メッセージ。 - diary

2007-12-11

# 日記

最近嫌だなぁと思うこと。それは、「ダメで元々、通ればラッキー」という感じで無理な注文を出す人を見ること。どうしてそういう、不誠実なことをするのかなぁ。見ていて腹立たしい。

相手の人から価値を引き出したいなら、自分がまず価値を見せなきゃいけないはずなのに。自分からはなにも与えずに、相手から引き出そうとばかりするのを見るのは嫌気がさしてくる。ぼくはそういうのは気分がよくないのだけど、ほかの人は違うのかなぁ。

相手の人がいい仕事をするなら、ぼくもそれに負けない仕事をしたい。また逆に、ぼくがいい仕事をすれば、相手の人はきっといい仕事をしてくれる。それは循環していて、気分のいい輪になっている。別に難しいことじゃないし、全然嫌なことでもないと思うのだけどなぁ。
2007-12-11 22:58:44 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 日記

ちょっと一緒に歩こうか。 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071207/1197048677

昨日 - S嬢はてな
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20071209/p1

『恋の涙と愛の蜜』(いとうえい、コアマガジン)感想 - みやきち日記
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20071208/1197076682
2007-12-11 22:46:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-12-04

# 社員と役員の違いはなにか

http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=200712041

この話。本質的には、これは必ずしも有給でなくても良いいのではないかと考える。
たとえば、この社員がもし役員であったならば、有給でなくても問題ないというのには、あなたは同意してくれるだろう。
じゃあ、次に、「すべての社員を役員とする」という会社の形態については認めてくれるだろうか?
もしトヨタがそういう会社なら、そういう活動を無給でやらせても問題はないだろうと考える。(問題はあるという見方もある。でもこの見方に注目する人にはこう問いたい。「そうでないやり方に問題はないのか?」。これはもっと掘り下げて考えるべき問題だと考える)

端的にいうと、ぼくは現在のように役員と社員を区別する企業形態の実効性を疑問視している。そして、このような疑問視は素朴な見方だと思っている。どうして役員と社員は、分けて扱われなければならないのか? 現代の企業形態の常識だというのなら、大きな間違いを含む危険性をもっと気にしたほうがいい。それは天動説が常識だといって地動説を排するのに似ている。
2007-12-04 10:36:09 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 会社のパソコン&会社の回線

twitterって、みんな会社のパソコン&会社の回線で更新してるの? どうしてるの?
そうだとしたら、仕事中に遊んでるみたいでなんとなくやりづらいんだけど。

仕事中に遊ぶこと自体はぼくもよくやってるんだけど、「これも仕事なんです(´?ω?`)」って
言い訳できるような遊び以外はやりにくいのですよね(小心者なので)。
あと、やるとしても情シスとかに「お前これこれこの時間サボってたやろ!」って難癖つけられるようなやり方ではやりたくないのです。

個人的には公私の区別なんて厳密に分けられないし、仕事に費す知識も感情もいつも個人の持ち出しと思っているので、自分自身は問題視しないんだけど。でも、防衛として自分の仕事の境界線にはセキュリティを高めることにしてる。

それで、みんなはどうしてるのかなと。

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あと、同じようなところではてなも会社で使いにくいんだよなー。
仕事にかんすることを、人力検索はてなで尋ねてみたいってたまに思うんだけど、
仕事で使うならプライベートなアカウントを使いたくない。アカウントを分けときたいのよね。
2007-12-04 08:10:50 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-12-03

# 自分と表現

Shiro
http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
 「プライド」を忌避したり隠したりするのではなく、春になったらコートを脱ぐように、気軽に脱ぎ捨てるコツを身につけることが肝心だ。
 
 それにはどうすればよいか。方法のひとつは、モノを作り、それを衆目に晒し、批評に耳を傾けることだ。あなたがあなた自身をどう思っているかにかかわらず、あなたの作品は現在のあなたを残酷なまでにはっきりと表現する。(一部略)
 
 そうやって「自分が思っている自分」と「表現し得る自分」とのギャップを何度も感じているうちに、奇妙な主客の転倒が起きる。
 
 自分が作品を作るのではない。何か大きなものが、自分に作品を作らせていることに気づくのだ。
 
 その大きなものに比べたら、「プライド」などはごく瑣末なものにすぎない。瑣末であっても使える時はある。例えばしばらく表現することをさぼっていると「プライド」の殻がくっついてくるが、それは生き方が守りに入っているシグナルとして使える。攻めるばかりの人生も疲れるので、守りに入ることは別に悪いことじゃない。ただそれをわかってやっているかどうかは大きな違いになり得る。 

