メッセージ。 - diary
2009-03-20
# メモ(日本人の所属の感覚)
もう記憶が定かではないのだけど、カリフォルニアでは公の場所は禁煙ということを当地旅行中に聞いた。公道の禁煙はもちろんのこととして、喫茶店やレストランといった店舗内でも禁煙らしい。とくに店舗内で禁煙の理由が、日本とずいぶん違うなぁと感じたのだった。
その理由というのは、「喫茶店やレストランの禁煙は、そこで働く従業員の健康保護のため」というものだった。もし喫茶店やレストランが喫煙可能だったら、そこで働く従業員が健康を害するからダメということだ。これを聞いて違和感を感じた。日本でこんな理由がまかりとおるだろうか?
一日本人であるぼくの感覚(先入観)からすれば、そんなものは店側の都合であって、客側が譲歩を強いられるいわれはない。客に不便を強いる理由として「従業員の健康を害するから」なんてのは、日本では通らないのではないかとおもった。でもよく考えてみれば、カリフォルニア方式にも理がある。従業員の健康だって大事だ。そのことを、ぼくはどうして忘れていたのだろう?
この違和感にはいくつかの日米の常識や社会観が関係していて、そのうちの1つは、「そっち」と「こっち」の感覚の違いがあるのかなぁとおもった。日本においては、「そっち」と「こっち」は大きく分断されている。「そっち」の利害と「こっち」の利害は大きく対立していて、それぞれのグループは自らの利益を最大化すべく行動していると。
あるグループは、自グループの利益を最大化すべく、自グループのシステムを調整する。たとえばレストランというグループは、自分が持つ店舗を禁煙とするか喫煙とするかを検討し、利益が大きくなるほうを選択する。従業員の健康は、彼らの保険・保障や利益と天秤にかけられ、できるだけ彼らの健康を維持しながら利益が最大化できる方策が探られるだろう。
従業員の健康を心配すべきはそのグループやグループのメンバーであって、グループ外の人間が口を出す問題ではないという感覚が、日本人にはあるのではないか。つまり、日本ではグループという共同体が利害の主体であって、個人は共同体に強く属している。そして、個々人は、他者が属する共同体でどんなルール・システムが敷かれていても、とくに関知しない。逆に言えば共同体の自治権は比較的強く、個々人からしてみれば、自共同体内での発言権を向上することがなによりも重要になる?とか。
うーん、なんかうまく表現できないのと、標本1つで一般化するのも難しいのでメモレベルで感じたことを書いておく。とにかく禁煙の理由がけっこう印象に残ったのだった。
その理由というのは、「喫茶店やレストランの禁煙は、そこで働く従業員の健康保護のため」というものだった。もし喫茶店やレストランが喫煙可能だったら、そこで働く従業員が健康を害するからダメということだ。これを聞いて違和感を感じた。日本でこんな理由がまかりとおるだろうか?
一日本人であるぼくの感覚(先入観)からすれば、そんなものは店側の都合であって、客側が譲歩を強いられるいわれはない。客に不便を強いる理由として「従業員の健康を害するから」なんてのは、日本では通らないのではないかとおもった。でもよく考えてみれば、カリフォルニア方式にも理がある。従業員の健康だって大事だ。そのことを、ぼくはどうして忘れていたのだろう?
