メッセージ。 - diary

2008-07-29

# アメリカの食べ物

アメリカの食べ物は美味しくないと聞いていたので、いったいどれほどひどいのか知りたいなぁと思っていた。こういうのは、自分の足と舌で体験しないとなんとも言えないと思うので。それで今回2か月ぐらいの旅行でいろいろ食べて思ったこと:「アメリカの食べ物は、まずいというほどではない」。

今回は貧乏旅行ということもあり、レストランで飲み物込み一人3000円ぐらいまでのレストランしか体験していないのだけど、その範囲では「とびきり美味しいご飯」にありつくことはなかった。でも逆に、「これは不味くて完食できない」というご飯にありつくことも一度もなかった。(1回だけ例外があって、インド人街にあるインド人向けインド料理レストランだけは口に合わなくて少し残してしまった。)

だから、総じて言うと味は普通かなぁ。味の方向性は日本の洋食とかに近くて、口に合わないということはない。塩胡椒が足りなかったり、ちょっと旨みが足りないレストランもしばしばあったけど、目くじら立てるほどではないというか。ただ、朝御飯が甘いケーキだったり、どうしてもパンが多くなったりするので、それは日本人にはしんどいかなぁ。ご飯や麺を食べたくなったらタイ料理とかアジア料理のお店に行かなければいけないのだけど、そういったお店は都市部のダウンタウン以外で探すのが難しかったように思う。

たとえばお昼ご飯を安く(1000円未満で出来るだけ安く)済ませたいなと思ったら、どうしてもチップのいらないようなお店(ファーストフード)になりがち。そしてファーストフードといえばハンバーガー/サンドイッチ屋かピザ屋以外の選択肢がほとんどない。ラーメン屋とかカレー屋があればなぁと思うけど、そういうお店はたぶんなかった。スーパーに行けば、中華や和風(和風といっても照り焼きチキンとか肉類が多い)のお弁当が売っているので、それが一番安あがりかもしれない。

あと最近話題の「お弁当」について。たとえばアメリカの小中学生は遠足などのランチが「ポテトチップスとリンゴ一個」だったりするという話を聞く。日本人の感覚ではこれはひどいと感じるのだけど、そもそもポテトチップスに対する感覚が違うのだと今回の旅行で思った。日本ではポテトチップスは「おやつ」とかジャンクフードなので、お昼ご飯にそんなものを食べさせるというと親がひどくサボっているように感じるけど、これはちょっと公平ではないと思う。

聞くところによると、アメリカやヨーロッパの人は「おやつ」(デザート)に甘いものしか食べない。日本のお煎餅のような、塩気のあるおやつは存在しないのだ。じゃあポテトチップスは何か?というと、あれは「スナック」。「スナック」を辞書で引くと、「急いで取る食事、軽食」だから、れっきとしたご飯(食事)を指すのだね。メキシコ料理で食前にナチョスが出てきたり、ベトナム料理でえびせんべいが付いてくるのに近い感覚なんだろう。たぶん、アメリカのポテトチップスは日本のそれほど塩気が強くなくて、たくさん食べられるようになっている。

チップスはだいたいお芋が原料だから炭水化物。そう考えると、アメリカの人がお弁当にチップスを持たせるというのは、日本人でいうとお弁当におにぎりを持たせるという感覚に近いんじゃないだろうか。ベクトルはまぁ同じというか。要は個々の親がサボっているというよりも、文化がそのようになっているというか。

あと、アメリカの食べ物全般の話に戻ると、パスタがあまり食べられなかったのが残念だったなぁ。レストランのメニューにはパスタがあまり載っていない(あってもミートソースのスパゲティだけとか、よくて3種類から選べるとか)。どのレストランでもパスタは茹ですぎの傾向にあって、またイタリアンレストランは基本的に高かった。カルボナーラを食べたかったけど、日本や本場イタリア風のカルボナーラは見つけられなかった。そういう感じで、どうしても毎食のようにパンを食べることになる。それがちょっとしんどかったなぁ。
2008-07-29 11:40:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# クレジットカードの話の追記

