?」と感じる。しかし、時代は変化しているのだから、「ジョブチェンジしたい」という人もそれなりに存在すると思うんだよなぁ。たとえば今はSEをやってるけどこの先不安だとか、パン屋をやってるけどもう疲れたとか。でもこの不況の時代、「ジョブチェンジしたい」と思ってもなかなかうまくいかないのだろう。厳しい。
ぼくの場合も前職が雑誌の編集職で、しかし編集職なんてこの長い出版不況の中で募集があるわけがない。というかぼく自身が、雑誌の編集をしたいとか「自分は雑誌の編集をしている」とかそもそも思っていないのだが。前にどこかで読んだ、「Googleで働いているオフィス清掃の人は、自分の仕事が掃除夫だとは思っていない。彼は自分の仕事が世界中の知識を整理する仕事を手伝うことだと思ってる」みたいな意見があったけど、それに近いことをぼくも思っている。あれ? 話が脱線した。要するに、「新しい仕事」を求めている人って、今の時代多いと思うんだよなぁ。それはあたかも、新しい未来を求めるように。
何年か前に梅田さんのWeb進化論で、「インターネットのおかげでこれからは仕事や雇用というものが流動化する」ということが書かれていたけど、ああいうのは本当に実現するのかなぁ。まぁそもそも、そういう働き方ができるのはピラミッドの上のほう一部だけで、ぼくみたいなヘッポコには関係ないのかもしれないけど。ただ、あの本が書かれた当時を振り返ってみると、アメリカが好景気で中国とかBRICsとかが今ほど力強く感じることはなかった時代で、いまのような「少ない仕事とお金を奪い合う」みたいな状況が想定されていなかったのではないかなぁ、とか思う。
ぼく自身のことを言うと、関数型言語が割と好きで、SchemeとかHaskellとかを勉強してきたけど、でもそういう技術要素で募集をかけている企業は、就職情報サイトを探してもぜんぜん見つからない。技術者として募集されているのはたいてい、PHPかJavaかせいぜいRuby on Railsができる人で、しかも最近だとそれらのうち、何らかの(メジャーな)フレームワーク経験者ばかりが求められている。まぁそりゃあ分かるのだ。分かるのだが、自分からすればあまりにも遠くに来てしまった感があり、困ったなぁ、と。Web上ではたまに、Joelの文章で「どんな技術者を採用すべきか」というのがコピペされているが、そこには「ポインタを真に理解している技術者を慎重に見分けるべきだ」みたいなことが書かれていて、ちょっと腹立つ。ポインタの理解なんて、どこの企業が求めてるんだべ? ポインタを理解しているからって雇ってくれる企業ってあるのかな?
まぁいい。いいのだ。就職活動しているといっても、まだそれほど動いているわけじゃないし、いろいろ勉強になっている。ある程度苦労したほうが、現実世界を理解するのに役立つとも思っている。だからまぁ、いいのだ。しかしこの先、どうなるのかなぁ。なんとかお金を手に入れなきゃいけないのだが、お金を稼ぐというのはとても難しいものだと実感する。UK STUDIOさんが「プログラマという職業は「ふつう」の人には厳しくないか」と書かれていたが、お金を手に入れるのは「ふつう」の自分には厳しいのかもしれない。いや、自分が普通以下の可能性も高いか。
普通以下という話でいえば、ぼく自身がSchemeやHaskellの分野でとくに優れた業績を出せていないというのも厳しい話だ。それらの言語が好きだと言ってもたんなる下手の横好きで、extremeなプロダクトを開発するなんてところには全然手が届かない。まぁなんとか新規性のあるものを作りたいと思っているが、「新規性があるかどうか」を把握すること自体が難しい。ソフトウェア開発には研究的な要素があり、そういう非労働集約的なR&Dがしたいと思ったらそれはそれなりのコストセンターというかビジネスエンジンが必要だ。逆に労働集約的なビジネスならそういったビジネスにも、それなりのビジネスエンジンが必要である。そしてぼくは、そのどちらにも引っかからない中途半端に位置にいるのではないか、とか。
いったい自分には何ができるのか? 以前テレビで『人生が変わる1分間の深イイ話』で、奈良で刀鍛冶をしているという人間国宝の人の意見が紹介されていた。「一生をかけるに足る仕事の見つけ方とは?」というもので、その人はこう答えていた。「一生をかけるに足る仕事を見つけるというのは難しくて、どうすればよいのか自分にもよく分からない。でも、一生をかけるに足る師匠を見つけるのなら、できるのではないかと思う。仕事を探すのではなく、人を探してみてはどうか」と。まったく同感で、自分もそういう風に働けたらなぁ、と思う。そういう風に働きたい。でも具体的には、どうすりゃいいのかなぁ。
