メッセージ。 - diary

2008-08-12

# 女の子に好かれるための……

書くまいと思っていたのだけど書く。個人的には、女の子に好かれたければ、笑えばいいと思うよ。

笑って自分の人生を楽しんでいる人を見れば、楽しくなるから。男に限らず、女の人でも、笑っている人は魅力的だ。

まぁ、それだけで好かれるかというと、例外もあるんだろうけどね。でも個人的には、笑うことが大事だと思う。
2008-08-12 13:50:34 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メディア・リスク・対応かぁ

基本的には、次の3つのルールを守ることかなぁと思う。(1)できるだけ嘘をつかない、(2)定期的に情報を出してみる、(3)回答者の名前を明示する。

(1)の「できるだけ嘘をつかない」というのは、ちょっとでも嘘をつくと、後で情報を追加しなければいけなくなったときに嘘の上塗りをしなければいけなくなってしまうから。なにか問題があったときに「今回はこれこれこういうことがあったことにしておこう」みたいなストーリーを作って発表してしまうと、後で綻びが出たときに辻褄合わせをしなければいけなくなる。そうすると、辻褄合わせのためにまた新しい嘘が必要になる。これでは雪だるま式にリスクが増えてしまうし、全体のストーリが曖昧模糊となって信用してもらいにくくなる。嘘をつきとおすのはとても難しいので、できるだけ最初から嘘をつかないほうがよい。

# インターネットがない時代には、企業やメディアがちょっとぐらい嘘をついてもそれを指摘する声が世間に伝播しにくかった。企業やマスメディアが発信する情報の正確性や意図について、大衆が検証したり注意喚起したりすることが難しかった。でもインターネット時代になって情報の双方向流通が増え、またWebが主に活字による情報流通の場であったことによって、企業やメディアの発信する情報の正確性と意図について、大衆は以前より検証がしやすくなった。インターネット以前ならばちょっとした嘘も大きな問題にならなかったが、インターネット以降は嘘が雪だるま式に問題化するリスクが高まっていると考える。

(2)の「定期的に情報を出してみる」というのは、そうすることによって「嘘をついていない」と主張しやすくなるから。普段情報を出していない企業やメディアが、問題が起こったときになって「あのときはああだった、このときはこう対処した」と言っても、なかなか信用してもらえない。そのときの思い付きで作った作り話かもしれないから。普段は情報をセーブしておいて、問題が起こったときにドカッと発表するようなやり方は、その発表の中で辻褄を合わせやすいので、ちょっと情報リテラシのある人からは信用されない。逆に、定期的にある程度の情報を出していると、時系列をまたがって辻褄を合わせるのは難しいので、情報リテラシの高い人から「信頼に値する」と思ってもらえる(なお、一度発表した情報をバックデートしたり、都合の悪いコメントを消して「なかったこと」にするのが炎上や大問題につながりやすいのは、それが時系列を壊そうとする行為にほかならず、情報の信憑性や信頼関係を根底から覆す行為だからだ)。

(3)の「回答者の名前を明示する」というのは、そのほうが情報の守備一貫性を保てるから。責任の所在を明らかにできるからといってもいい。回答者(情報を発表する人)が明示されていれば、何回かの情報発表の中でその人が何をどのように考えているかを、受け手が理解しやすくなる。そうなれば、無用な誤解が避けられる可能性は高まるし、もし企業やメディアの中に複数の担当者がおり発表内容に齟齬があった場合でも、問題を回復しやすい。

もちろん、原則としては企業がユーザーに回答する内容には一貫性を持たせたほうがよく、担当者ごとに回答内容が違うというのは避けたほうがよい。しかし、個々の問い合わせに対して、すべての担当者がまったく同一の意思をもって回答するというのは、はっきり言って不可能だ。機械ではないのだから、すべての担当者は個別の問い合わせに対してそれぞれなりの解釈をもって回答を行ってしまうことは避けられない。またユーザーも機械ではないので、木で鼻をくくったような対応はむしろ望まれていない。

つまり、ユーザーからの問い合わせであれ、マスメディアからの取材であれ、外部との情報のやりとりはすべて人間対人間の双方向コミュニケーションであると考えるべきだ。そういった双方向のコミュニケーションを行える人材を確保するのは、企業にとって重荷であるだろうし、数をこなしにくくなるだろうし、難しい問題もあるだろう。ただ、だからといって木で鼻をくくる型のメディア・リスク対応に戻すよりは、良いのではないかと思う。「回答者の名前を明示する」ということ自体はそれほど難しくないので、ここからスタートしてみるのは1つの方法だろう。

