メッセージ。 - diary

2009-05-06

# 大学が多すぎるという話について

大学というものが、ある時期から遊びに行く場所になってしまっているんだよね。また同時に、学士が1つのステータスとして扱われ、「就職のための切符」に矮小化されてしまった。みんなその切符が欲しいと殺到するので、名前を聞いたこともない大学が増え、勉強する意欲のない学生が氾濫しているんじゃないかとおもう。(かくいうぼくも、大学というのは遊びに行くところだとおもっていた)。

こうなっている大きな原因は、ベルトコンベア式に人間を扱う日本社会の習慣だと考えている。大衆も企業も、「いい大学を出た人がいい会社に就職でき、出世コースを歩む」と刷り込まれている。たとえばアメリカでは、いったん就職したり軍役についたりして社会人を経験した人が、後に大学に入って勉強しなおすことがあるが、日本ではそういった経歴は異例だ。

「新卒採用」という言葉に代表されるように、企業は4月、一律に大量の大学卒業者を採用し、プロパーとして育てていく。最近でこそ転職もそれほど珍しくなくなったが、しかし30代を過ぎるころから転職はかなり難しくなる。40代や50代ともなると、同業種内での戦略的な転職や、異業種(掃除夫や介護職ではないもの)への転職はほとんど不可能になるのではないだろうか。

なぜこうなっているかというと、年功序列などの日本的習慣が一因ではないかと考えられる。日本では、とにかく「年長者が偉い」という基本的ルールがあり、その一方で村社会的に人材がコミュニティに対し強い忠誠を誓うことを要請する傾向がある。そうなると、転職者というのは脱藩者であって、気軽に脱藩するような忠誠心の低い者はなかなか受け容れられず、既存のコミュニティ内で「余所者を受け容れたくない」という反発が強くなるのではないか。また、年下の人間が年上の人間を扱う方法論が、日本的習慣の中では存在しないことも、年長者の転職が難しい原因になっているだろう。

結果的に日本の社会では、個人の専門性や能力、客観性にもとづいた技能はなかなか生かされず、「いかにコミュニティに忠誠を誓うか」が重みをもってしまっているのではないか。これでは社内政治が跋扈する原因になるし、外部からの人材流入が少ないので、技術レベルの向上や社内政治の抑制が難しくなるだろう。また個人にとっても、高校のときの進路決定があまりに重大で、またベルトコンベアから外れることが大きなリスクになってしまう。途中で方向転換を試みたり失敗してしまうと、ベルトコンベアから外れ、大きなコストを支払わねばならない。

もちろん、日本的手法にもメリットがある。外部からの人材流入が少ないということは、外部へ人材流出が少ないということでもある。自社内での技術レベルや教育レベルが十分高いなら、人材が流出しないことで自社の技術レベルをそのまま高止まりさせることができるだろうから。また社内での忠誠心が高いというのは、コミュニケーションコストが低くなるので生産性が高くなったり、セキュリティリスクを減らせるだろう。

考えなければいけないのは、マクロ的に見て日本的手法とそうでない手法と、どちらがよいかだろう。それを判断するのは、なかなか難しい。0か1かではなく、ある程度バランスだろうし。ただ、現在の状況では、大学というものが実効的に働いていないのはもったいないようにおもう。たとえば、社会人が自分の専門性を高めるために、もっと気軽に大学を利用できるようにしたり、産学共同の研究がもっと増えたりするほうがよいのではないだろうか。

また、大学はもっと地域に開かれたほうがよいのではないかともおもう。生涯学習の拠点として、あるいは市井の研究者や専門家が集い、情報交換をできる場所として、大学は役割を担える可能性がある。そもそも、現在の日本では、科学やアカデミーの地位が低すぎるのも問題だ。日本では流言や誤り偏った情報が氾濫しやすく、良きにせよ悪しきにせよ、世論が加熱しやすい傾向にある。こういった世論が、いたずらに悪い方向に暴走してしまうことを防ぐためにも、大衆の心と知性の拠り所となるようなものが必要だと考える。