あれ? でもなんか、そもそも自分は、「一生をかけるに足る仕事」を探しているのではなかったかも。いまでもなんとなく、やりたい仕事、やらなければならない仕事のようなものはボンヤリと見えている気がする。でも、そこに辿り付く方法が全然想像つかないのと、「これ」という具体性を帯びていないように感じる。あと、自分にそれをする能力があるのか?という問題。それとそれと、やっぱり師匠みたいな人がいたらなぁと思うんだよなぁ。なんというか、道が欲しいというか。道が欲しいなんて贅沢なのかなぁ。まぁとにかく、なにか仕事があったらどんな仕事でもいいから声かけてください。という状況に、だんだんなりつつあります。
2010-01-28
# [技術] Haskellを詳しく知らないプログラマさんにHaskellをどう説明するか
ちょっと人と会ってHaskellについて説明する機会があって。そのときはうまく説明できなかったのだが、帰り道に「ああ言えばよかったなぁ」と後悔した。そういうことはよくあるのだが、とりあえず今日の件をここに書き下しておく。
Haskellは、ほかのプログラミング言語と比べて一段抽象的にプログラミングができますが、逆に言えば一段抽象的にしかプログラムが書けないということでもあります。ここで「一段の抽象化」と言ったのがまさに「遅延評価」です。
Haskellでは一段抽象的にプログラムを書けるので、つまりコーディングが簡潔になります。コードの可読性は高くなりますし、「Cで書くよりRubyで書くほうが簡単」なのと同じように、「Rubyで書くよりHaskellで書くほうが簡単」になります(少なくとも理論上は)。
しかし一方で、基本的にHaskellでは一段抽象的にしかプログラムが書けません。これは、Haskellのプログラム内で具体的なこと、たとえば関数の実行順序やメモリ使用量などをコントロールしたい(減らしたい)といったことが、(ほかの言語でできるようには)自由にできないことを意味します。
たとえばC言語でプログラムを書いていると、ところどころでインラインアセンブラを使いたくなることがあるかもしれません。そういうとき、もし、「このCコンパイラではインラインアセンブラが使えないんですよ」と言われたらどうでしょうか? 不便に感じるかもしれません。まぁそれはそれで仕方がないかと思うかもしれません。
Haskellにもそういうところがあります。普通の言語がアセンブラだとしたら、Haskellは「インラインアセンブラが使えないCコンパイラ」みたいなものです。Haskellは一段抽象的なため、プログラムが書きやすくなります。ですが一方で、メモリ使用量や実行効率、デバッグ方法などの面で、ちょっと手が届かないところがでてきます。
Haskellは、ほかのプログラミング言語と比べて一段抽象的にプログラミングができますが、逆に言えば一段抽象的にしかプログラムが書けないということでもあります。ここで「一段の抽象化」と言ったのがまさに「遅延評価」です。
Haskellでは一段抽象的にプログラムを書けるので、つまりコーディングが簡潔になります。コードの可読性は高くなりますし、「Cで書くよりRubyで書くほうが簡単」なのと同じように、「Rubyで書くよりHaskellで書くほうが簡単」になります(少なくとも理論上は)。
しかし一方で、基本的にHaskellでは一段抽象的にしかプログラムが書けません。これは、Haskellのプログラム内で具体的なこと、たとえば関数の実行順序やメモリ使用量などをコントロールしたい(減らしたい)といったことが、(ほかの言語でできるようには)自由にできないことを意味します。
たとえばC言語でプログラムを書いていると、ところどころでインラインアセンブラを使いたくなることがあるかもしれません。そういうとき、もし、「このCコンパイラではインラインアセンブラが使えないんですよ」と言われたらどうでしょうか? 不便に感じるかもしれません。まぁそれはそれで仕方がないかと思うかもしれません。
Haskellにもそういうところがあります。普通の言語がアセンブラだとしたら、Haskellは「インラインアセンブラが使えないCコンパイラ」みたいなものです。Haskellは一段抽象的なため、プログラムが書きやすくなります。ですが一方で、メモリ使用量や実行効率、デバッグ方法などの面で、ちょっと手が届かないところがでてきます。
