メッセージ。 - diary
2008-07-27
# 一人称について
一人称をどう表現するかというのは、なかなか難しい。たとえばおいらは、小学校に上がるときだったかに親から「ちゃんと自分のことを僕と言うんだよ」だかなんだか教わったものだ。それまでぼくは、ぼく自身のことを「僕」とは表現することがなかったし、そうする必要もなかったのだろう。だからぼくは、ぼくをぼくと表現することに、なんとも言えない座りの悪さを覚えた。けれどもまぁ、そう教わったからには、自分のことをぼくと表現しながら、ぼくは小学生生活をスタートすることにした。ところがこの試みは、すぐに問題にぶつかる。小学生の男というものは、自分のことをあまり「僕」とは表現しないからだ。ぼくの通っていた学校では、その当時自分のことは「俺」と表現する男の子が多くて、ぼくはすぐに、自分のことを「俺」と表現するほうが適切だろうと分かった。それでぼくはぼくのことを「俺」と呼ぶことにした。いずれにせよ、そのようにして、人は自己の人格を作っていく。
「さっちゃんはね、さちこっていうんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のことさっちゃんっていうんだよ。かわいいね、さっちゃん」という歌詞がある。けれどぼくは、さっちゃんのことを可愛いとは思わない。彼女は正しいと思う。さっちゃんは家では、「さっちゃん」と呼ばれているのだろう。親や兄弟が自分のことを「さっちゃん」と呼ぶのだから、「自分」は「さっちゃん」以外のなにものでもない。少なくとも第一義的な人格として、自分は「さっちゃん」なのだ。人が自分のことを「わたし」などと呼ばねばならないのは、その場に自分を知らない人がいるからだ。彼らは「さっちゃん」という自己のことを知らない。だから自己を表現する言葉として「わたし」を使う。でも結局のところ、わたしの本当の自己は、どちらかというと「さっちゃん」のほうが近い。そちらのほうが「本当」だ。
自己のことを「さっちゃん」ではなく「僕」や「俺」や「わたし」などと表現するとき、人間は第二義以降の自己人格を意識している。その言葉は、「自分のことを知らない誰か」に対して自分を表現するために使われる。だからもし、その場に自分を知らない誰かがいないならば、人は「僕」や「俺」や「わたし」という言葉を使わない。逆に言うと、「僕」や「俺」や「わたし」などといった言葉が使われるとき、人は第三者の存在を意識し、彼らのために何かを表現しようとしている。彼らと自分との関係において、人は自己をなんと呼ぶか決める。そしてまた本質的に、自己が認識する内容を誰かに表現しようという試みは、ちょっと難しいのだ。そこにいる「第三者」が誰であるかによって表現は変えるべきものであるし、第三者がどんな人間か理解するのが難しいため、表現は試行錯誤される。また一方で、事象を理解するというのも難しい問題だ。自己が直面しているこの事象が、いったいなんであるかを理解しようとするとき、人はさまざまな角度からその事象を見ようとする。そういった「さまざまな角度」に立とうとしたとき、人は「僕や俺や私」といった複数の自己人格を用いることがあるだろう。
「さっちゃんはね、さちこっていうんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のことさっちゃんっていうんだよ。かわいいね、さっちゃん」という歌詞がある。けれどぼくは、さっちゃんのことを可愛いとは思わない。彼女は正しいと思う。さっちゃんは家では、「さっちゃん」と呼ばれているのだろう。親や兄弟が自分のことを「さっちゃん」と呼ぶのだから、「自分」は「さっちゃん」以外のなにものでもない。少なくとも第一義的な人格として、自分は「さっちゃん」なのだ。人が自分のことを「わたし」などと呼ばねばならないのは、その場に自分を知らない人がいるからだ。彼らは「さっちゃん」という自己のことを知らない。だから自己を表現する言葉として「わたし」を使う。でも結局のところ、わたしの本当の自己は、どちらかというと「さっちゃん」のほうが近い。そちらのほうが「本当」だ。