この違和感にはいくつかの日米の常識や社会観が関係していて、そのうちの1つは、「そっち」と「こっち」の感覚の違いがあるのかなぁとおもった。日本においては、「そっち」と「こっち」は大きく分断されている。「そっち」の利害と「こっち」の利害は大きく対立していて、それぞれのグループは自らの利益を最大化すべく行動していると。
あるグループは、自グループの利益を最大化すべく、自グループのシステムを調整する。たとえばレストランというグループは、自分が持つ店舗を禁煙とするか喫煙とするかを検討し、利益が大きくなるほうを選択する。従業員の健康は、彼らの保険・保障や利益と天秤にかけられ、できるだけ彼らの健康を維持しながら利益が最大化できる方策が探られるだろう。
従業員の健康を心配すべきはそのグループやグループのメンバーであって、グループ外の人間が口を出す問題ではないという感覚が、日本人にはあるのではないか。つまり、日本ではグループという共同体が利害の主体であって、個人は共同体に強く属している。そして、個々人は、他者が属する共同体でどんなルール・システムが敷かれていても、とくに関知しない。逆に言えば共同体の自治権は比較的強く、個々人からしてみれば、自共同体内での発言権を向上することがなによりも重要になる?とか。
うーん、なんかうまく表現できないのと、標本1つで一般化するのも難しいのでメモレベルで感じたことを書いておく。とにかく禁煙の理由がけっこう印象に残ったのだった。
2009-03-08
# 社会保障のありかた
テレビの話。ちょっと前にNHKスペシャルの『揺れる大国 プーチンのロシア』という番組を見た。
揺れる大国 プーチンのロシア 失われし人々の祈り ~膨張するロシア正教~
いまロシアでは、ロシア正教の力が強まっているらしい。市場主義による競争が持ち込まれた結果、多くの人が失業者になったり、身寄りも貯蓄ないお年寄りが孤立したりしている。そういったなかで、宗教に頼る人たちが増えているというのだ。
教会では、困った人たちを助けるボランティアのネットワークが根を伸ばしている。ボランティアの事務所には、身寄りのないお年寄りからひっきりなしに電話が入る。「老齢で体が動かず、食事や掃除が満足にできません。助けてほしい」、そういった声だ。社会主義体制下でサポートされていた年金や医療費などは、現在では十分機能しておらず、貧しい人たちを直撃しているとのこと。そういった状況を救おうとしているのが、草の根ベースのボランティアだ。
ボランティアは、ロシア正教を精神的な支えとして、民間人たちが互いに助けあう形で運営されている。ソビエト時代は宗教が否定されていたため、みな昔からの教徒というわけではない。そのため、ボランティア活動に参加している人たちも、サービスを受けている人たちも、ロシア正教への態度はまちまちだ。貧困のなか救いを求め聖書にすがる妻と、元科学者で無神論者の夫のあいだには、ギクシャクした空気がたちこめる。人々のあいだに貧困が忍び寄った結果、彼らは混乱し、どうしようもない状況のなかで宗教に救いを求めている。
ロビエト時代に否定されていたロシア正教だが、逆にプーチン政権下では手厚い保護を受けている。もともとロシア帝政と共同歩調を取っていたロシア正教は、プーチン政権下でも当時とおなじように政権との結び付きを強くしようとしているのだ。その力が、ボランティアなど社会保障面で機能するぶんにはいいことだとおもうが、一方で孤児を兵隊に育て、愛国軍として組織しようとしている一部の教会もあるという。
と、そういう内容だった。この番組はシリーズ化されていて、あと2回「プーチンのロシア」として番組が予定されているのでぜひ見てみたい。興味深い内容だった。ところで、番組を見たあとで日本を振り返っておもったのだけど、日本には同じようなボランティアネットワークが少なく、貧困層を助けてくれる力が足りないのではないか。ちょっと前、「セーフティネット・クライシス」の感想で書いたように、日本の人たちは精神的にすごく孤立している。家族は信頼するけど、それ以外に信頼できる関係性があまりない。
親友は家族と同等に信頼できる存在かもしれない。でも親友はいたとしても1人とか2人とかで、しかもほとんどのケースで、彼らに経済的援助を期待することは困難なのではないか。…いや、分からない。一般的には、そうではないのかもしれない。最後の最後には、そういう状況では親友に助けを請うのかもしれない。ただ、ここで言いたいのは、そういった社会保障といったものが、日本では政府によってしかサポートされておらず、しかも国民と政治運営者のあいだに、格段の信頼関係が存在していないのではないかということだ。
とくに貧困な状況にいる人は、社会から阻害されたと感じているだろう。自分たちを社会における弱者だと見なしていて、社会は敵だと考えていのではないか。もしそうなら、その社会から施しを受けることに抵抗を感じ、心を許すことが難しかったとしても自然だろう。なにより現状の「政府による社会保障」には、精神的サポートや、なぜ保障を行うかといったメッセージが存在しない。こういった構図を考えれば、社会保障を政府が直接かつ全面的に請け負うよりも、宗教や地域といった第三者による社会保障のほうが適切である可能性が高いのではないか。そうすれば、金銭面だけでなく、精神面でも困った人をサポートできるし、彼らに居場所を与えることができるのではないか。そんなことをおもった。
揺れる大国 プーチンのロシア 失われし人々の祈り ~膨張するロシア正教~
いまロシアでは、ロシア正教の力が強まっているらしい。市場主義による競争が持ち込まれた結果、多くの人が失業者になったり、身寄りも貯蓄ないお年寄りが孤立したりしている。そういったなかで、宗教に頼る人たちが増えているというのだ。
教会では、困った人たちを助けるボランティアのネットワークが根を伸ばしている。ボランティアの事務所には、身寄りのないお年寄りからひっきりなしに電話が入る。「老齢で体が動かず、食事や掃除が満足にできません。助けてほしい」、そういった声だ。社会主義体制下でサポートされていた年金や医療費などは、現在では十分機能しておらず、貧しい人たちを直撃しているとのこと。そういった状況を救おうとしているのが、草の根ベースのボランティアだ。
ボランティアは、ロシア正教を精神的な支えとして、民間人たちが互いに助けあう形で運営されている。ソビエト時代は宗教が否定されていたため、みな昔からの教徒というわけではない。そのため、ボランティア活動に参加している人たちも、サービスを受けている人たちも、ロシア正教への態度はまちまちだ。貧困のなか救いを求め聖書にすがる妻と、元科学者で無神論者の夫のあいだには、ギクシャクした空気がたちこめる。人々のあいだに貧困が忍び寄った結果、彼らは混乱し、どうしようもない状況のなかで宗教に救いを求めている。
