メッセージ。 - diary
2009-06-01
# 仕事とは何か?
以前、はてなの近藤さんがシリコンバレーに進出した。あるいはインフォテリアの江島さんがシリコンバレーでLingrを立ち上げたりした。そもそもベンチャー的な試みは、日本国内にせよ海外にせよ、成功するのがかなり難しいと思うけれども。ただそういった難しさとは別に、彼らのような日本人が、シリコンバレーに行って成功することそのものにも、ある種の難しさがあると思っている。その難しさは、「仕事とは何か?」という問題と密接につながっている。
はてなはそもそも、社長の近藤さんが「ネットのことは全然分からない自分の父親のために、ユーザーどうしが質問と回答でコミュニケーションできるサービスを作りたい」という発想から始まったのだという。その試みは「人力検索はてな」というサービスとして結実し、現在も動いている。「人力検索はてな」自体、それほど成功しているとは感じないけれども、でも最初にそれを作ろうと思った発想自体は、「成功」にとって重要な要素だろうと思う。
どのような商品を作るときもそうだけれども、ものを作って売るということは、「こんな人の生活をあんな風に良くしたい」というビジョンがなければならない。ウォークマンは、「外出しているときも好きな音楽を聞きたい人のために、自由に聞けるような小さなプレイヤーを開発する」というビジョンから開発、商品化された。稲を育てる人は、それを精米し、炊いて食べる人たちのことを考えて田を耕している。
どのような商品もサービスも、誰かの、何かの、役に立つために提供される。そういった「ビジョン」にブレのない商品は、高く評価される傾向にある。たとえばiPodは音楽好きな人たちに「一段上の楽しさ」を提供したし、任天堂のファミコンは、コンピュータという新しくて偉大な発明品を子供たちの身近に届け、「コンピュータで遊ぶ楽しさ」を提供した。トヨタの自動車の評価が高いのには、「それほどメンテナンスしなくても故障せずしっかり走ってくれる」という基本性能の高さが少なからぬ要因だと考えられる。
商品やサービスが開発され提供されるとき、それがビジネスとして成功するための1つの要因が、「誰のどんな役に立つか」というビジョンだと言えるだろう。そしてこの法則が適用されるのは、企業だけに限らない。一個人にとっての仕事というものも、「誰のどんな役に立つか」が考えられているとき、成功に一歩近づけるのだと、ぼくは考えている。ゲームクリエイターは、そのゲームが誰の生活をどんな風に変えるか考えたときに、良いゲームを作るヒントになるだろうし、米農家は「誰がどんな風にしてそれを食べるのか」を考えるからこそ、「強すぎる農薬は使いすぎないほうがいい」と考えられる。
このような法則は、消費者の側から見たときの「そうであるべき」都合だけれども、また同時に生産者にとっても、仕事というのは「そうであるべき」都合と考えていいのではないかと、ぼくは思う。つまり、ゲームクリエイターはユーザーが自分の作ったゲームを楽しんでくれるほうが嬉しいし、米農家は自分の作った米を誰かが食べて健康に暮らしてくれるほうが嬉しいと感じるはずだ。生産者にとっても、消費者にとっても、商品やサービスというものは、「誰かの何かの役に立っているか」を考えて提供されていることが「良い」ということだ。
少なくともぼく自身にとっては、仕事というのは「誰かの何かの役に立っているか」を考えずには行えない。誰にも何にも役に立っていない仕事なんてものは、ぼくには堪えられない。そんなのは時間の無駄であり、人生の無駄だと思ってしまうからだ。こういう風に感じるのは、ぼくだけなんだろうか? よく分からない。でも、ぼくと同じように感じる人だって、たくさんいるはずだと思っている。いや、もっと言ってしまえば、人間は基本的に、そういう風に感じる傾向があるのだと考えたい。そう考える。
そう考えるぼくは、近藤さんによるはてなのサービスや、江島さんのLingrがシリコンバレーで開発・提供されると聞いたときに、それが成功する要因という意味で、一歩不利な立場にあるのではないかと感じていた。つまり、彼らがシリコンバレーで何かを作ったとして、そこには一体、「誰のどんな役に立つ」というビジョンがあるのだろうか。いやもちろん、彼らの作るものにビジョンがないなんて言うつもりはない。でもたとえば、近藤さんはシリコンバレーでサービスを作ったとして、「これ使ってみてよ」と、誰に向かって言うんだろうか。胸を張って、「これが貴方や、貴方のお母さんや、あなたの子供たちの生活をきっと変えますよ」と言えるだろうか。
それはちょっと難しいんじゃないかと、ぼくは思う(不可能と言ってるわけじゃない)。はてなの近藤さんにとって、人力検索を開発・提供する動機が彼の「お父さんにインターネットの素晴らしさを感じさせてあげたい」という気持ちであったように、同じような気持ちを、英語圏の人たちに対して持てるだろうか。シリコンバレーや英語圏に生活している人たちが、どんな風に日々を過ごし、どんなことに困り、自分は彼らの未来に対してどんな風に貢献できるか、貢献したいかをイメージし、彼らのために身を捧げることができるだろうか?