自己のことを「さっちゃん」ではなく「僕」や「俺」や「わたし」などと表現するとき、人間は第二義以降の自己人格を意識している。その言葉は、「自分のことを知らない誰か」に対して自分を表現するために使われる。だからもし、その場に自分を知らない誰かがいないならば、人は「僕」や「俺」や「わたし」という言葉を使わない。逆に言うと、「僕」や「俺」や「わたし」などといった言葉が使われるとき、人は第三者の存在を意識し、彼らのために何かを表現しようとしている。彼らと自分との関係において、人は自己をなんと呼ぶか決める。そしてまた本質的に、自己が認識する内容を誰かに表現しようという試みは、ちょっと難しいのだ。そこにいる「第三者」が誰であるかによって表現は変えるべきものであるし、第三者がどんな人間か理解するのが難しいため、表現は試行錯誤される。また一方で、事象を理解するというのも難しい問題だ。自己が直面しているこの事象が、いったいなんであるかを理解しようとするとき、人はさまざまな角度からその事象を見ようとする。そういった「さまざまな角度」に立とうとしたとき、人は「僕や俺や私」といった複数の自己人格を用いることがあるだろう。
2008-07-19
# アメリカのクレジットカードの話
そういえば、アメリカでこんなことを思ったんだった。
アメリカの長期滞在型ホテルで出会ったスペイン人のおばさんが、今回の渡航のときにクレジットカードを持ってこなかったんだって。現金をたくさん持ってきたのでクレジットカードは置いてきたらしい。最初の滞在先だけスペインにいるときにホテルの予約をして、あとはアメリカに着いてから予定を立てて旅行したりしようと思っていたとのこと。
ところが、アメリカでいざ旅行しようとしてみると、クレジットカードがないとなにもできないという。クレジットカードがないとホテルが予約を受け付けてくれないらしい。現金で払うと言っても取り合ってくれないので、せっかくアメリカに来たのに移動ができなくて本当に困っていた。後から考えると、アメリカでクレジットカードを紛失したことにして、カード会社に再発行してもらうとかできないのかなぁと思うけど、そのおばちゃんにその後会う機会がほとんどなくてその案について言いそびれてしまった。
それで、そのおばちゃんの言うことがどこまで本当か(確実なのか)よく分からないのだけど、クレジットカードがないと(現金を持っていても)ホテルに泊まれないという話が本当だとすれば、ひどい話だなぁと思う。それはつまり、現代の身分制じゃないかい?と。ぼくはこの話を聞いて、江戸時代に農民が住んでる村から外に出ることを許されなかったという話を思い出した(この話自体も信憑性は未確認だけど)。
しかも、クレジットカードというのは公共機関が発行しているものではなく、たんに民間企業が発行しているもので、本来は持っていない人がいても当たり前のもののように、個人的には思う。だからクレジットカードを持っていないとホテルに泊まれないなんてことは、本来はあってはいけないものなのではないか。いや、いけないということはない。というか道徳的な観点でそれを論じるつもりはなくって、社会インフラの発達性としてはネガティブな兆候なんじゃないかなぁと。
たとえば50円という廉価で日本全国どこへでも葉書を送れたり、日本全国どこへでも電話網がつながっていたりすることが社会システムを大きく効率化して近代的生産性を実現するように、人間が国内を移動するといったベーシックな社会インフラについては公共サービスとして完全性を高めたほうが、社会システムの効率としては良いのではないかと思う。それを、民間機関が発行・支配するようなシステムが必須になっているというのは変だ。あるいはそのような移動性が、国内にいるすべての人間に等しく提供されていることが問題だというなら、「20歳以上の大人はクレジットカードを持てる」とかにしてみるとか。
社会的ステータス(収入とか学歴とか)の多寡で、クレジットカードを持てるかどうか決まるというアメリカのシステムは、そしてクレジットカードがないといろんなことができないという社会システムはどうなのかなぁと今回思った次第。ただし、上記のふじさわの考えについては、ほんの2か月滞在しただけなので事実誤認しているところもあると思う。このあたりについては、もうちょっと勉強しても面白いかもしれないなぁ。