ロビエト時代に否定されていたロシア正教だが、逆にプーチン政権下では手厚い保護を受けている。もともとロシア帝政と共同歩調を取っていたロシア正教は、プーチン政権下でも当時とおなじように政権との結び付きを強くしようとしているのだ。その力が、ボランティアなど社会保障面で機能するぶんにはいいことだとおもうが、一方で孤児を兵隊に育て、愛国軍として組織しようとしている一部の教会もあるという。
と、そういう内容だった。この番組はシリーズ化されていて、あと2回「プーチンのロシア」として番組が予定されているのでぜひ見てみたい。興味深い内容だった。ところで、番組を見たあとで日本を振り返っておもったのだけど、日本には同じようなボランティアネットワークが少なく、貧困層を助けてくれる力が足りないのではないか。ちょっと前、「セーフティネット・クライシス」の感想で書いたように、日本の人たちは精神的にすごく孤立している。家族は信頼するけど、それ以外に信頼できる関係性があまりない。
親友は家族と同等に信頼できる存在かもしれない。でも親友はいたとしても1人とか2人とかで、しかもほとんどのケースで、彼らに経済的援助を期待することは困難なのではないか。…いや、分からない。一般的には、そうではないのかもしれない。最後の最後には、そういう状況では親友に助けを請うのかもしれない。ただ、ここで言いたいのは、そういった社会保障といったものが、日本では政府によってしかサポートされておらず、しかも国民と政治運営者のあいだに、格段の信頼関係が存在していないのではないかということだ。
とくに貧困な状況にいる人は、社会から阻害されたと感じているだろう。自分たちを社会における弱者だと見なしていて、社会は敵だと考えていのではないか。もしそうなら、その社会から施しを受けることに抵抗を感じ、心を許すことが難しかったとしても自然だろう。なにより現状の「政府による社会保障」には、精神的サポートや、なぜ保障を行うかといったメッセージが存在しない。こういった構図を考えれば、社会保障を政府が直接かつ全面的に請け負うよりも、宗教や地域といった第三者による社会保障のほうが適切である可能性が高いのではないか。そうすれば、金銭面だけでなく、精神面でも困った人をサポートできるし、彼らに居場所を与えることができるのではないか。そんなことをおもった。
2009-01-10
# Zaurus上のTitchy Linuxでイー・モバイルD01NXを使う
Zaurus上のTitchy Linuxでイー・モバイルD01NXが使えた! ので情報公開。…といっても、うちのTitchy Linuxは自分でコンパイルしたカーネルを使ってるので(16GBのCFを使えるようカーネルをコンパイルしているので)、ちょっと特殊な環境なんだけど。
◆やったこと:
・クロスコンパイル環境で、とりあたまさんが公開されているvmbドライバ(vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23)をコンパイルした。
・Zaurus上の/lib/modules/2.6.22.19/kernel/drivers/extra/に、コンパイルしたドライバ(vmb_cs.ko、vmb_hcd.ko)を置いて「sudo depmod -a」。
・D01NXを挿すと、/var/log/messagesにそれらしいログが表示される。また/dev/ttyACM0ができる。
・sudo pppconfigで接続先を設定(デバイスは/dev/ttyACM0)。ponで接続。
◆コンパイルしてできたドライバのファイル:
・http://pikapika.to/yf/download/vmb_cs.ko
・http://pikapika.to/yf/download/vmb_hcd.ko
◆一応、上記ドライバと一緒に使っているカーネル、モジュール:
・http://pikapika.to/yf/download/zImage.2.6.22.19
・http://pikapika.to/yf/download/2.6.22.19.tar.gz
◆D01NXを挿したときの/var/log/messagesのログ:
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: pccard: PCMCIA card inserted into slot 0
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: pcmcia: registering new device pcmcia0.0
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver usbfs
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver hub
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new device driver usb
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: ELAN VMB Host Controller
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: new USB bus registered, assigned bus number 1
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: irq 137, io mem 0x2c000000
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: usb usb1: configuration #1 chosen from 1 choice
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: hub 1-0:1.0: USB hub found
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: hub 1-0:1.0: 2 ports detected
Jan 9 23:05:00 honoka kernel: usb 1-1: new full speed USB device using vmb_hcd and address 2
Jan 9 23:05:03 honoka kernel: usb 1-1: configuration #1 chosen from 1 choice
Jan 9 23:05:05 honoka kernel: cdc_acm 1-1:1.0: ttyACM0: USB ACM device