もしぼくだったら、難しい気がするんだよね。アメリカやインドやアフリカやいろんな国。そういった国にいる人たちに対して、ぼくは「こんなことをしてあげたい、してあげられる」という具体的イメージを、うまく持つことができない。もっと範囲を絞ってシリコンバレーにぼくが行ったとしても、彼の地やその周辺にいる人たちに「こんなことをしてあげたい、こんなことをしてあげたらきっと彼らの生活が良くなるぞ」と思えるようなことを、ぼく自身がうまくイメージできないし、できる能力があるという自信も、なかなか持つのは難しい。それは、彼らの生活を実際のところ知らなかったり、向こうに友達や家族がいないことに起因する(あと、自分の能力やそれが本当に役立つか)。
要するに、シリコンバレーに行って仕事をするというのは、シリコンバレーに友達や家族や隣人を持つということだ。そして仕事というのは究極的に、友達や家族や隣人のために身を捧げ、彼らとともに生きるというということだ。だからぼくは、シリコンバレーで仕事をするというのは、不可能ではないけれども、1年や2年ぐらいで成功するのはけっこう難しいんじゃないかと思う。1年ぐらいでは、友達や家族や隣人を(深いレベルで)作ることが難しいから。いま住んでいる場所(日本)を捨てるぐらいの覚悟が必要なんじゃないかな。
はてなはそもそも、社長の近藤さんが「ネットのことは全然分からない自分の父親のために、ユーザーどうしが質問と回答でコミュニケーションできるサービスを作りたい」という発想から始まったのだという。その試みは「人力検索はてな」というサービスとして結実し、現在も動いている。「人力検索はてな」自体、それほど成功しているとは感じないけれども、でも最初にそれを作ろうと思った発想自体は、「成功」にとって重要な要素だろうと思う。
どのような商品を作るときもそうだけれども、ものを作って売るということは、「こんな人の生活をあんな風に良くしたい」というビジョンがなければならない。ウォークマンは、「外出しているときも好きな音楽を聞きたい人のために、自由に聞けるような小さなプレイヤーを開発する」というビジョンから開発、商品化された。稲を育てる人は、それを精米し、炊いて食べる人たちのことを考えて田を耕している。
どのような商品もサービスも、誰かの、何かの、役に立つために提供される。そういった「ビジョン」にブレのない商品は、高く評価される傾向にある。たとえばiPodは音楽好きな人たちに「一段上の楽しさ」を提供したし、任天堂のファミコンは、コンピュータという新しくて偉大な発明品を子供たちの身近に届け、「コンピュータで遊ぶ楽しさ」を提供した。トヨタの自動車の評価が高いのには、「それほどメンテナンスしなくても故障せずしっかり走ってくれる」という基本性能の高さが少なからぬ要因だと考えられる。
商品やサービスが開発され提供されるとき、それがビジネスとして成功するための1つの要因が、「誰のどんな役に立つか」というビジョンだと言えるだろう。そしてこの法則が適用されるのは、企業だけに限らない。一個人にとっての仕事というものも、「誰のどんな役に立つか」が考えられているとき、成功に一歩近づけるのだと、ぼくは考えている。ゲームクリエイターは、そのゲームが誰の生活をどんな風に変えるか考えたときに、良いゲームを作るヒントになるだろうし、米農家は「誰がどんな風にしてそれを食べるのか」を考えるからこそ、「強すぎる農薬は使いすぎないほうがいい」と考えられる。
このような法則は、消費者の側から見たときの「そうであるべき」都合だけれども、また同時に生産者にとっても、仕事というのは「そうであるべき」都合と考えていいのではないかと、ぼくは思う。つまり、ゲームクリエイターはユーザーが自分の作ったゲームを楽しんでくれるほうが嬉しいし、米農家は自分の作った米を誰かが食べて健康に暮らしてくれるほうが嬉しいと感じるはずだ。生産者にとっても、消費者にとっても、商品やサービスというものは、「誰かの何かの役に立っているか」を考えて提供されていることが「良い」ということだ。
少なくともぼく自身にとっては、仕事というのは「誰かの何かの役に立っているか」を考えずには行えない。誰にも何にも役に立っていない仕事なんてものは、ぼくには堪えられない。そんなのは時間の無駄であり、人生の無駄だと思ってしまうからだ。こういう風に感じるのは、ぼくだけなんだろうか? よく分からない。でも、ぼくと同じように感じる人だって、たくさんいるはずだと思っている。いや、もっと言ってしまえば、人間は基本的に、そういう風に感じる傾向があるのだと考えたい。そう考える。