アメリカの長期滞在型ホテルで出会ったスペイン人のおばさんが、今回の渡航のときにクレジットカードを持ってこなかったんだって。現金をたくさん持ってきたのでクレジットカードは置いてきたらしい。最初の滞在先だけスペインにいるときにホテルの予約をして、あとはアメリカに着いてから予定を立てて旅行したりしようと思っていたとのこと。
ところが、アメリカでいざ旅行しようとしてみると、クレジットカードがないとなにもできないという。クレジットカードがないとホテルが予約を受け付けてくれないらしい。現金で払うと言っても取り合ってくれないので、せっかくアメリカに来たのに移動ができなくて本当に困っていた。後から考えると、アメリカでクレジットカードを紛失したことにして、カード会社に再発行してもらうとかできないのかなぁと思うけど、そのおばちゃんにその後会う機会がほとんどなくてその案について言いそびれてしまった。
それで、そのおばちゃんの言うことがどこまで本当か(確実なのか)よく分からないのだけど、クレジットカードがないと(現金を持っていても)ホテルに泊まれないという話が本当だとすれば、ひどい話だなぁと思う。それはつまり、現代の身分制じゃないかい?と。ぼくはこの話を聞いて、江戸時代に農民が住んでる村から外に出ることを許されなかったという話を思い出した(この話自体も信憑性は未確認だけど)。
しかも、クレジットカードというのは公共機関が発行しているものではなく、たんに民間企業が発行しているもので、本来は持っていない人がいても当たり前のもののように、個人的には思う。だからクレジットカードを持っていないとホテルに泊まれないなんてことは、本来はあってはいけないものなのではないか。いや、いけないということはない。というか道徳的な観点でそれを論じるつもりはなくって、社会インフラの発達性としてはネガティブな兆候なんじゃないかなぁと。
たとえば50円という廉価で日本全国どこへでも葉書を送れたり、日本全国どこへでも電話網がつながっていたりすることが社会システムを大きく効率化して近代的生産性を実現するように、人間が国内を移動するといったベーシックな社会インフラについては公共サービスとして完全性を高めたほうが、社会システムの効率としては良いのではないかと思う。それを、民間機関が発行・支配するようなシステムが必須になっているというのは変だ。あるいはそのような移動性が、国内にいるすべての人間に等しく提供されていることが問題だというなら、「20歳以上の大人はクレジットカードを持てる」とかにしてみるとか。
社会的ステータス(収入とか学歴とか)の多寡で、クレジットカードを持てるかどうか決まるというアメリカのシステムは、そしてクレジットカードがないといろんなことができないという社会システムはどうなのかなぁと今回思った次第。ただし、上記のふじさわの考えについては、ほんの2か月滞在しただけなので事実誤認しているところもあると思う。このあたりについては、もうちょっと勉強しても面白いかもしれないなぁ。
# 日本の経済が弱まっている原因について
日本のITは20年間進化していない──野口悠紀雄が語る
http://ascii.jp/elem/000/000/151/151210/
「日本の社会が新しい技術変化に対応しにくい」という見解には同意だけど、「ITのような分散型技術変化に対応しにくいから今のように経済状態が悪くなった」とは思わないなぁ。
今日本の経済状態が悪いのは、イノベーションのジレンマにあるように「一度成功した組織は変化に対応できない」という原因が大きいんじゃないかと考えている。
日本の経済は前世代における戦後復興で大きく成功した。それを推進したシステムや世代の思考がいまも動いていて、前世代のやり方を撤回し再構成することが困難になっている。そして、そのような前世代のやり方の撤回と再構成というのは、根本的に日本社会の苦手とするところだ。
たしか勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったときに述べた言葉だったと思うのだけど、彼が日本に帰ってきて、アメリカと日本の違いについて見解を求められたときにこう答えたという。「アメリカのすごいところは、日本と違って優秀で能力のある人間が社会を動かす立場に就けることです」と。