2010-01-26
# 物の価値が下がり続けている
百貨店の業績不振を伝えるニュースを見たりして思ったこと。
最近、食材や服なんかを見ていると、外国産が増えたなと思う。うちの親父なんて、酢豚を初めて食べたのは社会に出てからだとかなんとか言っていたが、そう考えると、ぼくらの暮らしは戦後からずっと国際化したり物が豊富になったりしているんだろう。昔は国産がほとんどで、外国産の服も食べ物も憧れの的だった。ぼくらは海外のことを知らなかった。しかしそのバランスはどんどん一方向に傾いている。
かつては、日本という国の中に物がなかったのだ(あるいは物の多様性が低かった)。その意味で、かつての百貨店は珍しくて高級な物が買える場所として国民に受け入れられたのだろう。昔は、家族で百貨店に出かけ、ショッピングをし、レストランでお子様ランチを食べることがステータスでありレジャーだった。しかし時が過ぎ、いま百貨店は長らく不振を続けている。なぜか? それはやはり、百貨店の中に、憧れるに足る商品が少なくなってしまったからではないか。
百貨店だけではない。もはや、珍しく憧れるに足るような商品は、日本という国の中では見つけにくくなってしまった。原因の1つは物や価値観の「多様化」であるだろうが、別の側面から見ると物が「豊かになった」ことにあるのではないか。食材も服も文化製品も、もはや国境を容易に越えてやってくる。気が付けば否応なしにそこにある。それらが希少資源であった時代には、輸入して店先に並べるだけでお客の好奇心を満たすことができたが、現在ではそういう時代を過ぎ去ってしまった。
つまり日本人は、どんな物を持ってこられてもそう驚かなくなっているのではないか。価値を感じにくくなっているのではないか。そういう意味で、日本では戦後からずっと物の価値が下がり続けていて、逆に貨幣の価値が上がり続けていた、ということなのかもしれない。だとしたら、そりゃあビジネスも難しくなるはずだ。
最近、食材や服なんかを見ていると、外国産が増えたなと思う。うちの親父なんて、酢豚を初めて食べたのは社会に出てからだとかなんとか言っていたが、そう考えると、ぼくらの暮らしは戦後からずっと国際化したり物が豊富になったりしているんだろう。昔は国産がほとんどで、外国産の服も食べ物も憧れの的だった。ぼくらは海外のことを知らなかった。しかしそのバランスはどんどん一方向に傾いている。
かつては、日本という国の中に物がなかったのだ(あるいは物の多様性が低かった)。その意味で、かつての百貨店は珍しくて高級な物が買える場所として国民に受け入れられたのだろう。昔は、家族で百貨店に出かけ、ショッピングをし、レストランでお子様ランチを食べることがステータスでありレジャーだった。しかし時が過ぎ、いま百貨店は長らく不振を続けている。なぜか? それはやはり、百貨店の中に、憧れるに足る商品が少なくなってしまったからではないか。
百貨店だけではない。もはや、珍しく憧れるに足るような商品は、日本という国の中では見つけにくくなってしまった。原因の1つは物や価値観の「多様化」であるだろうが、別の側面から見ると物が「豊かになった」ことにあるのではないか。食材も服も文化製品も、もはや国境を容易に越えてやってくる。気が付けば否応なしにそこにある。それらが希少資源であった時代には、輸入して店先に並べるだけでお客の好奇心を満たすことができたが、現在ではそういう時代を過ぎ去ってしまった。
つまり日本人は、どんな物を持ってこられてもそう驚かなくなっているのではないか。価値を感じにくくなっているのではないか。そういう意味で、日本では戦後からずっと物の価値が下がり続けていて、逆に貨幣の価値が上がり続けていた、ということなのかもしれない。だとしたら、そりゃあビジネスも難しくなるはずだ。
2010-01-23
# 撤退戦
最近、人と話してるときとかに口にしている言葉:「撤退戦」。
たとえば友達の弟が、もともとは勤めている会社で技術職だったのだけど、この不景気でリストラが進められて営業職に異動になって悩んでいるというような話を聞く。転職したほうがいいんだろうか、とか。仕事がうまくこなせない、とか。
そういうときに「撤退戦」という言葉で、ちょっとアドバイスというか、思っていることを言いたくなる。それは、日本がここ20年ほど、「撤退戦」を戦っているということだ。