そう考えるぼくは、近藤さんによるはてなのサービスや、江島さんのLingrがシリコンバレーで開発・提供されると聞いたときに、それが成功する要因という意味で、一歩不利な立場にあるのではないかと感じていた。つまり、彼らがシリコンバレーで何かを作ったとして、そこには一体、「誰のどんな役に立つ」というビジョンがあるのだろうか。いやもちろん、彼らの作るものにビジョンがないなんて言うつもりはない。でもたとえば、近藤さんはシリコンバレーでサービスを作ったとして、「これ使ってみてよ」と、誰に向かって言うんだろうか。胸を張って、「これが貴方や、貴方のお母さんや、あなたの子供たちの生活をきっと変えますよ」と言えるだろうか。
それはちょっと難しいんじゃないかと、ぼくは思う(不可能と言ってるわけじゃない)。はてなの近藤さんにとって、人力検索を開発・提供する動機が彼の「お父さんにインターネットの素晴らしさを感じさせてあげたい」という気持ちであったように、同じような気持ちを、英語圏の人たちに対して持てるだろうか。シリコンバレーや英語圏に生活している人たちが、どんな風に日々を過ごし、どんなことに困り、自分は彼らの未来に対してどんな風に貢献できるか、貢献したいかをイメージし、彼らのために身を捧げることができるだろうか?
もしぼくだったら、難しい気がするんだよね。アメリカやインドやアフリカやいろんな国。そういった国にいる人たちに対して、ぼくは「こんなことをしてあげたい、してあげられる」という具体的イメージを、うまく持つことができない。もっと範囲を絞ってシリコンバレーにぼくが行ったとしても、彼の地やその周辺にいる人たちに「こんなことをしてあげたい、こんなことをしてあげたらきっと彼らの生活が良くなるぞ」と思えるようなことを、ぼく自身がうまくイメージできないし、できる能力があるという自信も、なかなか持つのは難しい。それは、彼らの生活を実際のところ知らなかったり、向こうに友達や家族がいないことに起因する(あと、自分の能力やそれが本当に役立つか)。
要するに、シリコンバレーに行って仕事をするというのは、シリコンバレーに友達や家族や隣人を持つということだ。そして仕事というのは究極的に、友達や家族や隣人のために身を捧げ、彼らとともに生きるというということだ。だからぼくは、シリコンバレーで仕事をするというのは、不可能ではないけれども、1年や2年ぐらいで成功するのはけっこう難しいんじゃないかと思う。1年ぐらいでは、友達や家族や隣人を(深いレベルで)作ることが難しいから。いま住んでいる場所(日本)を捨てるぐらいの覚悟が必要なんじゃないかな。
2009-05-25
# 性教育と差別についてちょっとメモ
性教育と差別についていくつか読んだ。それでなんとなく思うところがあるのだけど、他にもやることのスタックが溜まっているので、掃き出すためにちょっとメモ。全然まとまらないが。
たしかに、この指摘についてはぼくも同意できる。ただ、それだけでも十分じゃなくね?とも思う。
たとえばぼく自身、この手の問題について最初に興味を持ったのは「昆虫図鑑」だった。子供のころ、昆虫が好きでよく図鑑を見ていたのだけど、最初はカラーページにある綺麗な昆虫の写真ばかり見ていたのが、だんだんのめり込んでいって後ろのほうのモノクロページにある、昆虫の生態等を紹介したページが面白くなっていったからだ。
そこには当然性交についても説明があって、ぼくはそこを読むことによって大きな知的満足を得たのを覚えている。「ああ、そうなっているのか。生物というのは、そのように『生きて』いるのか」とでもいうような感じ。人間も動物の1つであって、多かれ少なかれ、人間もそのように「生きて」いるのだろうなぁと、ぼくはボンヤリと理解した。
たぶん、小学校低学年ぐらいのときのことだ。「いやらしい」とは感じなかったし、性的な興味があったというわけでもなかった。ただ、あのころのぼくには隠されていた世界、大人たちが隠していて見せてくれない、彼らがうまく説明できない世界について、そこに書かれてあるということが分かったし、図鑑の説明は簡潔にして的確で、昆虫好きの少年を高揚させる力を持っていた。世界について理解することの喜びがあった。
他の人が、昆虫の図鑑のようなものに興味を示すのかは、よく分からない。ただ、もしぼくが性についての教育カリキュラムを考えるのだったら、他の動物や昆虫が、どのように暮らし生きているのかを教えたいなと思う。たとえば女王を中心に巣で生活をする蟻たち。一匹の雄がボスとなってハーレムを形成する猿たち。性交のあと興奮して(タンパク質を補うためという説もある)オスを食べてしまうこともあるカマキリのメス。たくさんの卵から生まれるが、そのほとんどが大人になる前に食べられてしまう、海亀の子供たち。