日本では、優秀で能力のある個人ではなく、年功序列や世襲のようなコネクションをもとに人員が配置される。またそのような人員配置はほとんど変化されない。そのような社会構造は、社会を一変するような変化に対して迅速に対応できない(かなりゆっくりと、また不完全に対応する)。要するに日本の社会は変化に対する追従性が低い(ただしこれは日本に限らず、成熟した社会や農耕型社会にありがちな特性のように思う)。
そして現在日本が直面している変化というのは、ITという新しい技術のGPT化ということではなくて、ソ連の崩壊からロシア・中国の経済的台頭といった世界的経済構造の変化だと思う。こういった世界的経済構造の変化が起こっているのに、日本の社会構造はそれに対応できていない。
従来型の加工貿易による日本のビジネスモデルは、日本で加工・生産した商品(電化製品や自動車)をアメリカやヨーロッパといった「日本よりも先進の国」に対して輸出するという形をとっていた。でもこの形は、(1)アメリカ経済が強く、(2)これといったライバル国がおらず、(3)円が比較的安かったという条件が整っていたから成り立っていたのではないかと思っている。
そして現在では、(1)アメリカ経済があまり強くなく、(2)中国などのライバル国がいて、(3)円が比較的高いため(そのようにふじさわは仮説を立てており、それが正しいとするならば)、日本の経済が弱い状態になっているだろうと考えている。
ええと、以上の見解はこれまでにもここで書いていることなのだけど、一応上記の記事を読んでぐるっともう一度考えて(自分的に)メモしなきゃと思って書いた。記事が十分興味深かったためということで。野口さんの新しい本は読んでみたいなぁ。とくにITがアメリカ経済に寄与しているかをどのように評価しているのかとか気になる。ぼくはそういうのの科学的評価法を知っとくべきだべ。
http://ascii.jp/elem/000/000/151/151210/
「日本の社会が新しい技術変化に対応しにくい」という見解には同意だけど、「ITのような分散型技術変化に対応しにくいから今のように経済状態が悪くなった」とは思わないなぁ。
今日本の経済状態が悪いのは、イノベーションのジレンマにあるように「一度成功した組織は変化に対応できない」という原因が大きいんじゃないかと考えている。
日本の経済は前世代における戦後復興で大きく成功した。それを推進したシステムや世代の思考がいまも動いていて、前世代のやり方を撤回し再構成することが困難になっている。そして、そのような前世代のやり方の撤回と再構成というのは、根本的に日本社会の苦手とするところだ。
たしか勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったときに述べた言葉だったと思うのだけど、彼が日本に帰ってきて、アメリカと日本の違いについて見解を求められたときにこう答えたという。「アメリカのすごいところは、日本と違って優秀で能力のある人間が社会を動かす立場に就けることです」と。
日本では、優秀で能力のある個人ではなく、年功序列や世襲のようなコネクションをもとに人員が配置される。またそのような人員配置はほとんど変化されない。そのような社会構造は、社会を一変するような変化に対して迅速に対応できない(かなりゆっくりと、また不完全に対応する)。要するに日本の社会は変化に対する追従性が低い(ただしこれは日本に限らず、成熟した社会や農耕型社会にありがちな特性のように思う)。
そして現在日本が直面している変化というのは、ITという新しい技術のGPT化ということではなくて、ソ連の崩壊からロシア・中国の経済的台頭といった世界的経済構造の変化だと思う。こういった世界的経済構造の変化が起こっているのに、日本の社会構造はそれに対応できていない。
従来型の加工貿易による日本のビジネスモデルは、日本で加工・生産した商品(電化製品や自動車)をアメリカやヨーロッパといった「日本よりも先進の国」に対して輸出するという形をとっていた。でもこの形は、(1)アメリカ経済が強く、(2)これといったライバル国がおらず、(3)円が比較的安かったという条件が整っていたから成り立っていたのではないかと思っている。