最近Webサーバーのリファラを見ていないので気付いていなかったのだけど、「クレジットカードの話」について、shiroさんとodzさんからコメントをもらっていた。ありがとうございます。m(_ _)m

http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
 現金をデポジットすることで泊まれるはず

http://d.hatena.ne.jp/odz/20080724/1216907924
 日本で保証人を要求されるのと本質的に同じこと

情報とご意見ありがとうございます。ホテルにとっては、「クレジットカードを持っているかどうか(カード会社による信用の担保があるかどうか)」が問題なのではなく、実際に支払いがなされるかどうかというリスクが問題だから、予約を受け付けてもらえないんだという話ですね。なるほどたしかにそうかも。

http://d.hatena.ne.jp/odz/20080724/1216907924
 当たり前のように身分証明書として運転免許法を要求する日本の社会もアレ

これもたしかに。システムにおいては個人(オブジェクト)の一意性を特定することが重要だよという話に還元できのかなぁ。あとは遅延支払いの信用をどう担保するかというか。まぁそんな単純なことではないか。

ちなみに、「アメリカで銀行口座を作るのは難しく、審査が緩い銀行でも学生ビザとかが必要らしい」というような情報を日本人留学生の人から聞いたりもしていました。旅行者や留学生は暗闇を灯りも持たずに歩いている気分になるので、とくにちょっと複雑なアメリカの金融システムについて怖く感じる面があるのかなぁと思ったりします。

今回ぼくが書いたことは、あくまで旅行の2か月のあいだに会った人や体験にもとづいた感じたことなので、印象論になっている面は少なからずあります。それでも感じたことを書くことで掘り起こされるもがあるかもしれないということで。ご感想などお気軽にいただけるとうれしいです。
2008-07-29 09:40:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-27

# 一人称について

一人称をどう表現するかというのは、なかなか難しい。たとえばおいらは、小学校に上がるときだったかに親から「ちゃんと自分のことを僕と言うんだよ」だかなんだか教わったものだ。それまでぼくは、ぼく自身のことを「僕」とは表現することがなかったし、そうする必要もなかったのだろう。だからぼくは、ぼくをぼくと表現することに、なんとも言えない座りの悪さを覚えた。けれどもまぁ、そう教わったからには、自分のことをぼくと表現しながら、ぼくは小学生生活をスタートすることにした。ところがこの試みは、すぐに問題にぶつかる。小学生の男というものは、自分のことをあまり「僕」とは表現しないからだ。ぼくの通っていた学校では、その当時自分のことは「俺」と表現する男の子が多くて、ぼくはすぐに、自分のことを「俺」と表現するほうが適切だろうと分かった。それでぼくはぼくのことを「俺」と呼ぶことにした。いずれにせよ、そのようにして、人は自己の人格を作っていく。

「さっちゃんはね、さちこっていうんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のことさっちゃんっていうんだよ。かわいいね、さっちゃん」という歌詞がある。けれどぼくは、さっちゃんのことを可愛いとは思わない。彼女は正しいと思う。さっちゃんは家では、「さっちゃん」と呼ばれているのだろう。親や兄弟が自分のことを「さっちゃん」と呼ぶのだから、「自分」は「さっちゃん」以外のなにものでもない。少なくとも第一義的な人格として、自分は「さっちゃん」なのだ。人が自分のことを「わたし」などと呼ばねばならないのは、その場に自分を知らない人がいるからだ。彼らは「さっちゃん」という自己のことを知らない。だから自己を表現する言葉として「わたし」を使う。でも結局のところ、わたしの本当の自己は、どちらかというと「さっちゃん」のほうが近い。そちらのほうが「本当」だ。

自己のことを「さっちゃん」ではなく「僕」や「俺」や「わたし」などと表現するとき、人間は第二義以降の自己人格を意識している。その言葉は、「自分のことを知らない誰か」に対して自分を表現するために使われる。だからもし、その場に自分を知らない誰かがいないならば、人は「僕」や「俺」や「わたし」という言葉を使わない。逆に言うと、「僕」や「俺」や「わたし」などといった言葉が使われるとき、人は第三者の存在を意識し、彼らのために何かを表現しようとしている。彼らと自分との関係において、人は自己をなんと呼ぶか決める。そしてまた本質的に、自己が認識する内容を誰かに表現しようという試みは、ちょっと難しいのだ。そこにいる「第三者」が誰であるかによって表現は変えるべきものであるし、第三者がどんな人間か理解するのが難しいため、表現は試行錯誤される。また一方で、事象を理解するというのも難しい問題だ。自己が直面しているこの事象が、いったいなんであるかを理解しようとするとき、人はさまざまな角度からその事象を見ようとする。そういった「さまざまな角度」に立とうとしたとき、人は「僕や俺や私」といった複数の自己人格を用いることがあるだろう。
2008-07-27 10:35:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-19