そういった生き物たちの生態や「社会」を知ってもらい、一方で人間というものがどのような生態と「社会」を持っているのか、今後築くのがよいのかを考えてもらうことが、性教育の一部として重要な価値があると思うからだ。もちろんその中には、「快楽、喜びとしての性」や女性差別も含まれる。人間の性交には(一般的に)快楽があること、なぜ快楽があるのか、子供を生み育てるということの意味、そして差別という名の「社会と個」の問題も当然含まれる。
猿のハーレムに差別はないのか、当の猿たちはどう思っているだろうか。カマキリは、ライオンは、海亀は、そして地球上に散らばっている多くの人間の部族と彼らの習慣。歴史上の出来事。いろんな人がいること。人にはそれぞれ違いがあり、攻撃的な人もいれば温和な人もいる。痛みを強く感じる人もいれば、短命な人もいる。悩みをかかえる人、病気と闘う人、生まれたばかりの人、死にゆく人、戦地にいる人、お金持ちの人。王様もいれば奴隷として生まれてしまった人もいる。病気になれば王様だって苦しいし、死は免れない。命は平等だ。
そういうことについて話さないと、性教育にはならないんじゃないかなぁ。違うのかなぁ。確かに、こういう話に興味のない子供や大人も、たくさんいるだろう。ぼくは教育論については素人なのでよく分からないけど、できるだけ多くの子供や大人が興味を持てるよう、できれば多様なカリキュラムを用意したほうがよいだろうとおもう。でもいずれにせよ、上記のようなカリキュラムも、あってもよいのじゃないかという気がする。
一方で従来の性教育というのは、どんな感じなんだろうか。現場のことは知らないでまったく想像で書くけれども、どうも上記のような視点はあまりないんじゃないか。キリスト教をベースとする欧米の教育方法論では、人間を「動物の延長」として説明することを、あまり望まないのではないかと考える。彼らにとっての教育とは、(動物とは違い、神の子である存在としての)「人間」を育てるという視点が大きいのではないか。
フェミニズムや差別についての議論を見ていると、どうもそこに超人主義的というか、「正しい人間のあり方」とでもいうものが存在しているかのような「感覚」があるような感じがする。「未熟で動物的な存在を、教育によって人間にするのだ」というか。たとえば「ポルノ(姦淫)は悪である」とか。一方で、日本人の性は江戸時代にけっこう大らかだったという話があるように、「性欲や淫欲は必ずしも悪いものじゃない」という考え方だってありうるはずだ。
だって、性欲なんて、食欲とどう違うのか。どうして一方は隠さなければならなくて、もう一方は大っぴらにしてよいのか。「性欲は汚くて恥ずかしくて人に見せられないものだ」と言う人がいるかもしれないが、食欲だってそうだとぼくは思う。他者の命を奪ってわがものとする行為が、そうそう褒められたことだろうか? 肉や魚や野菜、あれらは生き物の死体だ。生き物を殺し、その死体を貪ってわれわれは生きている。そのような行為が恥ずかしくないと言いきれるだろうか。言いきれるとすればなぜだろうか。
あれ? 脱線したぞ。なんの話だっけ。ああ、そうそう性教育だ。なんだろうなぁ。たとえば江戸時代に長屋住みだった人たちは、どのように性行為をしていたのだろう。一間しかなくて、子供と夫婦と川の字で寝ていた人たちは、子供にどうしても性行為を見られないよう、努力していたのだろうか。努力していたとしたら、なぜなのか。そのへんがよく分からない。もう別に、子供に見られてもいいじゃないかとか。子供に見せて、いったいどんな問題があるのだろうか。それは文字通り「夫婦の営み」であって、もっと言えば「家族の営み」でもあるんじゃないのか。
複雑化し高度化した現代社会において、あるいは文明が発達し公共地(コモンズ)が広くなった現代社会において、教育もまた(家ではなく)学校という場に多くを委ねられるようになったというのは合理的だと理解できるし、反論もない。学校というものが、社会で生活するために必要なルールや基礎知識を教えられるべき場所だということも賛成する。その意味で、教育カリキュラムに「家庭科」が存在することも理解できるし、「性教育」も必要だろう(蛇足だが、「法律」や「政治」、「福祉」、「社会保障」、「金融」とかも必要だとおもう)。
ただ…、放っといても人間が「ものを食べることを忘れない」、「食べ方が分からなくなったりしない」ように、性行為についても、そうそう間違った方向に行かないんじゃないかなぁ、行くのかなぁ。まぁ、食事と違って性行為は他人に迷惑や危害が加わる可能性があるから、なんらかの禁止や抑止が必要ではあるか。ただ、「これが正しいやり方ですよ」って教えたところで、悪いことするやつはするというか。
