メッセージ。 - diary
2024-09-11
# にゃー
これからカメラを初める人に単焦点レンズを勧めるのはいかがなものかと喧嘩腰で主張している人を見た。その人曰く、単焦点レンズなんてお金の無駄で、ズームレンズのほうがいくつも単焦点レンズを持つようなものだから、結局単焦点を買わないで最初から大三元のズームレンズを買ったほうが良いということだった。
個人的にあまり賛同できない。ぼくは単焦点が好きだから意見は偏ってしまうけれども、初心者にズームレンズ(とくに大三元)を勧めるのにはいくつか問題があると思う。ポイントは画角、明るさ(最小F値)、重量・大きさ、価格ぐらいかな。
1. 画角について
たとえば24-70mmとかのズームレンズはたしかに便利だけれども、初心者に使いこなすのは難しい。初心者には「こういう画を撮りたいからこの画角」という感覚がないので、適切にズームできない。初心者の行動原理はこうだ。(1)撮りたい被写体を見つける、(2)立ち止まってカメラを被写体に向ける、(3)ファインダー内で被写体がちょうど良い大きさになるようズームしてシャッターを切る。
これでは面白い写真が撮れない。だって、写真を面白くするにはいろんな角度から被写体を見て、これだと思う構図を見つけなければいけないから。光が来ている方向を確認し、逆光で撮るのか斜光で撮るのか順光で撮るのか、背景はどうするのか、何を構図に入れて何を入れないのか、どこをどれくらいボカすのか、パースをどれくらい効かせたいのかを判断して写真は面白くなる。
だからズームレンズを使うにせよ単焦点レンズを使うにせよ足を使わなければならない。でも初心者はその感覚がないからズームレンズを持つと単にフレーム内に大きく被写体を入れることだけにズーム機能を使用してしまって、後から見返してつまらない写真にがっかりしてしまう。
単焦点レンズだとフレーム内に大きく被写体を入れるためだけに否が応でも足を使う必要があるので、「足を使わないといけないんだな」という基本が身に付くし、足を使っているうちに「いろんな角度から見てみる」というコツに気付く可能性が高まる。
2. 明るさ(最小F値)について
単焦点レンズはたいていズームレンズより明るい(最小F値が小さい)。だから開放(最小F値)で撮ると背景がボケて「おおっ」という写真が撮れて楽しい。ズームではこうはいかないというか、ズームでも望遠端を使って被写体に寄れば十分背景がボケるけれども、初心者にはそういう発想が浮かばないのでその楽しさに辿り着けないと思う。
それに室内や夜間という条件で写真を撮るとき、レンズは明るいに越したことはない。そういう条件では、F値はできるだけ1.8〜2.8ぐらいまでの明るさで撮りたいが、そうなるとズームレンズでは厳しい。キットズームはF3.5始まりだし、F2.8始まりの明るいズームレンズは大三元のように大きく重くなってしまうので初心者にはしんどい。
最近のフルサイズ機であれば高感度耐性も高くなっているからF値が3.5以上のキットズームでもISO感度を上げればいいじゃんという考え方もあるが、フルサイズ機になるとカメラ本体が大きくて重くなりがちなので初心者が気軽に使いにくい。
いや、α7CやLumix S9のような例外的に軽量な機材を使えばこの問題は起きないけど、これらの機材は特殊な例というか。この方針で勧めるのなら、「初心者はズームレンズを買え。ただし軽量なフルサイズカメラを使っている場合に限る」と大きな注意書きをしないとユーザーのためにならないと思う。
「開放で背景をボカして撮るのではなく、絞って背景もきっちり写したほうがいい」という意見もあるが、これは玄人だから言えるものだと思う。ほとんどの初心者には大きくボケた写真のほうが「プロみたい」と感動が大きいし、経験を積まないと背景まできっちり写った写真の良さに気付きにくい。まずは背景をボカして楽しみながら、徐々に絞ることも覚えればいい。
3. 重量・大きさ
2とも重なるけど、初心者にとって大きくて重いカメラ・レンズは持ち出すのが億劫になるから個人的にお勧めしない。もちろん撮りたい写真のジャンルによってはフルサイズや超望遠ズームやマクロレンズや三脚やストロボが必須になるので、携帯性は二の次になることもあるけど。