Jan 9 23:05:07 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver cdc_acm
Jan 9 23:05:07 honoka kernel: drivers/usb/class/cdc-acm.c: v0.25:USB Abstract Control Model driver for USB modems and ISDN adapters
◆メモ:クロスコンパイルしたときのコマンド:
make -C /lib/modules/2.6.22.19/build M=/ext/home/fujisawa/work/xc/linux-2.6.22.19/drivers/vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23/vmb_cs/ modules
make -C /lib/modules/2.6.22.19/build M=/ext/home/fujisawa/work/xc/linux-2.6.22.19/drivers/vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23/vmb_hcd/ modules
◆参考:
・とりあたまさんのおぼえがき: D01NXをザウルスで動かす(ついにザウルスで動いた!)
◆やったこと:
・クロスコンパイル環境で、とりあたまさんが公開されているvmbドライバ(vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23)をコンパイルした。
・Zaurus上の/lib/modules/2.6.22.19/kernel/drivers/extra/に、コンパイルしたドライバ(vmb_cs.ko、vmb_hcd.ko)を置いて「sudo depmod -a」。
・D01NXを挿すと、/var/log/messagesにそれらしいログが表示される。また/dev/ttyACM0ができる。
・sudo pppconfigで接続先を設定(デバイスは/dev/ttyACM0)。ponで接続。
◆コンパイルしてできたドライバのファイル:
・http://pikapika.to/yf/download/vmb_cs.ko
・http://pikapika.to/yf/download/vmb_hcd.ko
◆一応、上記ドライバと一緒に使っているカーネル、モジュール:
・http://pikapika.to/yf/download/zImage.2.6.22.19
・http://pikapika.to/yf/download/2.6.22.19.tar.gz
◆D01NXを挿したときの/var/log/messagesのログ:
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: pccard: PCMCIA card inserted into slot 0
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: pcmcia: registering new device pcmcia0.0
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver usbfs
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver hub
Jan 9 23:04:57 honoka kernel: usbcore: registered new device driver usb
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: ELAN VMB Host Controller
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: new USB bus registered, assigned bus number 1
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: vmb_hcd vmb_hcd: irq 137, io mem 0x2c000000
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: usb usb1: configuration #1 chosen from 1 choice
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: hub 1-0:1.0: USB hub found
Jan 9 23:04:58 honoka kernel: hub 1-0:1.0: 2 ports detected
Jan 9 23:05:00 honoka kernel: usb 1-1: new full speed USB device using vmb_hcd and address 2
Jan 9 23:05:03 honoka kernel: usb 1-1: configuration #1 chosen from 1 choice
Jan 9 23:05:05 honoka kernel: cdc_acm 1-1:1.0: ttyACM0: USB ACM device
Jan 9 23:05:07 honoka kernel: usbcore: registered new interface driver cdc_acm
Jan 9 23:05:07 honoka kernel: drivers/usb/class/cdc-acm.c: v0.25:USB Abstract Control Model driver for USB modems and ISDN adapters
◆メモ:クロスコンパイルしたときのコマンド:
make -C /lib/modules/2.6.22.19/build M=/ext/home/fujisawa/work/xc/linux-2.6.22.19/drivers/vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23/vmb_cs/ modules
make -C /lib/modules/2.6.22.19/build M=/ext/home/fujisawa/work/xc/linux-2.6.22.19/drivers/vmb-1.10-zaurus-kernel2.6.23/vmb_hcd/ modules
◆参考:
・とりあたまさんのおぼえがき: D01NXをザウルスで動かす(ついにザウルスで動いた!)