そういう意味では、「人格の矯正みたいなのを教育に含めるか」という問題が、東西の違いとしてそもそもあるような気がする。西洋的キリスト教的な教育観では、「人格の矯正」を教育に含めているんじゃないかなぁ。「そもそも人間でないものを人間に育てる」というような。一方で東洋的な感覚では、「人間の性や業は変えられない」、「変えられないけれども、うまく折合いを付けることはできる」というか。よく分からん。間違ってるような感じもするけど。まーメモだしね。なんかそんなようなことを考えた。
村瀬の問題定義で同意できるのは、そもそもポルノに代わる「性教育」がなされていないということ。現在学校でおこなわれているのは「性器教育」や「生殖教育」であり、「快楽、喜びとしての性」や女性差別を問う視点が存在しない、と村瀬は指摘している。
たしかに、この指摘についてはぼくも同意できる。ただ、それだけでも十分じゃなくね?とも思う。
たとえばぼく自身、この手の問題について最初に興味を持ったのは「昆虫図鑑」だった。子供のころ、昆虫が好きでよく図鑑を見ていたのだけど、最初はカラーページにある綺麗な昆虫の写真ばかり見ていたのが、だんだんのめり込んでいって後ろのほうのモノクロページにある、昆虫の生態等を紹介したページが面白くなっていったからだ。
そこには当然性交についても説明があって、ぼくはそこを読むことによって大きな知的満足を得たのを覚えている。「ああ、そうなっているのか。生物というのは、そのように『生きて』いるのか」とでもいうような感じ。人間も動物の1つであって、多かれ少なかれ、人間もそのように「生きて」いるのだろうなぁと、ぼくはボンヤリと理解した。
たぶん、小学校低学年ぐらいのときのことだ。「いやらしい」とは感じなかったし、性的な興味があったというわけでもなかった。ただ、あのころのぼくには隠されていた世界、大人たちが隠していて見せてくれない、彼らがうまく説明できない世界について、そこに書かれてあるということが分かったし、図鑑の説明は簡潔にして的確で、昆虫好きの少年を高揚させる力を持っていた。世界について理解することの喜びがあった。
他の人が、昆虫の図鑑のようなものに興味を示すのかは、よく分からない。ただ、もしぼくが性についての教育カリキュラムを考えるのだったら、他の動物や昆虫が、どのように暮らし生きているのかを教えたいなと思う。たとえば女王を中心に巣で生活をする蟻たち。一匹の雄がボスとなってハーレムを形成する猿たち。性交のあと興奮して(タンパク質を補うためという説もある)オスを食べてしまうこともあるカマキリのメス。たくさんの卵から生まれるが、そのほとんどが大人になる前に食べられてしまう、海亀の子供たち。
そういった生き物たちの生態や「社会」を知ってもらい、一方で人間というものがどのような生態と「社会」を持っているのか、今後築くのがよいのかを考えてもらうことが、性教育の一部として重要な価値があると思うからだ。もちろんその中には、「快楽、喜びとしての性」や女性差別も含まれる。人間の性交には(一般的に)快楽があること、なぜ快楽があるのか、子供を生み育てるということの意味、そして差別という名の「社会と個」の問題も当然含まれる。
猿のハーレムに差別はないのか、当の猿たちはどう思っているだろうか。カマキリは、ライオンは、海亀は、そして地球上に散らばっている多くの人間の部族と彼らの習慣。歴史上の出来事。いろんな人がいること。人にはそれぞれ違いがあり、攻撃的な人もいれば温和な人もいる。痛みを強く感じる人もいれば、短命な人もいる。悩みをかかえる人、病気と闘う人、生まれたばかりの人、死にゆく人、戦地にいる人、お金持ちの人。王様もいれば奴隷として生まれてしまった人もいる。病気になれば王様だって苦しいし、死は免れない。命は平等だ。
そういうことについて話さないと、性教育にはならないんじゃないかなぁ。違うのかなぁ。確かに、こういう話に興味のない子供や大人も、たくさんいるだろう。ぼくは教育論については素人なのでよく分からないけど、できるだけ多くの子供や大人が興味を持てるよう、できれば多様なカリキュラムを用意したほうがよいだろうとおもう。でもいずれにせよ、上記のようなカリキュラムも、あってもよいのじゃないかという気がする。
一方で従来の性教育というのは、どんな感じなんだろうか。現場のことは知らないでまったく想像で書くけれども、どうも上記のような視点はあまりないんじゃないか。キリスト教をベースとする欧米の教育方法論では、人間を「動物の延長」として説明することを、あまり望まないのではないかと考える。彼らにとっての教育とは、(動物とは違い、神の子である存在としての)「人間」を育てるという視点が大きいのではないか。