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基本的にはこんなところかなぁと思う。どれも当たり前のことだけど、当たり前のことをやるのが案外難しいのだな。「言わないでも分かるだろう」と思って言わないでいると、後になって伝わっていないということも多いので、こうやって当たり前のことを書いてみることにも価値があるのではないかと思う。(ただし、経験上ここに書いたことが全然当たり前じゃない可能性もあり)(なにを書いているのか分からなくなってきたぞ)
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総じて思うのは、「都合の悪いことでも正直に話してしまえ」ということだ。人間も企業もミスをするのだから、1つ1つのミスをいつまでたっても責め続け、あげつらう人(ユーザー)はいない。ミスをしたことを認め、状況を説明し、なにが原因だったかをきちんと把握して改善に務めれば、それはユーザーの利益にもなるしサプライヤー(企業やメディア)の利益にもなる。
2008-08-12 13:33:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-08-11

# 礼となにか

そういえば。(日本の)テレビのニュース番組を見ていると、映像が乱れたりレポーターの音声が途切れたりすることがたまにあって、そういうときにキャスターはたいていこう言う。「ただいまの中継で一部映像や音声が乱れました。大変失礼しました」。

でも、映像が乱れることって、ぼくにとっては「礼を失する」ことでは全然ない感じがする。映像が乱れるのは技術的な問題で、しょうがない(ゼロにはできない)ことなんだし、「途切れることなく映像をこちらに届ける」ということが「礼」であるとは承知していなかった。「礼」ってなんでしたっけ?

たぶん。礼の問題でない事柄について「失礼しました」と謝られてしまうと、(ぼくは)困る。それは本質的に謝ってることにならないと思うから。このような状況で発せられる「失礼しました」という言葉を見ると、「彼は単にその場を逃げ切りたいのだろうなぁ」と思う。

それはそれとして、どうして日本人は礼の観点から物事を見ることを、それほど重要視するのかなぁ。なんでもかんでも礼の問題に集約してしまうのは、あまりよいことではないと考える。「礼の問題」というのも世の中にはあるだろうけど、その奥にも問題の原野があるはずで。その広大な原野を歩きまわるのも、楽しいと思うのだよなぁ。
2008-08-11 13:04:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-29

# アメリカの食べ物

アメリカの食べ物は美味しくないと聞いていたので、いったいどれほどひどいのか知りたいなぁと思っていた。こういうのは、自分の足と舌で体験しないとなんとも言えないと思うので。それで今回2か月ぐらいの旅行でいろいろ食べて思ったこと:「アメリカの食べ物は、まずいというほどではない」。

今回は貧乏旅行ということもあり、レストランで飲み物込み一人3000円ぐらいまでのレストランしか体験していないのだけど、その範囲では「とびきり美味しいご飯」にありつくことはなかった。でも逆に、「これは不味くて完食できない」というご飯にありつくことも一度もなかった。(1回だけ例外があって、インド人街にあるインド人向けインド料理レストランだけは口に合わなくて少し残してしまった。)

だから、総じて言うと味は普通かなぁ。味の方向性は日本の洋食とかに近くて、口に合わないということはない。塩胡椒が足りなかったり、ちょっと旨みが足りないレストランもしばしばあったけど、目くじら立てるほどではないというか。ただ、朝御飯が甘いケーキだったり、どうしてもパンが多くなったりするので、それは日本人にはしんどいかなぁ。ご飯や麺を食べたくなったらタイ料理とかアジア料理のお店に行かなければいけないのだけど、そういったお店は都市部のダウンタウン以外で探すのが難しかったように思う。

たとえばお昼ご飯を安く(1000円未満で出来るだけ安く)済ませたいなと思ったら、どうしてもチップのいらないようなお店(ファーストフード)になりがち。そしてファーストフードといえばハンバーガー/サンドイッチ屋かピザ屋以外の選択肢がほとんどない。ラーメン屋とかカレー屋があればなぁと思うけど、そういうお店はたぶんなかった。スーパーに行けば、中華や和風(和風といっても照り焼きチキンとか肉類が多い)のお弁当が売っているので、それが一番安あがりかもしれない。