そういう意味で大学の存在意義は大きく、ポテンシャルは高い。現在のように大学が矮小化され、アカデミーの整備が野放図にされている状態は好ましくないだろう。
2009-05-06 11:07:47 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-05-01

# 成功体験

1年ぐらい前、うちの親父と仕事について話していて、彼からこんなことを聞いた。曰く、「古い会社というのはよくできている」と。たとえば、彼のいた会社で20年ほど前、シャープとの取り引き拡大を検討している部署があったという。現在のシャープは、液晶関連デバイスで世界的な企業になっているけど、当時はこれといって特徴のない中小企業の1つに過ぎなかったという。

彼が所属していた会社では、「シャープとの取り引き拡大するため投資を増やす」という話が広がると、大半の人間は「はぁ? シャープ? 大丈夫かいな? まぁほどほどにしとけよ」という反応が普通であったという。そういう彼自身も、シャープのことを大して評価していなかったそうな。

ところが20年たった現在、シャープは押しも押されもせぬ大企業になり、かつての投資は大成功を納め、現在彼の会社へ大きく貢献しているのだとか。彼はこの事例を挙げてこう言った。「会社というのは、そういうものだ」と。つまり、会社の中で進められている案件のうち、シャープ向けの投資の例のように、成功するものはほんの数パーセントしかない。

会社の中で仕事をしている人のうち、大半の人はシャープ向けの投資が成功するなどとは考えていなかったという。そういった大半の人は、それぞれが自ら伸びると信じる分野で頑張って仕事をしていたはずだ。けれども、そういった分野のほとんどは実を結ばず、ほんの一握りの分野や会社への投資だけが、大きな成功を納めたことになる。

彼が言ったのはこういうことだった。要するに、何が成功するかは分からない。でも、だからこそ短期の収益を追い掛けるのではなく、また収益性だけを気に掛けるのでもなく、いろいろな方面で(ときには無駄だとおもえるようなものでも)事業を展開することが重要だと。そうしているうちに、おもわぬところから収益の柱が育っていったりするのだと。

この話を聞いて、ぼくは少し衝撃を受けた。そういう考え方もあるのかと。いや、もちろん、話を聞いてみればそれほど不自然な考えではないし、当然のロジックでさえある。だけど不思議なことに、自分自身のこれまでを振り返って、そのような観点に接することはまったくといってよいほどなかった。これまでぼくは、自分が所属する部署や事業において、黒字が出なかったり、マイナス成長したりすることを、非常に苦しくおもっていた。

そのような部署にいる自分は会社にとってお荷物だろうと考えたし、うまくいかない仕事のやり方や、引いてはそういった仕事のやり方しかさせられないその会社自体に、明るい未来がないのではないかとおもっていた。ぼくが会社員として勤めていた10年の大半は、大かれ少なかれ、そういった苦しみの中にあった。

でも実際振り返ってみると、自分が最初に就職した会社(6年前に辞めた会社)は、今現在もそれなりに営業しているみたいだし、社員数がけっこう増えていたりする。また、昨年辞めた出版社も、それなりに営業を続けている(先日はワールドビジネスサテライトで新しい事業が取り上げられていた)。

そういう意味で、自分が感じていた苦しみや不安は、実際には杞憂で一人相撲だったのかもしれない。あるいは、そんなことなくて、そんな悠長なことを言っていられるのは、彼が言うように「古い会社」だからなのかもしれない。経済が拡大期にあったから、そのようなやり方で成長できたのかもしれない。でもとにかく、そういう仕事のやり方、考え方を普通だとおもっている会社や人がいるのだということに、ぼくは衝撃を受けた。同じ星にある、同じ会社や同じ人間とはおもえないとでもいうような、ちょっとした疑いを持ちさえした。