フェミニズムや差別についての議論を見ていると、どうもそこに超人主義的というか、「正しい人間のあり方」とでもいうものが存在しているかのような「感覚」があるような感じがする。「未熟で動物的な存在を、教育によって人間にするのだ」というか。たとえば「ポルノ(姦淫)は悪である」とか。一方で、日本人の性は江戸時代にけっこう大らかだったという話があるように、「性欲や淫欲は必ずしも悪いものじゃない」という考え方だってありうるはずだ。
だって、性欲なんて、食欲とどう違うのか。どうして一方は隠さなければならなくて、もう一方は大っぴらにしてよいのか。「性欲は汚くて恥ずかしくて人に見せられないものだ」と言う人がいるかもしれないが、食欲だってそうだとぼくは思う。他者の命を奪ってわがものとする行為が、そうそう褒められたことだろうか? 肉や魚や野菜、あれらは生き物の死体だ。生き物を殺し、その死体を貪ってわれわれは生きている。そのような行為が恥ずかしくないと言いきれるだろうか。言いきれるとすればなぜだろうか。
あれ? 脱線したぞ。なんの話だっけ。ああ、そうそう性教育だ。なんだろうなぁ。たとえば江戸時代に長屋住みだった人たちは、どのように性行為をしていたのだろう。一間しかなくて、子供と夫婦と川の字で寝ていた人たちは、子供にどうしても性行為を見られないよう、努力していたのだろうか。努力していたとしたら、なぜなのか。そのへんがよく分からない。もう別に、子供に見られてもいいじゃないかとか。子供に見せて、いったいどんな問題があるのだろうか。それは文字通り「夫婦の営み」であって、もっと言えば「家族の営み」でもあるんじゃないのか。
複雑化し高度化した現代社会において、あるいは文明が発達し公共地(コモンズ)が広くなった現代社会において、教育もまた(家ではなく)学校という場に多くを委ねられるようになったというのは合理的だと理解できるし、反論もない。学校というものが、社会で生活するために必要なルールや基礎知識を教えられるべき場所だということも賛成する。その意味で、教育カリキュラムに「家庭科」が存在することも理解できるし、「性教育」も必要だろう(蛇足だが、「法律」や「政治」、「福祉」、「社会保障」、「金融」とかも必要だとおもう)。
ただ…、放っといても人間が「ものを食べることを忘れない」、「食べ方が分からなくなったりしない」ように、性行為についても、そうそう間違った方向に行かないんじゃないかなぁ、行くのかなぁ。まぁ、食事と違って性行為は他人に迷惑や危害が加わる可能性があるから、なんらかの禁止や抑止が必要ではあるか。ただ、「これが正しいやり方ですよ」って教えたところで、悪いことするやつはするというか。
そういう意味では、「人格の矯正みたいなのを教育に含めるか」という問題が、東西の違いとしてそもそもあるような気がする。西洋的キリスト教的な教育観では、「人格の矯正」を教育に含めているんじゃないかなぁ。「そもそも人間でないものを人間に育てる」というような。一方で東洋的な感覚では、「人間の性や業は変えられない」、「変えられないけれども、うまく折合いを付けることはできる」というか。よく分からん。間違ってるような感じもするけど。まーメモだしね。なんかそんなようなことを考えた。
2009-05-19
# 言語によるコミュニケーション
最近なんとなく、はてなブックマークを読んでいて感じたことをメモ。
ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。
性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。
同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。
一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。
日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。
別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。
それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。
だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。
「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。
http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。
話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。