2008-12-16
# ベーシックインカムの話
ベーシックインカムの話|六本木で働いていた元社長のアメブロ
これを読んで、思ったこと。
ベーシックインカムってはじめて聞いた。これってうまくいくのかな? つまり、「働かないほうが全体生産性に寄与する人が存在する」ってことだよねぇ? 老人とか子供以外に。そりゃそうだろうけどそんなに数多いか? 「人類の2割だけ働けばいい」ってほどではないんじゃないかと思うなぁ。だって、その2割を抽出するためにトライ&エラーが必要だろうし、エースだけで構成された生産システムがトラブルに陥ったときのために、バックアップシステムも必要なんじゃないかな。
それと、「働いて価値をもたらしたものがトクをする」という現在の資本主義は、個々の人間や家族といった生命をベースとした人間がもつ生存欲求と、社会として価値のベクトルが一致しているから成り立っている面があると思う。つまり働いて資産を形成した者や家が長生きできるからこそ、人間は働くのだと。逆に言えば、ベーシックインカムシステムを(実装のしかたにもよるが)導入したとしても、個々人の生存欲求がそれを許さないのではないだろうか。だって、ベーシックインカムのしくみは、生産システム内部にいる人間が、外部にいる人間の生殺与奪を握るというシステムになるだろうからだ。
システムがうまく動いていて、生産システムの外部にいる人々がシステムの内部にいる人々のことを信頼できているあいだは、そのシステムはそれなりに機能するかもしれない。でも、不作の年があったり、戦争が起こったりといった外的要因があって、予定した生産量を得られなかったりすれば、分配をどうするかという問題が起こる。そうなれば、システム外部にいる人間が暴動を起こすのではないか。
こうやって見ていくと、人間相互の不信が存在するかぎり、ベーシックインカムのしくみは純度の高い形では実装しにくいような気がする。もちろん、現状の社会でもベーシックインカムのしくみはすでに実装されているともいえる。老人や子供は働かなくてよかったり、専業主婦は働かなくってもよいというのは、純度の低い形のベーシックインカムといえるだろう(主婦は働いていない、とは言ってませんです)。そういう意味では、従来の社会も十分にベーシックインカムとはいえるのかもしれないなぁ…。
あと、昔から言っているのだけど。たとえば刑務所において受刑者がもっとも辛いと感じる刑罰は、午前に地面に穴を掘って午後はそれを埋めさせることなのだそうだ。つまり、一日中無駄なことに時間を費やさせられるのが、人間にとってもっとも辛いのだという説。これが正しいのだとすれば、要するに人間は「自分は何かの役に立っている」と感じられなければ不幸なのだということのはず。ぼくはこの説を支持していて、ほとんどの人間は、「自分は何かの役に立っている」と感じることを日々の喜びとして暮らしていると思っている。ベーシックインカムを実装するのだとしたら、こういった個々人の感情や生きがい、信頼や社会性といったものを、どう実現するのかが問題になるんじゃないかという気がする。
これを読んで、思ったこと。
ベーシックインカムってはじめて聞いた。これってうまくいくのかな? つまり、「働かないほうが全体生産性に寄与する人が存在する」ってことだよねぇ? 老人とか子供以外に。そりゃそうだろうけどそんなに数多いか? 「人類の2割だけ働けばいい」ってほどではないんじゃないかと思うなぁ。だって、その2割を抽出するためにトライ&エラーが必要だろうし、エースだけで構成された生産システムがトラブルに陥ったときのために、バックアップシステムも必要なんじゃないかな。
それと、「働いて価値をもたらしたものがトクをする」という現在の資本主義は、個々の人間や家族といった生命をベースとした人間がもつ生存欲求と、社会として価値のベクトルが一致しているから成り立っている面があると思う。つまり働いて資産を形成した者や家が長生きできるからこそ、人間は働くのだと。逆に言えば、ベーシックインカムシステムを(実装のしかたにもよるが)導入したとしても、個々人の生存欲求がそれを許さないのではないだろうか。だって、ベーシックインカムのしくみは、生産システム内部にいる人間が、外部にいる人間の生殺与奪を握るというシステムになるだろうからだ。
システムがうまく動いていて、生産システムの外部にいる人々がシステムの内部にいる人々のことを信頼できているあいだは、そのシステムはそれなりに機能するかもしれない。でも、不作の年があったり、戦争が起こったりといった外的要因があって、予定した生産量を得られなかったりすれば、分配をどうするかという問題が起こる。そうなれば、システム外部にいる人間が暴動を起こすのではないか。