20年前のその前、日本は40年ほど、高度成長期などといって戦線を拡大していた。その時期には、どんな産業にあったとしても大かれ少なかれビジネスはうまくいき、平均以下の能力を持った人でも、仕事をすれば成功することも多かった。相場が上昇基調にあったからだ。その40年を知っている人(少なくともその一部)は、仕事やビジネスというものを、拡大戦線のイメージで捉えている。つまり彼らは、撤退の仕方を知らない。
だからどうしても、戦線を拡大するやり方で、この撤退戦を戦おうとしてしまう。売上が落ちてきたら、キャンペーンを打ったり、新規事業に投資したりして売上を補おうとする。売上を拡大しようとする。しかし多分、そういったやり方は、なかなかうまくいかないのではないか。
いまの時代、売上が下がるのは仕方ないと考えたほうがよいのかもしれない。無理に売り上げを大きくするのではなく、下がり続ける売上でどう利益を確保するか。どのように守るかが重要なのではないかと思う。もちろん、必要な投資はしたほうがよい。しかし、昔と比べると投資も難しくなっている。昔ならうまくいったような投資が、今では回収できなくなっている。
まぁ、投資というのはそもそも失敗しがちで、エジソンの発明のように「うまくいかない方法を100個も見つけた」というように積み重ねるものでもあるのだろうけど。ただ、なんというのかなぁ、いまは環境が厳しいので、精度を高めたり、最大限コストを抑えながら投資することが大事なんじゃないかなぁ、と。少なくとも、いままでのようなジャブジャブの投資はやめたほうがよいだろうと思う。
冒頭の、友達の弟さんの話に戻ると、そのときは、「まぁ難しいけど、いま日本が撤退戦にあることをちょっと意識してみてもいいんじゃないかな」みたいな話をした。ぼくも過去、いくつか会社を転職した。転職するときは、「この会社はもう駄目なんじゃないか」と感じたこともあった。でも、転職して数年たって振り返って見てみると、あのときの会社は案外元気にやっていたりする。社員数が順調に増えていたり、新製品を発表していたり。だから案外、会社というのは潰れないものだということを、後を歩く人には言いたい。
そしてもう1つ、技術職から営業職に異動になって難しいというような問題については、あまり悩みすぎないように、ってことかな。いまは撤退戦にあるのだから、そもそも「仕事はうまくいかない時期にあるのだ」と考えよう。悩んでいるのはあなただけじゃない。いまの時代は、みんなが「仕事がうまくいかない」と悩んでいる。うまくいかなくて普通なんだ。平均点が「前年比マイナス5%ぐらいなんだ」って。そのうえで、技術職から営業職に変わったことを、ポジティブに捉えることもできるのではないかと思う。
会社はあなたをクビにしなかったのだから。クビにする代わりに彼らは、あなたを異動させた。彼らはあなたに可能性を感じているし、なんらかの良い結果が起こる*かもしれない*と考えてそのような試みをしているのだろう。だからあなたは、そこで自分のできることを試してみればよいのではないかと思う。どうせ今は、前年比マイナス5%ぐらいの時代。良い結果を出せなくても悩みすぎずに、ちょっと視点を変えるつもりで、与えられた仕事にあたってみてはどうだろうか。
転職も悪くはないけど、転職したからといっていまの時代、新しい会社の元気が良いとは限らない。やっぱり新しい会社も、前年比マイナス5%ぐらいで苦しんでいる場合も多いだろう。だから転職も、なかなか難しい。どこにいたって、前年比5%プラスぐらいにするのは難しいのだ。だったら現状をあまり悩みすぎずに、「マイナスで当たり前だよね」ぐらいに考えたほうがいい。やがてときがくれば、流れも変わる。そのときまで、いろいろ勉強して力を貯めるとか、長期的に考えて自分がやるべきだと思うことに力を入れるとか、すればよいのではないかと思うのだ。
たとえば友達の弟が、もともとは勤めている会社で技術職だったのだけど、この不景気でリストラが進められて営業職に異動になって悩んでいるというような話を聞く。転職したほうがいいんだろうか、とか。仕事がうまくこなせない、とか。
そういうときに「撤退戦」という言葉で、ちょっとアドバイスというか、思っていることを言いたくなる。それは、日本がここ20年ほど、「撤退戦」を戦っているということだ。
20年前のその前、日本は40年ほど、高度成長期などといって戦線を拡大していた。その時期には、どんな産業にあったとしても大かれ少なかれビジネスはうまくいき、平均以下の能力を持った人でも、仕事をすれば成功することも多かった。相場が上昇基調にあったからだ。その40年を知っている人(少なくともその一部)は、仕事やビジネスというものを、拡大戦線のイメージで捉えている。つまり彼らは、撤退の仕方を知らない。