ただ、初めてカメラを買う人のほとんどは子供が生まれたからとか、海外旅行に行くからとか、何となくかっこいい写真が撮りたいとかいった理由でカメラを買うことになると思うので、大仰なカメラでは使いにくいはずだ。普段使っているカバンにひょいと入れて気軽に持ち運べるようにと考えると、APS-Cと単焦点レンズ、もしくはそれに準ずるような小さいカメラとレンズの組み合わせが良いと思う。
どんなに良いカメラも手元になければ写真を撮ることはできない。どこにでも連れていけるという「性能」は、他のどんな性能にも増して価値がある。
4. 価格
3にも関連するけど、初心者はあまりカメラにお金を出せない。個人的な感覚だとレンズ込みで10万円ぐらいに抑えたい。だって本当に使うかも分からないし、10万というのは十分大金だ。そうなるとAPS-Cとキットズームぐらいしか買える選択肢がなく、キットズームの代わりとか、2本目に背伸びして単焦点レンズを買うぐらいが関の山だ。
そういう諸々を考えると、フルサイズ換算で35mm F2とか(APS-Cだと23mmF1.8程度)の単焦点レンズを買って試してみるのが一番良いと思う。結局のところ、カメラというのは触って写真を撮ってみないと分からない。まずはカメラとレンズを買ってみて、撮ってみて、「もうちょっとこうしたい」という気持ちが出てきたらレンズを買い足すなり買いかえるなりするしかないし、そうするのが楽しい。「最初からズームレンズを一本買っとけばいい」なんてのは幻想で、楽しいと感じたらいろいろ試したくなるし機材も欲しくなるのだ。プロだったら一直線に必要最小限の機材に辿り着くのが正解だろうけど、紆余曲折を楽しむことも含めて趣味だと思う。
でも始めるにあたって大金を払ったぶん楽しめるか不安だったり失敗をしたくないという気持ちはよく分かる。そういう人には普段持ち歩いて苦にならないぐらいの重量・大きさの(できるだけ安い)カメラに明るめの単焦点レンズを付けてまずは試してみるのがいいのではないかと個人的に思う。
個人的にあまり賛同できない。ぼくは単焦点が好きだから意見は偏ってしまうけれども、初心者にズームレンズ(とくに大三元)を勧めるのにはいくつか問題があると思う。ポイントは画角、明るさ(最小F値)、重量・大きさ、価格ぐらいかな。
1. 画角について
たとえば24-70mmとかのズームレンズはたしかに便利だけれども、初心者に使いこなすのは難しい。初心者には「こういう画を撮りたいからこの画角」という感覚がないので、適切にズームできない。初心者の行動原理はこうだ。(1)撮りたい被写体を見つける、(2)立ち止まってカメラを被写体に向ける、(3)ファインダー内で被写体がちょうど良い大きさになるようズームしてシャッターを切る。
これでは面白い写真が撮れない。だって、写真を面白くするにはいろんな角度から被写体を見て、これだと思う構図を見つけなければいけないから。光が来ている方向を確認し、逆光で撮るのか斜光で撮るのか順光で撮るのか、背景はどうするのか、何を構図に入れて何を入れないのか、どこをどれくらいボカすのか、パースをどれくらい効かせたいのかを判断して写真は面白くなる。
だからズームレンズを使うにせよ単焦点レンズを使うにせよ足を使わなければならない。でも初心者はその感覚がないからズームレンズを持つと単にフレーム内に大きく被写体を入れることだけにズーム機能を使用してしまって、後から見返してつまらない写真にがっかりしてしまう。
単焦点レンズだとフレーム内に大きく被写体を入れるためだけに否が応でも足を使う必要があるので、「足を使わないといけないんだな」という基本が身に付くし、足を使っているうちに「いろんな角度から見てみる」というコツに気付く可能性が高まる。
2. 明るさ(最小F値)について
単焦点レンズはたいていズームレンズより明るい(最小F値が小さい)。だから開放(最小F値)で撮ると背景がボケて「おおっ」という写真が撮れて楽しい。ズームではこうはいかないというか、ズームでも望遠端を使って被写体に寄れば十分背景がボケるけれども、初心者にはそういう発想が浮かばないのでその楽しさに辿り着けないと思う。
それに室内や夜間という条件で写真を撮るとき、レンズは明るいに越したことはない。そういう条件では、F値はできるだけ1.8〜2.8ぐらいまでの明るさで撮りたいが、そうなるとズームレンズでは厳しい。キットズームはF3.5始まりだし、F2.8始まりの明るいズームレンズは大三元のように大きく重くなってしまうので初心者にはしんどい。
