メッセージ。 - diary
2008-03-14
# 「フック」の補足
「フック」というのはプログラマの用語で、「とっかかりをつかむ」というような意味です。
大きなプログラムでは、機能を追加したりカスタマイズしたりしやすいように、プログラムのそこかしこに「フック」が設けられていることがあるのです。「フック」というのは、「ここで(もし誰かが設定しさえすれば)別のプログラムをちょっと呼び出しますよ」といった構造です。大本の大きなプログラムを作った人が、ほかのプログラマやユーザーの利便性のために、そういった構造を大本のプログラムのそこかしこに仕込むわけですね。
プログラマにとって「フック」のイメージは、たとえばロッククライマーにとって「どの岩に手をかけてどの岩に足をかけるか」を考えるときのイメージに似ています。
大きなプログラムでは、機能を追加したりカスタマイズしたりしやすいように、プログラムのそこかしこに「フック」が設けられていることがあるのです。「フック」というのは、「ここで(もし誰かが設定しさえすれば)別のプログラムをちょっと呼び出しますよ」といった構造です。大本の大きなプログラムを作った人が、ほかのプログラマやユーザーの利便性のために、そういった構造を大本のプログラムのそこかしこに仕込むわけですね。
プログラマにとって「フック」のイメージは、たとえばロッククライマーにとって「どの岩に手をかけてどの岩に足をかけるか」を考えるときのイメージに似ています。
# 日記
健康志向なのか、全くどうでもいいのかよく判らない食生活
笑っちゃった。微笑ましくって好きです。
雑穀ご飯はおいしいとおいらも思う。でも雑穀ってちょっと高いのだよね。なんでじゃろ。
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昔からぼくは友達がほとんどいない。それはひとえにぼくの不徳の致すところだけど、そんなぼくとでもたまーに遊んでくれる人がいて、経験的に、そういう人は(ほぼ)すべて女の人だ。「遊んでくれる」というか、客観的に見ればこっちから「かまってかまって」としているのかもしれないけど。
や、自分はいったいなにを書いてるんだろう。日本語は難しい。んー。なにが言いたいかというと、「なんでかなぁと思って」というか。基本的に、ぼくは女の人に対してはけっこう気を遣っていて(しかも明後日の方向に気を遣っていて)、できるだけ距離を置こうと考えている。そうしているにもかかわらず、どうして自分のまわりに(たまにとはいえ)女の人がいるのかなぁ、というか。ん? こんなこと書いていいんだっけか?
いや、違うなぁ。こういうことが書きたかったわけじゃない。なんだろう。そのー。たとえばぼくは、男の人に声をかけるのが憚られるところがある。世の中には、男どうしで服を買ったりお酒を飲みにいったりする人がいるけど、どうもぼくはそういうことができない。誘えないのだ。「ぼくなんかと服を買いにいって、あるいはお酒を飲みにいって、(彼にとって)なんの意味がある?」というように考えてしまう。
意味はあるのかもしれない。ないのかもしれない。グレーなのかもしれない。でもとにかく、ぼくは男の人とつるむということが、うまくできないように感じてしまう。だからうまく誘えないし、一人で遊ぶことが多い。それは、服とかお酒に限らず、仕事でも趣味でもそうだ。なにをするにしても、ぼくは基本的に一人。ただ、そんなぼくでもたまに友達と遊ぶことがあって、そういうときの「友達」というのが基本的に女の子になる。
どうして女の子とつるんだり遊んだりするかというと、それは基本的に「フックしやすいからだ」と言えるかもしれない。「お酒飲みにいこうよ」とか、そこまでいかなくても何かの折に一声かけるとか、そういうことは、相手の人が異性であるときのほうがやりやすい。だってそこには、誘う理由があるから。ぼくが男で、きみが女なら、それだけで十分の理由になるし、実際のところ一緒に会って時間をすごすとしても、たいていの場合はうまくやれる。