こうやって見ていくと、人間相互の不信が存在するかぎり、ベーシックインカムのしくみは純度の高い形では実装しにくいような気がする。もちろん、現状の社会でもベーシックインカムのしくみはすでに実装されているともいえる。老人や子供は働かなくてよかったり、専業主婦は働かなくってもよいというのは、純度の低い形のベーシックインカムといえるだろう(主婦は働いていない、とは言ってませんです)。そういう意味では、従来の社会も十分にベーシックインカムとはいえるのかもしれないなぁ…。
あと、昔から言っているのだけど。たとえば刑務所において受刑者がもっとも辛いと感じる刑罰は、午前に地面に穴を掘って午後はそれを埋めさせることなのだそうだ。つまり、一日中無駄なことに時間を費やさせられるのが、人間にとってもっとも辛いのだという説。これが正しいのだとすれば、要するに人間は「自分は何かの役に立っている」と感じられなければ不幸なのだということのはず。ぼくはこの説を支持していて、ほとんどの人間は、「自分は何かの役に立っている」と感じることを日々の喜びとして暮らしていると思っている。ベーシックインカムを実装するのだとしたら、こういった個々人の感情や生きがい、信頼や社会性といったものを、どう実現するのかが問題になるんじゃないかという気がする。
2008-12-15
# テレビの感想(NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか)
NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか
という番組を見て興味深かった。とくに、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんが話されていたことが印象に残った。いわく、「この年末年始の連休は12月26日の金曜日から始まり、1月5日まで続く。これは平年よりも長いのですが、皆さんはご存知ですか? 解雇された労働者の方々の話を聞いていると、その連休の間、どうやって暮らせばいいかと皆心配している。役所も関連施設も年末年始は閉まるので、どこにも助けを求められない。連休を無事に過ごせるか分からない。それくらい切羽詰まっているんですよ」と。大変重い言葉だと感じられた。
また彼は、つい昨年あたりに過去最高益を出していながら今年は派遣労働者を大量に解雇するという自動車メーカーに対し、どうしてもう少しでも労働者を保護できないのかと訴えていた。企業活動はボランティアではないし、利益も出さなければならない。また現在の世界同時不況はたいへんに苛烈で、企業として生き残りのために奮闘努力しなければならない。それは分かるが、放り出された労働者はこの冬を越せるかどうかの状況にあるという内容だ。彼の言葉に反論することは難しい。
以下、番組を見ていて思ったことなど。日本では、社会不信が蔓延している。社会保障の制度はいちおう存在するけど、労働者の側はそれを知らなかったり、申請するのを面倒がったりしている。年金も、健康保険も、税金も、しくみが複雑すぎる。ふつうの日本人で、年金や健康保険や税金についてちゃんと理解している人がどれだけいるだろうか。すべての国民が知っているべきしくみで、国民を助けるためにあるのに、それは義務教育では教えられない。親も知らない。いったい誰が教えてくれるというんだろうか。
どんな優れた制度も、知らなければ使えない。為政者たちは、労働者たちにたいして「こういう制度がありますよ」と教えてまわるべきじゃないんだろうか。ところが現実は逆だ。労働者たちが制度を知らなければ、歳出を抑えられる。だから役所の人間は、労働者たちにできるだけ馬鹿でいてもらいたいと思っているんじゃないだろうか。そこにあるのは絶望的な相互不信だ。労働者たちのほうも役人にたいして不信感をもっている。役人や社会が、自分を救ってくれるとは思えない。だから何かを申請したり、救いの手を求めることをおそれたりする。
前述の湯浅さんは、社会保障を手厚くすべきと言っていた。職をうしなった人に職業訓練をほどこしたり、住まいのない人に住まいを提供したり、社会保障の制度をうまく使えるようにサポートしたりすべきだと。そして、消費税についても。そもそも老年人口がおおくなって社会保障費を確保できなくなるおそれがあったから、消費税を導入するという話になった。しかし消費税を導入したあとも医療負担増などで社会保障費が足りない状況になっている。老年人口の増加にあいまって、非正規雇用の人も増えている現在、社会保障費はますます足りない状況になりつつある。