最近のフルサイズ機であれば高感度耐性も高くなっているからF値が3.5以上のキットズームでもISO感度を上げればいいじゃんという考え方もあるが、フルサイズ機になるとカメラ本体が大きくて重くなりがちなので初心者が気軽に使いにくい。
いや、α7CやLumix S9のような例外的に軽量な機材を使えばこの問題は起きないけど、これらの機材は特殊な例というか。この方針で勧めるのなら、「初心者はズームレンズを買え。ただし軽量なフルサイズカメラを使っている場合に限る」と大きな注意書きをしないとユーザーのためにならないと思う。
「開放で背景をボカして撮るのではなく、絞って背景もきっちり写したほうがいい」という意見もあるが、これは玄人だから言えるものだと思う。ほとんどの初心者には大きくボケた写真のほうが「プロみたい」と感動が大きいし、経験を積まないと背景まできっちり写った写真の良さに気付きにくい。まずは背景をボカして楽しみながら、徐々に絞ることも覚えればいい。
3. 重量・大きさ
2とも重なるけど、初心者にとって大きくて重いカメラ・レンズは持ち出すのが億劫になるから個人的にお勧めしない。もちろん撮りたい写真のジャンルによってはフルサイズや超望遠ズームやマクロレンズや三脚やストロボが必須になるので、携帯性は二の次になることもあるけど。
ただ、初めてカメラを買う人のほとんどは子供が生まれたからとか、海外旅行に行くからとか、何となくかっこいい写真が撮りたいとかいった理由でカメラを買うことになると思うので、大仰なカメラでは使いにくいはずだ。普段使っているカバンにひょいと入れて気軽に持ち運べるようにと考えると、APS-Cと単焦点レンズ、もしくはそれに準ずるような小さいカメラとレンズの組み合わせが良いと思う。
どんなに良いカメラも手元になければ写真を撮ることはできない。どこにでも連れていけるという「性能」は、他のどんな性能にも増して価値がある。
4. 価格
3にも関連するけど、初心者はあまりカメラにお金を出せない。個人的な感覚だとレンズ込みで10万円ぐらいに抑えたい。だって本当に使うかも分からないし、10万というのは十分大金だ。そうなるとAPS-Cとキットズームぐらいしか買える選択肢がなく、キットズームの代わりとか、2本目に背伸びして単焦点レンズを買うぐらいが関の山だ。
そういう諸々を考えると、フルサイズ換算で35mm F2とか(APS-Cだと23mmF1.8程度)の単焦点レンズを買って試してみるのが一番良いと思う。結局のところ、カメラというのは触って写真を撮ってみないと分からない。まずはカメラとレンズを買ってみて、撮ってみて、「もうちょっとこうしたい」という気持ちが出てきたらレンズを買い足すなり買いかえるなりするしかないし、そうするのが楽しい。「最初からズームレンズを一本買っとけばいい」なんてのは幻想で、楽しいと感じたらいろいろ試したくなるし機材も欲しくなるのだ。プロだったら一直線に必要最小限の機材に辿り着くのが正解だろうけど、紆余曲折を楽しむことも含めて趣味だと思う。
でも始めるにあたって大金を払ったぶん楽しめるか不安だったり失敗をしたくないという気持ちはよく分かる。そういう人には普段持ち歩いて苦にならないぐらいの重量・大きさの(できるだけ安い)カメラに明るめの単焦点レンズを付けてまずは試してみるのがいいのではないかと個人的に思う。
2024-09-05
# にゃー
差別だなんだのと言い始めたらなんだって差別だよ。
子供がお酒を飲めないのも差別だし、テストで高得点を取れないと東大に入れないのも差別。あなたがあの人より給与を貰えないのも差別だし、日本に生まれたというだけで安全で食べ物のおいしい日本に住む権利があるというのも差別。牛や豚や鶏や虫なんかに生まれただけで人間に生かすも殺すも自由にされるのも差別だし、名前の順番で呼ばれるのも差別。赤が青と違うのも差別。「あなた」が「わたし」と違うことも差別だよ。
で、どうするの?という問題だと思うんだけど。「差別をなくせ」なんて言葉は人類補完計画を実行せよみたいなもので、神になりたいか無になりたい「人」の意見だ。思考実験としては面白いけど、現実の生活の場で実効力を伴って議論をするにはそれなりの知性が必要なんだよ。そういう意味では、ネットの場で誰でも匿名で意見を言えて声の大きい人の意見が目につくけど、かきまわされているだけという面が大きい。