あと最近話題の「お弁当」について。たとえばアメリカの小中学生は遠足などのランチが「ポテトチップスとリンゴ一個」だったりするという話を聞く。日本人の感覚ではこれはひどいと感じるのだけど、そもそもポテトチップスに対する感覚が違うのだと今回の旅行で思った。日本ではポテトチップスは「おやつ」とかジャンクフードなので、お昼ご飯にそんなものを食べさせるというと親がひどくサボっているように感じるけど、これはちょっと公平ではないと思う。

聞くところによると、アメリカやヨーロッパの人は「おやつ」(デザート)に甘いものしか食べない。日本のお煎餅のような、塩気のあるおやつは存在しないのだ。じゃあポテトチップスは何か?というと、あれは「スナック」。「スナック」を辞書で引くと、「急いで取る食事、軽食」だから、れっきとしたご飯(食事)を指すのだね。メキシコ料理で食前にナチョスが出てきたり、ベトナム料理でえびせんべいが付いてくるのに近い感覚なんだろう。たぶん、アメリカのポテトチップスは日本のそれほど塩気が強くなくて、たくさん食べられるようになっている。

チップスはだいたいお芋が原料だから炭水化物。そう考えると、アメリカの人がお弁当にチップスを持たせるというのは、日本人でいうとお弁当におにぎりを持たせるという感覚に近いんじゃないだろうか。ベクトルはまぁ同じというか。要は個々の親がサボっているというよりも、文化がそのようになっているというか。

あと、アメリカの食べ物全般の話に戻ると、パスタがあまり食べられなかったのが残念だったなぁ。レストランのメニューにはパスタがあまり載っていない(あってもミートソースのスパゲティだけとか、よくて3種類から選べるとか)。どのレストランでもパスタは茹ですぎの傾向にあって、またイタリアンレストランは基本的に高かった。カルボナーラを食べたかったけど、日本や本場イタリア風のカルボナーラは見つけられなかった。そういう感じで、どうしても毎食のようにパンを食べることになる。それがちょっとしんどかったなぁ。
2008-07-29 11:40:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# クレジットカードの話の追記

最近Webサーバーのリファラを見ていないので気付いていなかったのだけど、「クレジットカードの話」について、shiroさんとodzさんからコメントをもらっていた。ありがとうございます。m(_ _)m

http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
 現金をデポジットすることで泊まれるはず

http://d.hatena.ne.jp/odz/20080724/1216907924
 日本で保証人を要求されるのと本質的に同じこと

情報とご意見ありがとうございます。ホテルにとっては、「クレジットカードを持っているかどうか(カード会社による信用の担保があるかどうか)」が問題なのではなく、実際に支払いがなされるかどうかというリスクが問題だから、予約を受け付けてもらえないんだという話ですね。なるほどたしかにそうかも。

http://d.hatena.ne.jp/odz/20080724/1216907924
 当たり前のように身分証明書として運転免許法を要求する日本の社会もアレ

これもたしかに。システムにおいては個人(オブジェクト)の一意性を特定することが重要だよという話に還元できのかなぁ。あとは遅延支払いの信用をどう担保するかというか。まぁそんな単純なことではないか。

ちなみに、「アメリカで銀行口座を作るのは難しく、審査が緩い銀行でも学生ビザとかが必要らしい」というような情報を日本人留学生の人から聞いたりもしていました。旅行者や留学生は暗闇を灯りも持たずに歩いている気分になるので、とくにちょっと複雑なアメリカの金融システムについて怖く感じる面があるのかなぁと思ったりします。

今回ぼくが書いたことは、あくまで旅行の2か月のあいだに会った人や体験にもとづいた感じたことなので、印象論になっている面は少なからずあります。それでも感じたことを書くことで掘り起こされるもがあるかもしれないということで。ご感想などお気軽にいただけるとうれしいです。
2008-07-29 09:40:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-27