そして現在では、(1)アメリカ経済があまり強くなく、(2)中国などのライバル国がいて、(3)円が比較的高いため(そのようにふじさわは仮説を立てており、それが正しいとするならば)、日本の経済が弱い状態になっているだろうと考えている。
ええと、以上の見解はこれまでにもここで書いていることなのだけど、一応上記の記事を読んでぐるっともう一度考えて(自分的に)メモしなきゃと思って書いた。記事が十分興味深かったためということで。野口さんの新しい本は読んでみたいなぁ。とくにITがアメリカ経済に寄与しているかをどのように評価しているのかとか気になる。ぼくはそういうのの科学的評価法を知っとくべきだべ。
2008-07-10
# 水と山
アメリカ西海岸の内陸部は、乾燥していて暑い。日本より緯度が低いのかなぁ。日が沈むのも遅くって、夜の8時半ごろまで太陽が見える。(サマータイムが実施されてるから、実際は夜の9時半ごろ?)。そんな風に暑いので、内陸部を走っているとほとんど砂漠地帯を走っているみたいだ。そして、そんな風に乾燥地帯を走っているとき、川や湖を見つけると、水がとても美しいもののように感じる。水は高い山から流れてくる。山に降った雨が川になって流れてくるのだ。逆に言うと、この乾燥地帯では、山のないところには川も湖もないのかもしれない。だとすれば、西海岸の豊かさは、シエラネバダやロッキーといった山脈の存在に支えられているのだろう。アメリカを走ってみて、山というのはありがたいものなんだなぁと思うようになった。日本にはどこに行っても山があって川があって、水も当たり前のものだ。でも世界を見渡すと、そうじゃないところもたくさんあるのだろうなぁと思う。
2008-07-04
# アメリカに来ています
ええと、更新が滞っておりましてすまんです。
現在ふじさわ、アメリカに来ています。アメリカに来たのは、英語を勉強したいなと思ったのと、アメリカの現在を自分の目で見て理解したいなと思ったのと、まぁほかにもいろいろ理由はあるんですけど、とにかくアメリカに行くことに決めたのでした。
それで、4月の終わりに会社を辞め、5月いっぱいは準備をして、5月29日から2か月の予定でカリフォルニアに来ています。最初の1か月はサンフランシスコに滞在して、英語の学校に通ったりしていました。6月の29日からは、レンタカーを借りてカリフォルニアをぶらぶら旅行しています。昨日と今日は、ヨセミテの国立公園に行きました。
ネットにつながりにくかったり、ナンダカンダやることがいっぱいあったりで更新が滞っているのですけど、元気にやっています。
現在ふじさわ、アメリカに来ています。アメリカに来たのは、英語を勉強したいなと思ったのと、アメリカの現在を自分の目で見て理解したいなと思ったのと、まぁほかにもいろいろ理由はあるんですけど、とにかくアメリカに行くことに決めたのでした。
それで、4月の終わりに会社を辞め、5月いっぱいは準備をして、5月29日から2か月の予定でカリフォルニアに来ています。最初の1か月はサンフランシスコに滞在して、英語の学校に通ったりしていました。6月の29日からは、レンタカーを借りてカリフォルニアをぶらぶら旅行しています。昨日と今日は、ヨセミテの国立公園に行きました。
ネットにつながりにくかったり、ナンダカンダやることがいっぱいあったりで更新が滞っているのですけど、元気にやっています。
2008-05-15
# サーバー移転作業にともない、しばらく断続的な接続障害が起きる可能性があります
2008年5月15日現在この日記は自宅サーバーで運用しているのですが、今後はレンタルサーバーに移行しようと思っています。ただ、なにぶん廉価なレンタルサーバー(さくらインターネットの共用サーバー)に移行する予定でして、日記とメールにかんして移行作業のあいだつながりにくくなったり、うまく動かなくてアドレス自体を変更させてもらう可能性があります。もし24時間以上の間ずっとつながらないという人がいらしたら、すみませんが yoshiharu.fujisawa at gmail.com までメールをくださいませ。