議論や分析をすること自体は楽しいけど、憎悪や分断や他者を見下してプライドを満たすのが目的の意見はつまらない。建設的な議論をしたい。
子供がお酒を飲めないのも差別だし、テストで高得点を取れないと東大に入れないのも差別。あなたがあの人より給与を貰えないのも差別だし、日本に生まれたというだけで安全で食べ物のおいしい日本に住む権利があるというのも差別。牛や豚や鶏や虫なんかに生まれただけで人間に生かすも殺すも自由にされるのも差別だし、名前の順番で呼ばれるのも差別。赤が青と違うのも差別。「あなた」が「わたし」と違うことも差別だよ。
で、どうするの?という問題だと思うんだけど。「差別をなくせ」なんて言葉は人類補完計画を実行せよみたいなもので、神になりたいか無になりたい「人」の意見だ。思考実験としては面白いけど、現実の生活の場で実効力を伴って議論をするにはそれなりの知性が必要なんだよ。そういう意味では、ネットの場で誰でも匿名で意見を言えて声の大きい人の意見が目につくけど、かきまわされているだけという面が大きい。
議論や分析をすること自体は楽しいけど、憎悪や分断や他者を見下してプライドを満たすのが目的の意見はつまらない。建設的な議論をしたい。
2024-08-29
# にゃー
知らないことについて無責任に書くことはできない。ついそう思って何も書けないでいるけど、結局のところ知っている人間なんていない。人間が知っていることがらなんてほとんどのケースでn=1だし、せいぜい頑張ってもn=10000とかn=10000000とかでしかない。
しかも数字が大きくなるほど、それは統計的なものでしかなくなってしまう。デジタル化される前に起こったいろいろなことは切り捨てられてしまう。すると結局のところ分かったつもりで分かっていないことだらけだということだ。
つまるところ、人間は何も知らないでものを書いているし、人間だけでなくほかの生き物も含めて、ぼくらは何も分からず生きている。生きるということがどういうことかすら分からず生きている。本当に生きているのかどうかすら分からず生きている。
そんな状況で、書くのをためらうことにどれほどの意味があるのか。それは生きるのをためらうようなものだ。生きるのを止めることはできない。止めるというか、「ちょっとタイム」みたいなことはできない。
ぼくらは進み続けている。歩き続けていると言ってもいい。ためらって書くことを止めているあいだも時間は進み続けて、立ち止まっている間も時空間は動いていて自分のいる位置を移動させている。
そんな状況で「書かない」という選択は何を意味するのか。意思を表明しないことも、ひとつの意思表明だ。でも、なぜ意思を表明したくないのか。間違いを怖れるから?誰かを傷つけたくないから?
どんな言葉も間違っているし、誰かを傷つけ得る。結局のところ、ぼくらは何も知らない。知っていると思っている人は、知っていると思っていると思っているだけだ。誰かを傷つけるということは、ある意味で誰かに何かを残すことだ。残された思いは呪いであり祈りであり、メッセージである。
しかも数字が大きくなるほど、それは統計的なものでしかなくなってしまう。デジタル化される前に起こったいろいろなことは切り捨てられてしまう。すると結局のところ分かったつもりで分かっていないことだらけだということだ。
つまるところ、人間は何も知らないでものを書いているし、人間だけでなくほかの生き物も含めて、ぼくらは何も分からず生きている。生きるということがどういうことかすら分からず生きている。本当に生きているのかどうかすら分からず生きている。
そんな状況で、書くのをためらうことにどれほどの意味があるのか。それは生きるのをためらうようなものだ。生きるのを止めることはできない。止めるというか、「ちょっとタイム」みたいなことはできない。
ぼくらは進み続けている。歩き続けていると言ってもいい。ためらって書くことを止めているあいだも時間は進み続けて、立ち止まっている間も時空間は動いていて自分のいる位置を移動させている。
そんな状況で「書かない」という選択は何を意味するのか。意思を表明しないことも、ひとつの意思表明だ。でも、なぜ意思を表明したくないのか。間違いを怖れるから?誰かを傷つけたくないから?