実際のところ、どうなんだろう。かつてぼくが所属した会社も、明言はされていなかったけど、そういった思考のもとに運営されていたんだろうか。ぼくは下っ端だから分からなかったけど、そうだったんだろうか。なんとなく、そんな感じはしないんだけどな。課長や部長は泥のようにはいつくばって、目先の黒字のために苦労をしていたようにおもったんだけどな。いずれにせよ、よく分からない。ぼくの苦しみはいったいなんだったのか。まだ当分、その答えは分からないのだろう。
2009-05-01 18:33:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-04-30

# 海外で勉強して働く話の続き

承前。

http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2873
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/04/future_of_japan.html

10年間仕事をしていておもったのは、自分が仕事をして作りたいものは、(1)誰かの役に立つもので、かつ(2)対価がそれなりに得られるもの(最低限黒字を出して成長できるレベル)という感じだった。でも、1と2を両方満たす仕事はあまりなく、苦しい戦いを強いられた。

それで10年間の最後には「自分が納得できる仕事をしたい」と考え、会社を辞めてちょっとアメリカへ行ってみることにした。本気になって英語を身に付けたかったのと、アメリカという国がどういうところかを知りたかったから。それと、お金になりもしない仕事をしながら企業のなかで安穏と給料をもらう生活を続けていては、自分が納得して働けないと考えたから。

「納得できる仕事をしたい」とはおもうものの、末端の会社員にすぎず、なんの実績も持たない自分がそれを言うのはおこがましい。業務を遂行するにあたって資金を出すのは会社なのだから、会社の意図に沿って仕事をするのが当然だ。だからぼくは、会社の言うとおりに仕事をした。ぼくの心の中には葛藤があった。

ただ実際のところ、ぼくは「それは違う」と心の中でおもっているばかりだった。誰かが出す提案に「それは違う」と言うだけでは物事は前に進まない。だからぼくは、自分から何かを言い、何かをしなければならなかった。会社を辞め、自分のお金でアメリカへ行ってみることにした。※1

アメリカには2か月ほど滞在でき、それは楽しい経験だった。英語、人間関係、道の歩き方、いろんなことが勉強になった。ただ、どうだろうなぁ。「留学して働く」というのには、到底2か月では足りない。最低でも1年以上、3~4年ぐらいは留学しないといけないんじゃないかな。そこまでするのにいくらお金がかるんだろうか。行く国にもよるけど、たぶん1年アメリカで生活するには最低150万円ぐらいはいるとおもう。学費もかかる。金銭面のハードルは結構高い。

それに加えておもうのは、誰のためにどんな仕事をしたいのかという問題があるんじゃないかな。向こうで短期の語学学校に通っているとき、20代ぐらいの留学生Aさんと、こんな会話をした。

Aさん:「あなたはアメリカで就職したいとおもってるの?」
ふ:「就職できればうれしいとはおもってるよ。でもビザの問題もあるし、難しいんじゃないかな」
Aさん:「仕事なら、探せばあるわ。日本食や韓国料理のレストランなんかでバイトを募集してるし、ビザがなくても働けるよ」
ふ:「でも、ビザなしで働くのは違法だしなぁ」
Aさん:「みんなやってるから大丈夫よ。no problem」
ふ:「そっかぁ。うーん。でもまぁぼくは、IT関連のスキルと経歴があるし、できればその経験を生かした仕事をしたいとおもってる。だからちょっと乗り気がしないな。まぁ、もう少し考えてみるよ、ありがとう」

一般的に、こういう会話がどの程度頻繁に交わされているのかは分からない。でも、こういう考え方で就職を捉えている人も案外多いんじゃないかとおもう。つまり、「アメリカで就職できるなら、レストランのバイトでもなんでもいいじゃないか」とでもいったものだ。いや、実際にAさんは、そんなに極端なことを言おうとしたのではないのかもしれない。物価の高い米国において、生活費の足しがあるほうがいいだろうとアドバイスをしてくれたのかもしれない。ただ、一部にはやっぱりこういう考え方があるのだとおもう。