話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。
要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。
そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。
まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。
性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。
同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。
一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。
日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。
別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。
それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。
だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。
「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。
http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
やっぱり日本の場合は契約型に移行するよりも、信頼型のシステムを取り戻すための努力をしたほうが幸せになれる気がするなぁ。もちろんそれが難しいから問題なんだけれども。まずは信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること。宗教としてはもうそれはありえないから、哲学ということになるんだろうね。
「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。
話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。
話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。
要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。
そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。
まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
2009-05-16
# 男の子牧場がいいとおもうわけ
http://d.hatena.ne.jp/a666666/20090515/1242316931
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
--
さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
やー、面白いとおもうよ。企画を通したCAはいいセンスと度胸してる。男なんて昔からこういう扱いされてる。それに、牧場に登録される価値がないおいらには雲の上の話。女性版ポルノじゃね?全否定はやりすぎかと。
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さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
2009-05-08
# NHK「日本の、これから 独身者急増!“未婚社会”」を見た(途中まで)
昨日、NHKの番組で「日本の、これから 独身者急増!“未婚社会”」という番組を見た。録画しながら見ていて途中までしか見ていないのだけど、ちょっと気になったことがあるのでメモ。気になったのは、「草食系男子」という言葉で、未婚を説明しようとしていたところ。
http://www.nhk.or.jp/korekara/
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。
「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。
ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