# アメリカのクレジットカードの話

そういえば、アメリカでこんなことを思ったんだった。

アメリカの長期滞在型ホテルで出会ったスペイン人のおばさんが、今回の渡航のときにクレジットカードを持ってこなかったんだって。現金をたくさん持ってきたのでクレジットカードは置いてきたらしい。最初の滞在先だけスペインにいるときにホテルの予約をして、あとはアメリカに着いてから予定を立てて旅行したりしようと思っていたとのこと。

ところが、アメリカでいざ旅行しようとしてみると、クレジットカードがないとなにもできないという。クレジットカードがないとホテルが予約を受け付けてくれないらしい。現金で払うと言っても取り合ってくれないので、せっかくアメリカに来たのに移動ができなくて本当に困っていた。後から考えると、アメリカでクレジットカードを紛失したことにして、カード会社に再発行してもらうとかできないのかなぁと思うけど、そのおばちゃんにその後会う機会がほとんどなくてその案について言いそびれてしまった。

それで、そのおばちゃんの言うことがどこまで本当か(確実なのか)よく分からないのだけど、クレジットカードがないと(現金を持っていても)ホテルに泊まれないという話が本当だとすれば、ひどい話だなぁと思う。それはつまり、現代の身分制じゃないかい?と。ぼくはこの話を聞いて、江戸時代に農民が住んでる村から外に出ることを許されなかったという話を思い出した(この話自体も信憑性は未確認だけど)。

しかも、クレジットカードというのは公共機関が発行しているものではなく、たんに民間企業が発行しているもので、本来は持っていない人がいても当たり前のもののように、個人的には思う。だからクレジットカードを持っていないとホテルに泊まれないなんてことは、本来はあってはいけないものなのではないか。いや、いけないということはない。というか道徳的な観点でそれを論じるつもりはなくって、社会インフラの発達性としてはネガティブな兆候なんじゃないかなぁと。

たとえば50円という廉価で日本全国どこへでも葉書を送れたり、日本全国どこへでも電話網がつながっていたりすることが社会システムを大きく効率化して近代的生産性を実現するように、人間が国内を移動するといったベーシックな社会インフラについては公共サービスとして完全性を高めたほうが、社会システムの効率としては良いのではないかと思う。それを、民間機関が発行・支配するようなシステムが必須になっているというのは変だ。あるいはそのような移動性が、国内にいるすべての人間に等しく提供されていることが問題だというなら、「20歳以上の大人はクレジットカードを持てる」とかにしてみるとか。

社会的ステータス(収入とか学歴とか)の多寡で、クレジットカードを持てるかどうか決まるというアメリカのシステムは、そしてクレジットカードがないといろんなことができないという社会システムはどうなのかなぁと今回思った次第。ただし、上記のふじさわの考えについては、ほんの2か月滞在しただけなので事実誤認しているところもあると思う。このあたりについては、もうちょっと勉強しても面白いかもしれないなぁ。
2008-07-19 20:06:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日本の経済が弱まっている原因について

日本のITは20年間進化していない──野口悠紀雄が語る
http://ascii.jp/elem/000/000/151/151210/

「日本の社会が新しい技術変化に対応しにくい」という見解には同意だけど、「ITのような分散型技術変化に対応しにくいから今のように経済状態が悪くなった」とは思わないなぁ。

今日本の経済状態が悪いのは、イノベーションのジレンマにあるように「一度成功した組織は変化に対応できない」という原因が大きいんじゃないかと考えている。

日本の経済は前世代における戦後復興で大きく成功した。それを推進したシステムや世代の思考がいまも動いていて、前世代のやり方を撤回し再構成することが困難になっている。そして、そのような前世代のやり方の撤回と再構成というのは、根本的に日本社会の苦手とするところだ。