# 一人称について

一人称をどう表現するかというのは、なかなか難しい。たとえばおいらは、小学校に上がるときだったかに親から「ちゃんと自分のことを僕と言うんだよ」だかなんだか教わったものだ。それまでぼくは、ぼく自身のことを「僕」とは表現することがなかったし、そうする必要もなかったのだろう。だからぼくは、ぼくをぼくと表現することに、なんとも言えない座りの悪さを覚えた。けれどもまぁ、そう教わったからには、自分のことをぼくと表現しながら、ぼくは小学生生活をスタートすることにした。ところがこの試みは、すぐに問題にぶつかる。小学生の男というものは、自分のことをあまり「僕」とは表現しないからだ。ぼくの通っていた学校では、その当時自分のことは「俺」と表現する男の子が多くて、ぼくはすぐに、自分のことを「俺」と表現するほうが適切だろうと分かった。それでぼくはぼくのことを「俺」と呼ぶことにした。いずれにせよ、そのようにして、人は自己の人格を作っていく。

「さっちゃんはね、さちこっていうんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のことさっちゃんっていうんだよ。かわいいね、さっちゃん」という歌詞がある。けれどぼくは、さっちゃんのことを可愛いとは思わない。彼女は正しいと思う。さっちゃんは家では、「さっちゃん」と呼ばれているのだろう。親や兄弟が自分のことを「さっちゃん」と呼ぶのだから、「自分」は「さっちゃん」以外のなにものでもない。少なくとも第一義的な人格として、自分は「さっちゃん」なのだ。人が自分のことを「わたし」などと呼ばねばならないのは、その場に自分を知らない人がいるからだ。彼らは「さっちゃん」という自己のことを知らない。だから自己を表現する言葉として「わたし」を使う。でも結局のところ、わたしの本当の自己は、どちらかというと「さっちゃん」のほうが近い。そちらのほうが「本当」だ。

自己のことを「さっちゃん」ではなく「僕」や「俺」や「わたし」などと表現するとき、人間は第二義以降の自己人格を意識している。その言葉は、「自分のことを知らない誰か」に対して自分を表現するために使われる。だからもし、その場に自分を知らない誰かがいないならば、人は「僕」や「俺」や「わたし」という言葉を使わない。逆に言うと、「僕」や「俺」や「わたし」などといった言葉が使われるとき、人は第三者の存在を意識し、彼らのために何かを表現しようとしている。彼らと自分との関係において、人は自己をなんと呼ぶか決める。そしてまた本質的に、自己が認識する内容を誰かに表現しようという試みは、ちょっと難しいのだ。そこにいる「第三者」が誰であるかによって表現は変えるべきものであるし、第三者がどんな人間か理解するのが難しいため、表現は試行錯誤される。また一方で、事象を理解するというのも難しい問題だ。自己が直面しているこの事象が、いったいなんであるかを理解しようとするとき、人はさまざまな角度からその事象を見ようとする。そういった「さまざまな角度」に立とうとしたとき、人は「僕や俺や私」といった複数の自己人格を用いることがあるだろう。
2008-07-27 10:35:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-07-19

# アメリカのクレジットカードの話

そういえば、アメリカでこんなことを思ったんだった。

アメリカの長期滞在型ホテルで出会ったスペイン人のおばさんが、今回の渡航のときにクレジットカードを持ってこなかったんだって。現金をたくさん持ってきたのでクレジットカードは置いてきたらしい。最初の滞在先だけスペインにいるときにホテルの予約をして、あとはアメリカに着いてから予定を立てて旅行したりしようと思っていたとのこと。

ところが、アメリカでいざ旅行しようとしてみると、クレジットカードがないとなにもできないという。クレジットカードがないとホテルが予約を受け付けてくれないらしい。現金で払うと言っても取り合ってくれないので、せっかくアメリカに来たのに移動ができなくて本当に困っていた。後から考えると、アメリカでクレジットカードを紛失したことにして、カード会社に再発行してもらうとかできないのかなぁと思うけど、そのおばちゃんにその後会う機会がほとんどなくてその案について言いそびれてしまった。

それで、そのおばちゃんの言うことがどこまで本当か(確実なのか)よく分からないのだけど、クレジットカードがないと(現金を持っていても)ホテルに泊まれないという話が本当だとすれば、ひどい話だなぁと思う。それはつまり、現代の身分制じゃないかい?と。ぼくはこの話を聞いて、江戸時代に農民が住んでる村から外に出ることを許されなかったという話を思い出した(この話自体も信憑性は未確認だけど)。