こういった状況に対して消費税にもとづく歳入を上げたいという考えは分かるが、消費税の導入によってもっとも苦しむのは、ほんらい社会保障費でまかなうべきだった老年人口や失業者、非正規雇用の人間だと湯浅さんは指摘していた。消費税の増額は必要なのだろうが、社会保障の改善やいったんドロップアウトした人たちの再起の仕組みを作らないで消費税だけ増額すれば、問題はおおきくなるばかりだと。
ドロップアウトした人を再教育する仕組みが必要だという意見があった後で、スーツを来た国政側の人間はこんなことを言っていた。「再教育をしようとなんども試みたが、うまくいかなかった。社会保障を手厚くしようとお金を用意すると、お金だけかすめとろうとする人間だっている」。ぼくはそれを聞いて、要するにそこにあるのは不信だと思った。再教育しようとする側が生徒を信頼できていない。リスペクトがないから教育がうまくいかないのだ。同じことは生徒の側にも言えるだろう。生徒が先生をリスペクトしていないから、教育を受ける効果が上がらないのだ。
ぼくが日本で問題だと思うのは、不信があまりにも蔓延していることだ。労働者も役人も、「相手は悪いことをしようとしている。怠慢な人間だ」と不信をもっている。目の前にいる人にかかわることをおそれているし、自分になにかあったときに助けてもらえるとは思っていない。ある種のムラ的構造が保存されていて、身内以外は信用しない。そしてなお悪いことに、核家族化がすすんで身内がとても少なくなっている。失業した労働者たちを見ていると、ぼくなんかは「いったん実家に帰ればいいのに」と思う。でも画面に出てくる人はだれも「実家に帰る」という言葉を口にしない。テレビのコメンテーターたちも、口にしない。
彼らに帰る実家はないんだろうか。ないのかもしれないし、実家がないことが悪いと思わない。ただ、そういった身寄りのない人たちがたくさんいて、どこにも助けを求められずにもがいているのだとしたら、それは問題だろうと思う。家族や地域の構造は、ここ数十年おおきく変化してきた。むかしにおいては、「セーフティネット」というのは、「家族」や「地域」だったのだろう。なにかあったら家族や親戚が助けてくれるし、都会で仕事を失えば地域に帰るという手があった。地域にも仕事があっただろう。しかしいまでは、そういったセーフティネットが失われてしまったのではないか。
番組の終盤で、東京大学教授の神野直彦さんがおっしゃっていたのは、やはり信頼の問題だった。いまの日本には人のあいだの信頼がないと。いくら制度が充実してお金が用意されていても、相互に信頼する関係がないならば、日本人のあいだに幸せは訪れないだろうと。ぼくはこの意見に心から同意する。そして相互信頼が日本に訪れるためには、哲学が必要ではないかと思うのだ。たとえば、問題を解決しようという意志や、問題を解決したいと思わせる人の絆。自立と自律にもとづいた人や地域。そういったものが日本の社会で育ってほしいと思う。
という番組を見て興味深かった。とくに、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんが話されていたことが印象に残った。いわく、「この年末年始の連休は12月26日の金曜日から始まり、1月5日まで続く。これは平年よりも長いのですが、皆さんはご存知ですか? 解雇された労働者の方々の話を聞いていると、その連休の間、どうやって暮らせばいいかと皆心配している。役所も関連施設も年末年始は閉まるので、どこにも助けを求められない。連休を無事に過ごせるか分からない。それくらい切羽詰まっているんですよ」と。大変重い言葉だと感じられた。
また彼は、つい昨年あたりに過去最高益を出していながら今年は派遣労働者を大量に解雇するという自動車メーカーに対し、どうしてもう少しでも労働者を保護できないのかと訴えていた。企業活動はボランティアではないし、利益も出さなければならない。また現在の世界同時不況はたいへんに苛烈で、企業として生き残りのために奮闘努力しなければならない。それは分かるが、放り出された労働者はこの冬を越せるかどうかの状況にあるという内容だ。彼の言葉に反論することは難しい。