だからどうしても、戦線を拡大するやり方で、この撤退戦を戦おうとしてしまう。売上が落ちてきたら、キャンペーンを打ったり、新規事業に投資したりして売上を補おうとする。売上を拡大しようとする。しかし多分、そういったやり方は、なかなかうまくいかないのではないか。
いまの時代、売上が下がるのは仕方ないと考えたほうがよいのかもしれない。無理に売り上げを大きくするのではなく、下がり続ける売上でどう利益を確保するか。どのように守るかが重要なのではないかと思う。もちろん、必要な投資はしたほうがよい。しかし、昔と比べると投資も難しくなっている。昔ならうまくいったような投資が、今では回収できなくなっている。
まぁ、投資というのはそもそも失敗しがちで、エジソンの発明のように「うまくいかない方法を100個も見つけた」というように積み重ねるものでもあるのだろうけど。ただ、なんというのかなぁ、いまは環境が厳しいので、精度を高めたり、最大限コストを抑えながら投資することが大事なんじゃないかなぁ、と。少なくとも、いままでのようなジャブジャブの投資はやめたほうがよいだろうと思う。
冒頭の、友達の弟さんの話に戻ると、そのときは、「まぁ難しいけど、いま日本が撤退戦にあることをちょっと意識してみてもいいんじゃないかな」みたいな話をした。ぼくも過去、いくつか会社を転職した。転職するときは、「この会社はもう駄目なんじゃないか」と感じたこともあった。でも、転職して数年たって振り返って見てみると、あのときの会社は案外元気にやっていたりする。社員数が順調に増えていたり、新製品を発表していたり。だから案外、会社というのは潰れないものだということを、後を歩く人には言いたい。
そしてもう1つ、技術職から営業職に異動になって難しいというような問題については、あまり悩みすぎないように、ってことかな。いまは撤退戦にあるのだから、そもそも「仕事はうまくいかない時期にあるのだ」と考えよう。悩んでいるのはあなただけじゃない。いまの時代は、みんなが「仕事がうまくいかない」と悩んでいる。うまくいかなくて普通なんだ。平均点が「前年比マイナス5%ぐらいなんだ」って。そのうえで、技術職から営業職に変わったことを、ポジティブに捉えることもできるのではないかと思う。
会社はあなたをクビにしなかったのだから。クビにする代わりに彼らは、あなたを異動させた。彼らはあなたに可能性を感じているし、なんらかの良い結果が起こる*かもしれない*と考えてそのような試みをしているのだろう。だからあなたは、そこで自分のできることを試してみればよいのではないかと思う。どうせ今は、前年比マイナス5%ぐらいの時代。良い結果を出せなくても悩みすぎずに、ちょっと視点を変えるつもりで、与えられた仕事にあたってみてはどうだろうか。
転職も悪くはないけど、転職したからといっていまの時代、新しい会社の元気が良いとは限らない。やっぱり新しい会社も、前年比マイナス5%ぐらいで苦しんでいる場合も多いだろう。だから転職も、なかなか難しい。どこにいたって、前年比5%プラスぐらいにするのは難しいのだ。だったら現状をあまり悩みすぎずに、「マイナスで当たり前だよね」ぐらいに考えたほうがいい。やがてときがくれば、流れも変わる。そのときまで、いろいろ勉強して力を貯めるとか、長期的に考えて自分がやるべきだと思うことに力を入れるとか、すればよいのではないかと思うのだ。
2010-01-21
# 『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』
いまNHKでやっている、『クローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」』。なんかちょっと、論者のピントが外れている気がするなぁ。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
--
あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。