親戚のおばさんにもアメリカかぶれの人がいて、ぼくが無職だと聞き付けた彼女はこんなことを言ってきた。「アメリカでの就職を考えたらどう? これはチャンスだとおもうの」。実際、彼女の息子たちはアメリカで就職して働いている。ぼくの向こうでの就職も、彼らが手助けしてくれるという。でもよく聞いてみると、彼女は「アメリカで就職すること」ばかりに傾注していた(少なくとも、そのときのぼくにはそう聞こえた)。「アメリカで就職できるなら、レストランでもなんでもいいじゃない」とまでは言わないが、そこで誰にどんな仕事をサーブできるのか、サーブしたいのか、彼女の提案では、そこが最優先に考えられていないような気がした。

頭でっかちで、贅沢な話かもしれないけど。でもぼくは歳をとってしまったこともあり、単に収入があればいいやという仕事は苦痛に感じる。できれば誰かの役に立って、それで対価を得られるような仕事がしたい。そのため問題なのは、自分はなにができて、誰のために働きたいのか、というところだ。いや、もちろん、レストランの仕事でも誰かの役には立つんだけど。でも、違法なのはちょっとなぁ…。

そんなことを考えながら、無職生活を1年ぐらい続けている。このところは、世界的な経済問題が起こっていることもあり、経済系のニュースを見て勉強したりしてる。あと、多少プログラムを組めるという技術を(それほど高度な技術ではないが)、なんとかマネタイズ(お金に替えることが)できないかなぁと試行錯誤してる。でも、お金を稼ぐというのは本当に難しい。そろそろなりふり構わず就職しなければいけなくなりそう。

アメリカには2か月しかいなかったし、旅行者としてしか接していなかったから、良い面ばかりが見えたのかもしれない。その限りの見方ではあるけど、アメリカや海外で働くことができたら面白いだろうなぁとおもう。なぜかというと、ドライブ感(自分が何かを変えている感じ)がある気がするからだ。良くも悪くも、アメリカは広かった。広いゆえに問題もいっぱいあり、まだまだやるべきことがあるように感じた。自分がなにかをすることで、何かを変えることができる。役に立つことができる。そうじゃないかと感じることがあったし、実際そのように行動している人と会えたようにおもう。

一方で日本を振り返ってみると、自分がいったい何の役に立つのか、よく分からない。何かをすれば、何かを変えられるんだろうか。日本にだって問題はあるはずだ。「ここがこうだったらいいのに」とおもうところはある。でもなんか、いろいろ複雑すぎて、自分がいったい何をどうすればいいかよく分からない。どこから手を付けていいかもよく分からないし、よく考えればそもそも資金も力もないのだった。うーん、困った。そういう状態。なんか仕事ありませんかね?(苦笑)

あ、ちなみにアメリカ旅行のときの写真は次のURLに置いてます。
http://picasaweb.google.co.jp/yoshiharu.fujisawa/

※1. 会社や上役の指示にぼくが反発を覚えたのなら、「それは違う。こうしましょう」と声を挙げるという選択肢もあったとおもう。そうするのが苦手だというのも、ぼくの悪いところではある。
2009-04-30 01:27:30 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-04-29

# 海外で勉強して働く話

On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう

 今の日本は、「成功体験のある人」が著しく減ってしまった。高度成長は1955年から73年なわけだが、この時代を経験した人の殆どはもう引退してしまっているわけです。80年代のバブル期にバリバリやっていた人たちは、その後の失われた20年で「やっぱり間違ってたかも・・・」という自信喪失に陥った世代。