どんな言葉も間違っているし、誰かを傷つけ得る。結局のところ、ぼくらは何も知らない。知っていると思っている人は、知っていると思っていると思っているだけだ。誰かを傷つけるということは、ある意味で誰かに何かを残すことだ。残された思いは呪いであり祈りであり、メッセージである。
2024-08-02
# にゃー
あるWebサイトにログインして設定を1つ更新する。これぐらいの処理で、かつ何もかも決め打ちの実装でよければ簡単なシェルスクリプトで書けるケースも多いと思う。ただ、これをユーザーに提供したいとなったら途端に難易度が上がるのはなんでだろう。
Unix系OSを使っているプログラマに渡すのであれば「適当にパスの通ったところに置いてターミナル(シェル)からスクリプト名を入力して起動してね」と、説明するまでもなく伝えられる。
でも、シェルスクリプトはWindowsを使っているプログラマには使えないし、非プログラマの人にも使えない。そうすると結局インストーラを用意して、UIもそれなりの見栄えにして、さらにそうするためにはきちんとしたプログラミング言語とフレームワークで実装してデザインも整えて、と格段にハードルが上がる。
それでも1000人のユーザーにプログラムを配るのであれば開発工数がペイするかもしれないが、たった数人の「業務をちょっと改善したいんだ」といった事情であればまったくそうはいかない。かくしてプログラマは、困った顔で「それはできないです」と回答するか、メガネをくいっとしながら「技術的には可能です」と回答するしかなくなる。
コンピュータの世界にGUIなんか(ほとんど)なくて、プログラマもユーザーもUnixを使っていたような時代であれば、シェルスクリプトをそのまま渡せばよかったんだけどなぁ。
まぁ、時代が変わってGUIが当たり前、誰もがコンピュータを使って当たり前、という世の中になってしまったのだから仕方がない。それはそう。だけど、時代が変わったなら変わったなりに、人々の生産性をもっと確保できるような仕組みを、コンピュータ業界が提供できるよう進化しなかったのはなんでなんだろう。
まあ。シェルスクリプトみたいに誰もが簡単に書けてしまって、誰もが簡単に実行できてしまうようなものが世の中を歩き回ると、セキュリティの問題が出るというのは一つあるのだろう。「誰でも簡単にプログラムを書けて、他の人に渡せるなんてけしからん。そんなことはできなくしてしまえ」と考えた人がいまの状況を作ったのかもしれない。でも、もうちょっとなんかやりようはなかったのかねぇ。
フリーソフトウェアとか、オープンソースソフトウェアなんかは、セキュリティの問題に対して「ソースコードが見えているんだから、悪意のあるコードは弾けるでしょ」というアプローチなんだろう。
でも、ソースコードなんか見なくても顔見知り同士だし仕事の付き合いの間柄なんだから、中身を見なくても信用してソフトウェアを手渡しするし、渡されたほうも使うよ、というケースを、フリーソフトウェアやオープンソースソフトウェアは満たしにくい。
なぜなら「簡単に実装できてユーザーの側も簡単に使える」という部分がフリーソフトウェアやオープンソースソフトウェアというだけでは満たせないから。マジョリティであるWIndowsユーザーからあまりに遠いし、顔見知りや仕事の付き合いならそもそもセキュリティは問題じゃない。だからソースが見えようが見えまいがどうでもいい。
「開発しやすく、人に渡しやすく、渡された人も使いやすい」という部分を満たすフレームワークが欲しい。そういう意味では、Webという仕組みが一番近いんだと思う。でも、WebはUnixツールみたいに組み合わせて使うことができないので、結局パイプラインの自動化みたいなことはできないんだよなぁ。
しばらく前からYouTubeが流行っているけど、たしかにYouTubeには面白いコンテンツがたくさん転がっている。それは以前に比べて「映像・音楽コンテンツが開発しやすく、渡しやすく、渡された人も使いやすい」という環境をコンピュータと一連の企業と、クリエイター達が提供したからだ。
それによって映像・音楽コンテンツ自体の価値が相対的に下がり、クリエイターにお金が還元されにくくなったという問題は出ているけれども。ただ、前時代に比べていまのほうが人々の生産性は上がっているというか、全体としての幸福度(リソース)は増えているというか。
昔は一生懸命ラジオ番組に聞きたい曲のリクエスト葉書を送って、葉書が採用されたらそれをテープに録音したり、お金を貯めてCDを買っていたのに、いまはもうそういった古い曲も最新の曲も、YouTubeでタダで聞けてMVまで見られるというのは、出血大サービス意外の何者でもない。かつて貧乏だった我々は、いつのまにか大富豪になったのだ。クリエイターは出血多量で死にそうになっているらしいけど。