(たまに気の合わない女の人がいてさんざんな目にもあうけど。あとこれはあくまでも「当社比」。向こうが実際のところどう感じているかは知らない。)
それともう1つ。そんな風にして女の子と遊ぶ(ここでの「遊ぶ」にはたまに軽口を叩きあうことを含む)ことがあるけど、実際のところぼくとしては、それほど下心があるわけではないことも多い。や、下心はゼロではない。ただ、ゼロではなくてじゃあいくつぐらいあるかというと、「フックしやすさ分ぐらい」というか。ただ会って、ご飯を食べて、「久しぶりだねー」とか「あれからどうしてたー?」とか、そういう話をすることで十分満足する。それこそが満足というか。あ、駅だ。とりあえずここまで。
2008-03-05
# 技術の国外流出
『日本は技術立国なのだから、技術の国外流出を防がなくてはいけない』。
んー、どうだろ。ぼくは基本的に、「技術の国外流出は防いでもいい。防ぐ方向もやりつつ」と考えてる。
これは大きい問題だから、整理しようとすると時間がかかるけど。
まず1つとして、「日本は技術立国」というのは、開国後必要にせまられて立てた基本方針で、そろそろ見直してもよいかな、と。いずれにせよ非資源国なので、そこをスタート地点に考えていく感じかなぁ。
かつて技術立国だったイギリスやドイツ、アメリカなんかも、まぁ盛者必衰はまぬがれないわけですよね。それを考えると、日本の技術立国も、ある程度地位をゆずることになるのかなぁと。
技術の創出が流出をうわまわればいいというのは、理想だけどちょっと難しいように思ってる。もちろん、理想に近付くための努力は必要だしその努力には非常に価値があると思うのですけどね。
んー、どうだろ。ぼくは基本的に、「技術の国外流出は防いでもいい。防ぐ方向もやりつつ」と考えてる。
これは大きい問題だから、整理しようとすると時間がかかるけど。
まず1つとして、「日本は技術立国」というのは、開国後必要にせまられて立てた基本方針で、そろそろ見直してもよいかな、と。いずれにせよ非資源国なので、そこをスタート地点に考えていく感じかなぁ。
かつて技術立国だったイギリスやドイツ、アメリカなんかも、まぁ盛者必衰はまぬがれないわけですよね。それを考えると、日本の技術立国も、ある程度地位をゆずることになるのかなぁと。
技術の創出が流出をうわまわればいいというのは、理想だけどちょっと難しいように思ってる。もちろん、理想に近付くための努力は必要だしその努力には非常に価値があると思うのですけどね。
# データを消してしまったときに感じたこと
ここで公開しているすべてのデータをオペミスで消してしまったとき、ぼくはそれほどショックを感じなかった。普通であれば、胸がドキドキと高鳴ったり、頭の中が熱くなってキーンと音が聞こえてきそうな状況だけど、不思議とぼくは落ち着いていた。
たとえて言うなら、「形あるものはすべて壊れる」とでも言うような。すべてのデータがなくなった兆候を示すメッセージ「No such file or directory.」を見ながら、ぼくの頭はまずこんなことを考えた。「一定の役割は果たした」と。
形はなくなっても、メッセージは生き続ける。ただちょっと、予想したよりも早くそのときが来ただけ。今からまた始めても同じこと。だからぼくは、全然悲しくなかったし、驚きさえなかった。最初は。ただ、少したってからちょっと思い直すことがあった。ぼくはいいけど、他の人には悪いことをしちゃったかな、と。
とくに、ぼくにはこの場所で待っている人がいるのだった。ナイーブな彼らが戻ってきたとき、なにもないこの場所はどう見えるだろうかと心配になった。それによく考えたら、失ったデータはもったいない。実は今回のデータ消失で、ぼくは過去2年分のメールも失ったと思われるのだけど、それはたいしたことがないとすぐに気付いた。