成功体験かぁ。そうなんだよなぁ。自分も、SI会社で5年、出版社で5年働いていたけど、そのあいだで「成功した」と感じられたことがほとんどない。業績は右肩下がりで、新しいことをやってもお金に結び付きそうに思えない。とくに、上役がイメージ・指示する仕事のやり方が、どうも自分のイメージする「ヒットする商品」と結び付かない。…まぁ、とはいっても自分自身、「ヒットする商品」なんてものを作り出せた経験が一度もないのでアレなんだ。どうやればうまくいくか、全然分からない状態なんだよなぁ。
2009-04-29 14:03:14 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 愚痴について

愚痴について。

愚痴にも、良い愚痴と悪い愚痴があるんだよなぁ。
聞いてて救いようがないような、堂々巡りするような愚痴は、聞くほうも辛くなる。
「それでも我慢して聞け」ということなのかもしれないけど、辛いばっかりなんだよなぁ。我慢にも限界がある。

やっぱりさぁ、救いがないというのはつらい。重い愚痴の場合、話せばスッキリするというわけでもないんだから、
結局のところ、いずれかの時点で本人が問題を飲み込むしかない。周りの人ももちろん手助けするんだけど。
でも手助けが届かないというのはつらいんだよね。つらくってイライラしてしまうこともあるだろう。

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「女の人は共感を求めている」という説について。

ちょっと同意しがたい。そんな単純なものじゃないというか。あと、上から目線の気がして感じが悪い。
分かったつもりになるのは避けたほうがいい。とか言いつつ蛇足を書くけど。

どちらかというと、女の人は共感を求めているというよりは気持ちの切り替えを望む傾向がある気がする。
たとえば嫌な気分に陥っている女の人がいるとすると、その人は一緒になって嫌な気分になってくれる人を
望んでいるんじゃなくって、嫌な気分を明るい気分に変えてくれるようなきっかけを望んでるんじゃないかなと。
2009-04-29 01:34:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-04-17

# 「工学というものは最初から社会的な学問だった」

http://tabesugi.net/memo/2009/4a.html#131904
 もともと、工学というものは最初から社会的な学問だった。 政治や経済と同じくらい社会的だ。しかし、いまの日本で その社会性をきちんと理解している人がどれだけいるだろうか? (新山だってよく理解していない) ところで思うのだけど、みずから医学部や看護学部に (親に行かされるのでなく) 志願して行くような人は、その学問の 「社会性」というものをすこしは認識していそうである。しかし工学部へ、とくに 情報系の分野へ行く連中はどうなのか。ただひたすら「オモチャをいじっているのが楽しい」 だけの人が多いんじゃないか? アホな連中が、やれ facebook だ twitter だ cloud だ、と騒ぐのを見て、 新山が圧倒的に「…どうでもよろ」という気分になってしまうのは、しょうがない。 そんなものは、しょせん「問題のための問題」であって、誰のためにもならないからだ。 練習問題をやっているだけでは世の中は良くならないのである。
 
 まえに Siegel がいっていたように、“工学の女王”である計算機科学は、 未分化な細胞の塊のようなもんだと思う。これは、それ自体では何もできないけれど、 方向が定まればどんな形の花でも咲かせることができる -- そう新山は信じている。 上の記事にはその見方が明確に示されている。学生に与えられた指令は "Find someone or something in trouble and save it. (何か問題をかかえている人・モノをみつけて、行ってそれを救いなさい)" というものだ。なんてカッコいいんだろう! 新山はこういう「カッコよさ」に憧れる人は沢山いるだろうと思っている。 そして、将来ほんとうに計算機科学を身につけてほしい人々というのは、 実はこういう社会的な視点をもった人々だ。 C++やHaskellでアクロバティックなコードを書ける子供などではなく。

あいかわらず、新山さんはいいことを言うなぁ。「工学というものは最初から社会的な学問だった」。そうか、たしかにそうだなぁ。しかし実際、なかなかそれをするのは難しい。自分の無能が恨めしい。
2009-04-17 18:42:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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