なんの話だっけ。そう。映像・音楽コンテンツについては富豪になった。でも、それ以外の生産性とかコンピューティングという点ではあまり進展が見られない。ぼくらの手の中にあったはずの可能性が、むしろ減っているのではないかと思う。それが歯がゆい。
Unix系OSを使っているプログラマに渡すのであれば「適当にパスの通ったところに置いてターミナル(シェル)からスクリプト名を入力して起動してね」と、説明するまでもなく伝えられる。
でも、シェルスクリプトはWindowsを使っているプログラマには使えないし、非プログラマの人にも使えない。そうすると結局インストーラを用意して、UIもそれなりの見栄えにして、さらにそうするためにはきちんとしたプログラミング言語とフレームワークで実装してデザインも整えて、と格段にハードルが上がる。
それでも1000人のユーザーにプログラムを配るのであれば開発工数がペイするかもしれないが、たった数人の「業務をちょっと改善したいんだ」といった事情であればまったくそうはいかない。かくしてプログラマは、困った顔で「それはできないです」と回答するか、メガネをくいっとしながら「技術的には可能です」と回答するしかなくなる。
コンピュータの世界にGUIなんか(ほとんど)なくて、プログラマもユーザーもUnixを使っていたような時代であれば、シェルスクリプトをそのまま渡せばよかったんだけどなぁ。
まぁ、時代が変わってGUIが当たり前、誰もがコンピュータを使って当たり前、という世の中になってしまったのだから仕方がない。それはそう。だけど、時代が変わったなら変わったなりに、人々の生産性をもっと確保できるような仕組みを、コンピュータ業界が提供できるよう進化しなかったのはなんでなんだろう。
まあ。シェルスクリプトみたいに誰もが簡単に書けてしまって、誰もが簡単に実行できてしまうようなものが世の中を歩き回ると、セキュリティの問題が出るというのは一つあるのだろう。「誰でも簡単にプログラムを書けて、他の人に渡せるなんてけしからん。そんなことはできなくしてしまえ」と考えた人がいまの状況を作ったのかもしれない。でも、もうちょっとなんかやりようはなかったのかねぇ。
フリーソフトウェアとか、オープンソースソフトウェアなんかは、セキュリティの問題に対して「ソースコードが見えているんだから、悪意のあるコードは弾けるでしょ」というアプローチなんだろう。
でも、ソースコードなんか見なくても顔見知り同士だし仕事の付き合いの間柄なんだから、中身を見なくても信用してソフトウェアを手渡しするし、渡されたほうも使うよ、というケースを、フリーソフトウェアやオープンソースソフトウェアは満たしにくい。
なぜなら「簡単に実装できてユーザーの側も簡単に使える」という部分がフリーソフトウェアやオープンソースソフトウェアというだけでは満たせないから。マジョリティであるWIndowsユーザーからあまりに遠いし、顔見知りや仕事の付き合いならそもそもセキュリティは問題じゃない。だからソースが見えようが見えまいがどうでもいい。
「開発しやすく、人に渡しやすく、渡された人も使いやすい」という部分を満たすフレームワークが欲しい。そういう意味では、Webという仕組みが一番近いんだと思う。でも、WebはUnixツールみたいに組み合わせて使うことができないので、結局パイプラインの自動化みたいなことはできないんだよなぁ。
しばらく前からYouTubeが流行っているけど、たしかにYouTubeには面白いコンテンツがたくさん転がっている。それは以前に比べて「映像・音楽コンテンツが開発しやすく、渡しやすく、渡された人も使いやすい」という環境をコンピュータと一連の企業と、クリエイター達が提供したからだ。
それによって映像・音楽コンテンツ自体の価値が相対的に下がり、クリエイターにお金が還元されにくくなったという問題は出ているけれども。ただ、前時代に比べていまのほうが人々の生産性は上がっているというか、全体としての幸福度(リソース)は増えているというか。
昔は一生懸命ラジオ番組に聞きたい曲のリクエスト葉書を送って、葉書が採用されたらそれをテープに録音したり、お金を貯めてCDを買っていたのに、いまはもうそういった古い曲も最新の曲も、YouTubeでタダで聞けてMVまで見られるというのは、出血大サービス意外の何者でもない。かつて貧乏だった我々は、いつのまにか大富豪になったのだ。クリエイターは出血多量で死にそうになっているらしいけど。
なんの話だっけ。そう。映像・音楽コンテンツについては富豪になった。でも、それ以外の生産性とかコンピューティングという点ではあまり進展が見られない。ぼくらの手の中にあったはずの可能性が、むしろ減っているのではないかと思う。それが歯がゆい。