たしか勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったときに述べた言葉だったと思うのだけど、彼が日本に帰ってきて、アメリカと日本の違いについて見解を求められたときにこう答えたという。「アメリカのすごいところは、日本と違って優秀で能力のある人間が社会を動かす立場に就けることです」と。

日本では、優秀で能力のある個人ではなく、年功序列や世襲のようなコネクションをもとに人員が配置される。またそのような人員配置はほとんど変化されない。そのような社会構造は、社会を一変するような変化に対して迅速に対応できない(かなりゆっくりと、また不完全に対応する)。要するに日本の社会は変化に対する追従性が低い(ただしこれは日本に限らず、成熟した社会や農耕型社会にありがちな特性のように思う)。

そして現在日本が直面している変化というのは、ITという新しい技術のGPT化ということではなくて、ソ連の崩壊からロシア・中国の経済的台頭といった世界的経済構造の変化だと思う。こういった世界的経済構造の変化が起こっているのに、日本の社会構造はそれに対応できていない。

従来型の加工貿易による日本のビジネスモデルは、日本で加工・生産した商品(電化製品や自動車)をアメリカやヨーロッパといった「日本よりも先進の国」に対して輸出するという形をとっていた。でもこの形は、(1)アメリカ経済が強く、(2)これといったライバル国がおらず、(3)円が比較的安かったという条件が整っていたから成り立っていたのではないかと思っている。

そして現在では、(1)アメリカ経済があまり強くなく、(2)中国などのライバル国がいて、(3)円が比較的高いため(そのようにふじさわは仮説を立てており、それが正しいとするならば)、日本の経済が弱い状態になっているだろうと考えている。

ええと、以上の見解はこれまでにもここで書いていることなのだけど、一応上記の記事を読んでぐるっともう一度考えて(自分的に)メモしなきゃと思って書いた。記事が十分興味深かったためということで。野口さんの新しい本は読んでみたいなぁ。とくにITがアメリカ経済に寄与しているかをどのように評価しているのかとか気になる。ぼくはそういうのの科学的評価法を知っとくべきだべ。
2008-07-19 19:26:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-10

# 水と山

アメリカ西海岸の内陸部は、乾燥していて暑い。日本より緯度が低いのかなぁ。日が沈むのも遅くって、夜の8時半ごろまで太陽が見える。(サマータイムが実施されてるから、実際は夜の9時半ごろ?)。そんな風に暑いので、内陸部を走っているとほとんど砂漠地帯を走っているみたいだ。そして、そんな風に乾燥地帯を走っているとき、川や湖を見つけると、水がとても美しいもののように感じる。水は高い山から流れてくる。山に降った雨が川になって流れてくるのだ。逆に言うと、この乾燥地帯では、山のないところには川も湖もないのかもしれない。だとすれば、西海岸の豊かさは、シエラネバダやロッキーといった山脈の存在に支えられているのだろう。アメリカを走ってみて、山というのはありがたいものなんだなぁと思うようになった。日本にはどこに行っても山があって川があって、水も当たり前のものだ。でも世界を見渡すと、そうじゃないところもたくさんあるのだろうなぁと思う。
2008-07-10 01:31:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-04

# アメリカに来ています

ええと、更新が滞っておりましてすまんです。

現在ふじさわ、アメリカに来ています。アメリカに来たのは、英語を勉強したいなと思ったのと、アメリカの現在を自分の目で見て理解したいなと思ったのと、まぁほかにもいろいろ理由はあるんですけど、とにかくアメリカに行くことに決めたのでした。

それで、4月の終わりに会社を辞め、5月いっぱいは準備をして、5月29日から2か月の予定でカリフォルニアに来ています。最初の1か月はサンフランシスコに滞在して、英語の学校に通ったりしていました。6月の29日からは、レンタカーを借りてカリフォルニアをぶらぶら旅行しています。昨日と今日は、ヨセミテの国立公園に行きました。

ネットにつながりにくかったり、ナンダカンダやることがいっぱいあったりで更新が滞っているのですけど、元気にやっています。
2008-07-04 14:40:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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