しかも、クレジットカードというのは公共機関が発行しているものではなく、たんに民間企業が発行しているもので、本来は持っていない人がいても当たり前のもののように、個人的には思う。だからクレジットカードを持っていないとホテルに泊まれないなんてことは、本来はあってはいけないものなのではないか。いや、いけないということはない。というか道徳的な観点でそれを論じるつもりはなくって、社会インフラの発達性としてはネガティブな兆候なんじゃないかなぁと。

たとえば50円という廉価で日本全国どこへでも葉書を送れたり、日本全国どこへでも電話網がつながっていたりすることが社会システムを大きく効率化して近代的生産性を実現するように、人間が国内を移動するといったベーシックな社会インフラについては公共サービスとして完全性を高めたほうが、社会システムの効率としては良いのではないかと思う。それを、民間機関が発行・支配するようなシステムが必須になっているというのは変だ。あるいはそのような移動性が、国内にいるすべての人間に等しく提供されていることが問題だというなら、「20歳以上の大人はクレジットカードを持てる」とかにしてみるとか。

社会的ステータス(収入とか学歴とか)の多寡で、クレジットカードを持てるかどうか決まるというアメリカのシステムは、そしてクレジットカードがないといろんなことができないという社会システムはどうなのかなぁと今回思った次第。ただし、上記のふじさわの考えについては、ほんの2か月滞在しただけなので事実誤認しているところもあると思う。このあたりについては、もうちょっと勉強しても面白いかもしれないなぁ。
2008-07-19 20:06:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日本の経済が弱まっている原因について

日本のITは20年間進化していない──野口悠紀雄が語る
http://ascii.jp/elem/000/000/151/151210/

「日本の社会が新しい技術変化に対応しにくい」という見解には同意だけど、「ITのような分散型技術変化に対応しにくいから今のように経済状態が悪くなった」とは思わないなぁ。

今日本の経済状態が悪いのは、イノベーションのジレンマにあるように「一度成功した組織は変化に対応できない」という原因が大きいんじゃないかと考えている。

日本の経済は前世代における戦後復興で大きく成功した。それを推進したシステムや世代の思考がいまも動いていて、前世代のやり方を撤回し再構成することが困難になっている。そして、そのような前世代のやり方の撤回と再構成というのは、根本的に日本社会の苦手とするところだ。

たしか勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったときに述べた言葉だったと思うのだけど、彼が日本に帰ってきて、アメリカと日本の違いについて見解を求められたときにこう答えたという。「アメリカのすごいところは、日本と違って優秀で能力のある人間が社会を動かす立場に就けることです」と。

日本では、優秀で能力のある個人ではなく、年功序列や世襲のようなコネクションをもとに人員が配置される。またそのような人員配置はほとんど変化されない。そのような社会構造は、社会を一変するような変化に対して迅速に対応できない(かなりゆっくりと、また不完全に対応する)。要するに日本の社会は変化に対する追従性が低い(ただしこれは日本に限らず、成熟した社会や農耕型社会にありがちな特性のように思う)。

そして現在日本が直面している変化というのは、ITという新しい技術のGPT化ということではなくて、ソ連の崩壊からロシア・中国の経済的台頭といった世界的経済構造の変化だと思う。こういった世界的経済構造の変化が起こっているのに、日本の社会構造はそれに対応できていない。

従来型の加工貿易による日本のビジネスモデルは、日本で加工・生産した商品(電化製品や自動車)をアメリカやヨーロッパといった「日本よりも先進の国」に対して輸出するという形をとっていた。でもこの形は、(1)アメリカ経済が強く、(2)これといったライバル国がおらず、(3)円が比較的安かったという条件が整っていたから成り立っていたのではないかと思っている。

そして現在では、(1)アメリカ経済があまり強くなく、(2)中国などのライバル国がいて、(3)円が比較的高いため(そのようにふじさわは仮説を立てており、それが正しいとするならば)、日本の経済が弱い状態になっているだろうと考えている。

ええと、以上の見解はこれまでにもここで書いていることなのだけど、一応上記の記事を読んでぐるっともう一度考えて(自分的に)メモしなきゃと思って書いた。記事が十分興味深かったためということで。野口さんの新しい本は読んでみたいなぁ。とくにITがアメリカ経済に寄与しているかをどのように評価しているのかとか気になる。ぼくはそういうのの科学的評価法を知っとくべきだべ。
2008-07-19 19:26:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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