意外なことに、ぼくはここ数年大してメールをやり取りしていなかった。そしてメールに比べてもっと価値があり、もっとプライベートなものをWeb上に載せていたようだ。皆に読んでもらい、またお返ししてもらったメッセージの数々は、ぼくにとってこの数年のすべてだった。
そのすべては、形が残らなくとも自分の中に生きていて、まぁなくても問題ないと今も思える。でもまぁ、復旧できるならそれにこしたことがない。結果的には、ほぼ問題ないレベルまで戻ることができて良かった。
たとえて言うなら、「形あるものはすべて壊れる」とでも言うような。すべてのデータがなくなった兆候を示すメッセージ「No such file or directory.」を見ながら、ぼくの頭はまずこんなことを考えた。「一定の役割は果たした」と。
形はなくなっても、メッセージは生き続ける。ただちょっと、予想したよりも早くそのときが来ただけ。今からまた始めても同じこと。だからぼくは、全然悲しくなかったし、驚きさえなかった。最初は。ただ、少したってからちょっと思い直すことがあった。ぼくはいいけど、他の人には悪いことをしちゃったかな、と。
とくに、ぼくにはこの場所で待っている人がいるのだった。ナイーブな彼らが戻ってきたとき、なにもないこの場所はどう見えるだろうかと心配になった。それによく考えたら、失ったデータはもったいない。実は今回のデータ消失で、ぼくは過去2年分のメールも失ったと思われるのだけど、それはたいしたことがないとすぐに気付いた。
意外なことに、ぼくはここ数年大してメールをやり取りしていなかった。そしてメールに比べてもっと価値があり、もっとプライベートなものをWeb上に載せていたようだ。皆に読んでもらい、またお返ししてもらったメッセージの数々は、ぼくにとってこの数年のすべてだった。
そのすべては、形が残らなくとも自分の中に生きていて、まぁなくても問題ないと今も思える。でもまぁ、復旧できるならそれにこしたことがない。結果的には、ほぼ問題ないレベルまで戻ることができて良かった。
2008-02-29
# 中華料理の命名法ほか
あやめさんから情報をいただきました。ありがとうございマウス。
中国と日本、料理の命名:中国から見た中国と日本の違い
http://tyuugoku.livedoor.biz/archives/52220338.html
--
えーと。すみません。説明しなきゃと思ってたんだけど、momoka.cgiに対するコメントとトラックバックについては、今は動かないようになっています。
これは主に、スパム対策をどうしようか決めかねていることが理由で、どうせならユーザー認証機能を付けたほうがよいのかと考えはじめて悩んでいます。
あとRSSが正常に動いていないというのは、たぶんmomoka.cgiのバグかな。ちょっと調べてみます。情報さんくすです。
中国と日本、料理の命名:中国から見た中国と日本の違い
http://tyuugoku.livedoor.biz/archives/52220338.html
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えーと。すみません。説明しなきゃと思ってたんだけど、momoka.cgiに対するコメントとトラックバックについては、今は動かないようになっています。
これは主に、スパム対策をどうしようか決めかねていることが理由で、どうせならユーザー認証機能を付けたほうがよいのかと考えはじめて悩んでいます。
あとRSSが正常に動いていないというのは、たぶんmomoka.cgiのバグかな。ちょっと調べてみます。情報さんくすです。
# 作ることとあること
最近はデジカメ遊びをしてて、写真を撮ったりしてる。それを発端に、作ることについて昔から漠然と考えていることについて。
誰かの写真を見て、それがうまい写真だとうらやましく思う。自分でもうまい写真を撮りたいような気がする。でも、よく考えてみると、自分は本当に「うまい写真」を撮りたいのか? うまい写真が撮りたいのか? よく考えてみると、そうじゃない。