以下、番組を見ていて思ったことなど。日本では、社会不信が蔓延している。社会保障の制度はいちおう存在するけど、労働者の側はそれを知らなかったり、申請するのを面倒がったりしている。年金も、健康保険も、税金も、しくみが複雑すぎる。ふつうの日本人で、年金や健康保険や税金についてちゃんと理解している人がどれだけいるだろうか。すべての国民が知っているべきしくみで、国民を助けるためにあるのに、それは義務教育では教えられない。親も知らない。いったい誰が教えてくれるというんだろうか。
どんな優れた制度も、知らなければ使えない。為政者たちは、労働者たちにたいして「こういう制度がありますよ」と教えてまわるべきじゃないんだろうか。ところが現実は逆だ。労働者たちが制度を知らなければ、歳出を抑えられる。だから役所の人間は、労働者たちにできるだけ馬鹿でいてもらいたいと思っているんじゃないだろうか。そこにあるのは絶望的な相互不信だ。労働者たちのほうも役人にたいして不信感をもっている。役人や社会が、自分を救ってくれるとは思えない。だから何かを申請したり、救いの手を求めることをおそれたりする。
前述の湯浅さんは、社会保障を手厚くすべきと言っていた。職をうしなった人に職業訓練をほどこしたり、住まいのない人に住まいを提供したり、社会保障の制度をうまく使えるようにサポートしたりすべきだと。そして、消費税についても。そもそも老年人口がおおくなって社会保障費を確保できなくなるおそれがあったから、消費税を導入するという話になった。しかし消費税を導入したあとも医療負担増などで社会保障費が足りない状況になっている。老年人口の増加にあいまって、非正規雇用の人も増えている現在、社会保障費はますます足りない状況になりつつある。
こういった状況に対して消費税にもとづく歳入を上げたいという考えは分かるが、消費税の導入によってもっとも苦しむのは、ほんらい社会保障費でまかなうべきだった老年人口や失業者、非正規雇用の人間だと湯浅さんは指摘していた。消費税の増額は必要なのだろうが、社会保障の改善やいったんドロップアウトした人たちの再起の仕組みを作らないで消費税だけ増額すれば、問題はおおきくなるばかりだと。
ドロップアウトした人を再教育する仕組みが必要だという意見があった後で、スーツを来た国政側の人間はこんなことを言っていた。「再教育をしようとなんども試みたが、うまくいかなかった。社会保障を手厚くしようとお金を用意すると、お金だけかすめとろうとする人間だっている」。ぼくはそれを聞いて、要するにそこにあるのは不信だと思った。再教育しようとする側が生徒を信頼できていない。リスペクトがないから教育がうまくいかないのだ。同じことは生徒の側にも言えるだろう。生徒が先生をリスペクトしていないから、教育を受ける効果が上がらないのだ。
ぼくが日本で問題だと思うのは、不信があまりにも蔓延していることだ。労働者も役人も、「相手は悪いことをしようとしている。怠慢な人間だ」と不信をもっている。目の前にいる人にかかわることをおそれているし、自分になにかあったときに助けてもらえるとは思っていない。ある種のムラ的構造が保存されていて、身内以外は信用しない。そしてなお悪いことに、核家族化がすすんで身内がとても少なくなっている。失業した労働者たちを見ていると、ぼくなんかは「いったん実家に帰ればいいのに」と思う。でも画面に出てくる人はだれも「実家に帰る」という言葉を口にしない。テレビのコメンテーターたちも、口にしない。
彼らに帰る実家はないんだろうか。ないのかもしれないし、実家がないことが悪いと思わない。ただ、そういった身寄りのない人たちがたくさんいて、どこにも助けを求められずにもがいているのだとしたら、それは問題だろうと思う。家族や地域の構造は、ここ数十年おおきく変化してきた。むかしにおいては、「セーフティネット」というのは、「家族」や「地域」だったのだろう。なにかあったら家族や親戚が助けてくれるし、都会で仕事を失えば地域に帰るという手があった。地域にも仕事があっただろう。しかしいまでは、そういったセーフティネットが失われてしまったのではないか。
番組の終盤で、東京大学教授の神野直彦さんがおっしゃっていたのは、やはり信頼の問題だった。いまの日本には人のあいだの信頼がないと。いくら制度が充実してお金が用意されていても、相互に信頼する関係がないならば、日本人のあいだに幸せは訪れないだろうと。ぼくはこの意見に心から同意する。そして相互信頼が日本に訪れるためには、哲学が必要ではないかと思うのだ。たとえば、問題を解決しようという意志や、問題を解決したいと思わせる人の絆。自立と自律にもとづいた人や地域。そういったものが日本の社会で育ってほしいと思う。