もちろん、「遊び」はあっていいとおもうし、社会には「遊び」がなくてはならない。それは必要悪と同等のものである。要するに人々は、遊びや必要悪と、もっとうまく付き合う必要があるのだとおもう。
さて、もう1つおもうのは、草食系といわれる人たちの一部は、男女平等に基づくリベラルな人たちなのではないかということだ。男女平等を重んじるからこそ、彼らは「これは男性がすべき仕事」で「これは女性がすべき仕事」と分けて考えない。どんな仕事も、男性ができるなら男性がやればよいし、女性ができるなら女性がやればよいと考えている。だから「デートは男性から誘うべき(女性が誘ってはいけない)」とは考えないし、「デート費用は男性が負担すべき(女性が負担してはいけない)」とは考えない。そのような先入観から解放されている。まぁ、それ以前に女性と付き合った経験がなくって、どうすればよいか分からないだけという男の人も多いだろうけど…。
ただ、番組を見てて一番おもったのは、「男性がもっと恋愛に積極的になるべき」とか「男性が家計費用を負担しなければならない」といった価値観は、男女平等やジェンダーフリーの観点からすると「アウト」だということを、どうして誰も意識したり指摘したりしないのかということだ。あれだけ人数がいて、「男女平等」を言う人がいないこと(途中まで見ていただけなので、見ていないところで言ってたのかもしれないが。あと、言う人がいたけどカットされてたのかもしれないが)に驚く。それは男尊女卑であり女尊男卑だ。
そのほかにも、経済や非正規雇用、託児所、都市と地方、社会保障、家の問題、社会と個人、義務と権利など、このへんは問題が複雑に絡まりあっている。「結婚」というテーマを扱うには、かなり問題を整理しなければ、番組としての完成度が上がらないのではないかとおもう。とくに討論番組で扱うには難しい。(「日本の、これから」シリーズは何作品か見たけど、「NHKスペシャル」等に比べるとどうも消化不良の場合が多いような気がする。それでも、討論することに意義があるという趣旨なんだろうけど。まぁそういう趣旨があるとすれば同意する)
http://www.nhk.or.jp/korekara/
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。
「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。
ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
もちろん、「遊び」はあっていいとおもうし、社会には「遊び」がなくてはならない。それは必要悪と同等のものである。要するに人々は、遊びや必要悪と、もっとうまく付き合う必要があるのだとおもう。
さて、もう1つおもうのは、草食系といわれる人たちの一部は、男女平等に基づくリベラルな人たちなのではないかということだ。男女平等を重んじるからこそ、彼らは「これは男性がすべき仕事」で「これは女性がすべき仕事」と分けて考えない。どんな仕事も、男性ができるなら男性がやればよいし、女性ができるなら女性がやればよいと考えている。だから「デートは男性から誘うべき(女性が誘ってはいけない)」とは考えないし、「デート費用は男性が負担すべき(女性が負担してはいけない)」とは考えない。そのような先入観から解放されている。まぁ、それ以前に女性と付き合った経験がなくって、どうすればよいか分からないだけという男の人も多いだろうけど…。
ただ、番組を見てて一番おもったのは、「男性がもっと恋愛に積極的になるべき」とか「男性が家計費用を負担しなければならない」といった価値観は、男女平等やジェンダーフリーの観点からすると「アウト」だということを、どうして誰も意識したり指摘したりしないのかということだ。あれだけ人数がいて、「男女平等」を言う人がいないこと(途中まで見ていただけなので、見ていないところで言ってたのかもしれないが。あと、言う人がいたけどカットされてたのかもしれないが)に驚く。それは男尊女卑であり女尊男卑だ。
そのほかにも、経済や非正規雇用、託児所、都市と地方、社会保障、家の問題、社会と個人、義務と権利など、このへんは問題が複雑に絡まりあっている。「結婚」というテーマを扱うには、かなり問題を整理しなければ、番組としての完成度が上がらないのではないかとおもう。とくに討論番組で扱うには難しい。(「日本の、これから」シリーズは何作品か見たけど、「NHKスペシャル」等に比べるとどうも消化不良の場合が多いような気がする。それでも、討論することに意義があるという趣旨なんだろうけど。まぁそういう趣旨があるとすれば同意する)