ぼくはうまい写真を撮りたいとは思わない。うまい写真というのは「成績がいい」、「優等生」ということだから。ぼくは優等生というガラじゃないし、優等生になりたいとは思わない。「優等」であるために、ぼくは生きているのではないから。「優等」であることが、ぼくが生きることを許される根拠でもないから。だから劣等でいいし、劣等がいい。劣等はいい。ぼくは、「うまい写真」じゃなくて「いい写真」を撮りたい。
「そのジャンルを好きな人には分かる」という写真も嫌だ。宮崎駿監督の映画は、誰にだって良さが分かる。普通の人、映画好きじゃない人やアニメ好きじゃない人にも良さが分かる。どうせなら、そういう物作りがしたい。「面白い映画」の範囲を超えた「面白いなにか」。ジャンルの外にいる普通の人、興味のない人、外国の人にも分かるということが、普遍性であったり、価値であったりするのだろうと思う。
その「良さ」のすべてが、すべての人に分かるというのでなくてもよい。まったく分からないと感ぜられるのでもよい。でもその「良さ」が、なんとなく感じられたり、まるで見えないところで人の心を動かすように、影響を与えるものであってほしい。見てすぐ心を動かすものである必要はない。むしろ10年、30年経って、「ああ、あのときの映画はこういうことを言ってたのかもな」と思わせるようなものがいい。
「作品」というのも嫌。ぼくは自分の撮る写真や書くテキストが(あとソフトウェアも)「作品」になってしまうことを避けたい。作品というのは、非日常のもの、作られたものだから。写真もテキストも、「作られたものでないもの」であってほしい。それは作られたのではなく、ただそう在るもの。
彫刻家が素材を前にしたときに、なにかの形を彫っていくのではなく、もとからそこにあった(はずの)形をただ取り出そうとするように、それはそこに在る。そういうものを作りたい。
誰かの写真を見て、それがうまい写真だとうらやましく思う。自分でもうまい写真を撮りたいような気がする。でも、よく考えてみると、自分は本当に「うまい写真」を撮りたいのか? うまい写真が撮りたいのか? よく考えてみると、そうじゃない。
ぼくはうまい写真を撮りたいとは思わない。うまい写真というのは「成績がいい」、「優等生」ということだから。ぼくは優等生というガラじゃないし、優等生になりたいとは思わない。「優等」であるために、ぼくは生きているのではないから。「優等」であることが、ぼくが生きることを許される根拠でもないから。だから劣等でいいし、劣等がいい。劣等はいい。ぼくは、「うまい写真」じゃなくて「いい写真」を撮りたい。
「そのジャンルを好きな人には分かる」という写真も嫌だ。宮崎駿監督の映画は、誰にだって良さが分かる。普通の人、映画好きじゃない人やアニメ好きじゃない人にも良さが分かる。どうせなら、そういう物作りがしたい。「面白い映画」の範囲を超えた「面白いなにか」。ジャンルの外にいる普通の人、興味のない人、外国の人にも分かるということが、普遍性であったり、価値であったりするのだろうと思う。
その「良さ」のすべてが、すべての人に分かるというのでなくてもよい。まったく分からないと感ぜられるのでもよい。でもその「良さ」が、なんとなく感じられたり、まるで見えないところで人の心を動かすように、影響を与えるものであってほしい。見てすぐ心を動かすものである必要はない。むしろ10年、30年経って、「ああ、あのときの映画はこういうことを言ってたのかもな」と思わせるようなものがいい。
「作品」というのも嫌。ぼくは自分の撮る写真や書くテキストが(あとソフトウェアも)「作品」になってしまうことを避けたい。作品というのは、非日常のもの、作られたものだから。写真もテキストも、「作られたものでないもの」であってほしい。それは作られたのではなく、ただそう在るもの。
彫刻家が素材を前にしたときに、なにかの形を彫っていくのではなく、もとからそこにあった(はずの)形をただ取り出そうとするように、それはそこに在る。そういうものを作りたい。