「助けて」。この言葉が言えず、孤独死した30代の男性を去年10月にクローズアップ現代で取材し、放送した。番組では、生活に困窮し、命に危険を及ぼしかねない状況になっても助けを求めない30代の姿を取材。彼らは、こうした状況になったのは、自己責任だと自らを責め、「助けて」の言葉を拒み続けていた。この放送直後、インターネット上のブログでは書き込みが急増。わずか3日で2000件を超えた。その多くが30代で、驚くことに孤独死は他人事ではないと共感するものがほとんどだ。なかでも30代の女性に、共鳴する声が瞬く間に広がった。一体、いま30代に何が起きているのか?番組では、ブログの声から、静かに広がる「助け」を求められない30代の実像を継続取材した。
30代は、人の役に立ちたいんだよ。助けてもらいたいんじゃない。「助けてあげたい」んだ。
「自分は役に立つ人間だ」って、認めてもらいたいし、自分でそうありたい。あらなければならないと思っている。
だから親に助けを求めない。社会に助けを求めない。そもそも社会は助けてくれないし。生活保護にしても、各種控除にしても、法律を知っていて申請を行う人間にしか支給されない。現状の政府というものは、無学で無知な大衆を救うためのシステムではない。悪く言うならば、強欲な人間を救うシステムか、もしくは本当に本当に困っている人たちを救うためのシステムであって、*普通の健康な、ちゃんとした大人の男*、もしくは*大人の女*、*大人の人間*である自分を救うためのシステムではない。
それは、自己責任論みたいな最近(ここ20年とか)が原因の話ではないと思う。「助けてあげる」と言ってくる人間に、「助けてください」などと返事できるわけがないのだ。そのような社会システムは構築されていない。はっきりいって、「助けてあげる」なんて言葉は、「饅頭怖い」という言葉と同義だ。日本人ならほとんどの人は、「饅頭怖い」という話を知っているだろう。日本という社会は「饅頭怖い」を前提としている。「助けてほしいと言ってごらん?」という言葉に対して、「助けてほしい」と返事する日本人はいない。
また、思うのは、「助けてと言え」と言うことの傲慢さみたいなものだ。本人には悪気はないのだろうし、そういう言葉を口にする人は、実際に悪い人ではないだろう。でも「助けてと言え」とか、「助けてあげる」とか言わないでほしい。「助けてあげる」と言うんじゃなくて、「助けて」と言ってほしい。どうしてあなたは、30代を助けたいのか? 「助けて*あげる*」という気持がどこかにあるんじゃないのか? 自問してほしい。そうしたらきっと、「助けてあげる」ではなくて、「こちらこそ、実は助けてほしいんだ、困ってるんだ」と切り出せるんじゃないかと思う。
「助けてほしいんだ、困ってるんだ、君の力が借りたいんだ」そういう言葉をかけられたなら、30代は心を開き、あなたをきっと助けてくれるのではないか。そんな風に思うのだ。
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あと解決策。たぶん寄付はうまくいかないんじゃないかという気がする。ないよりあったほうがよいだろうけど、マスの隅に届くぐらいになるほどではないというか。ぼくが考える解決案は、1段階として彼らが自ら助けあえるコミュニティ作りだ。一人8万円前後の生活保護を分け合って、シェアホームをする。ギークハウスの一般版というか。そうすると、一人ひとりのお金では足りなかった「住」の部分が満たせるし、それが「社会的信用」の担保の一部となる。
そしてきっと、シェアホームには社会に対するレゾンデートル(存在理由)が必要だ。ただたくさんの30代が集まって、生活保護を受ける人間ばかりウダウダするのでは社会に受け容れられない。そうなったとき、1つの方向性としては農業や軽工業で自活する都市国家のようなコミュニティがあり得るだろう。しかしこれは、宗教的組織になってしまいがちだろうし、地域社会はこのような宗教都市が身近で増大していくことを受け容れられない可能性も高い。また、なにより30代の彼ら自身が、「宗教的な施設に世話になっているみたいな自分」を受け容れにくいだろう。
その意味では本当は、シェアホームの次の段階として、彼らは社会にはばたっていけることが理想だ。彼らが、普通の社会の一員としてやっていけることが必要だ。しかし実は、これが難しい。現在、日本経済は縮退している。だから彼らのための席は、それほど余っていない。シェアホームの次の段階に進むのが難しい。現実的には、シェアホームのような生活が善であるような社会になっていくことだ。シェアホームが社会起業であり、そのエコシステムが地域の一部を担うような、それが一般企業として成り立つような、そういう変革が必要になっていくのではないか。