綺麗な感覚だなぁ。自分もそのように信じるほうだけど、でもそのことをはっきりと活字にするには大きなエネルギーが必要で、しかも表現というものについてある程度確信が持てなければ書けないだろうと考える。とくにここに書かれているようなことは、科学的というよりは観念的で、事実というよりは信念に近い(そう感じる人もいるだろう)。だから活字にするのはためらわれる部分もあったのではないかと思う。でもとにかく、そういう面から見ても、たぶん表現というのはそういうものだろうなと思う。
2007-12-03 04:37:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 初心者にも玄人にも使いやすいもの

Shiro
http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
 デフォルトで機能を隠すと、そういう機能が在るということを認識する機会が無くなるのではないかと思います。誰しもがアプリケーションソフトの全機能を把握してから使うわけでなく、特に規模の大きいソフトだとなおさらでしょう。そういう風に考えると、設定しなおす手間はあっても有る機能は見せる方向をデフォルトにするのは妥当な選択かなという風にも思えます。

これには反意(同意の反対)だなぁ。だって、それを言うならGUIのソフトウェアはめちゃくちゃたくさんのボタンをゴテゴテ画面に貼り付けなきゃいけなくなる。規模の大きいソフトウェアではなおさらね。

重要な機能は目立つ場所に、重要でない機能はそうでない場所に置くというのが、素人にも玄人にも通ずる正着だと思う。「ある機能は見せる」は悪手なんじゃないかなぁ。むしろ見せない。「いかに見せるものを少なくするか」が重要な気がする。

だって、見えるものが少なければ少ないほど、初心者にとっても「何が重要なのか」が分かりやすいでしょ? そして必要になれば(見ようとすれば)見えるようになっていること。機能が整然と配置されそれらにアクセスしやすくなっていることが大事なんじゃないかと思う。

初心者のために玄人を我慢させるというのはあまり良くないと考える。本当に良いものは、素人のためにも玄人のためにも良い。たとえばSchemeは教育用にと開発されたプログラミング言語だけど、玄人にとっても十分使えるし使いたいと思わせるものがある。つまり筋が良い。そういうものが理想なんじゃないかなぁ。

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ところでFirefoxの「タブを閉じるボタン」ですけど。ぼくは間違って押すことはないなぁ。タブを閉じるボタンってフォーカスの当たっているタブにしか出ていなくて、フォーカスの当たっているタブを押す必要にせまられることがほとんどないから。

もしかしてこのへんは、Windows版とLinux版でFirefoxの挙動が違って、押す必要が出てくるのかもしれない。あと、やっぱり思うのだけど、Xはマウスの動きが渋いっすよ。なんつーか、手でマウスを動かすのに対して、マウスの動きの解像度が低すぎる気がする(レイテンシも低いっていうか不安定なのかな)。WindowsとかMacのほうがマウスの解像度が高くて快適な気がするんですよねぇ。前にもちょっと書いたけど。ぼくの中では、もうXのマウスは実用外に使いにくいように感じてしまってます。
2007-12-03 04:15:58 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-12-01

# Emacsの学習過程

ちょっと気がついたこと。
長年Emacsを使ってるけど、いまいち使いこなせてる感じがしない。
使いはじめたころも、いまも、ずっと「いまいち使いこなせない」と感じてるんだよなー。

逆にさー。ある種のソフトには、使いはじめのころから「とりあえず使えてる」という感じがあるような気がする。
知らないなら知らないなりに使えるし、知識が増えてくるとまた面白い発見があるような。
そういうソフトは大抵、「なんか使ってて楽しく感じる」というフィールがあるような気もする。
2007-12-01 16:21:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

どうして鼻の穴って2つあるんだろう。1つでいいんじゃない? と思った。
2007-12-01 00:51:55 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

2007-11-29

# メモ

近代というのは、機械などの工業技術が発達したことで生まれた。とする。とりあえず。

機械はマスプロダクトを生み出し、多くの人が「同じ」製品を使うようになった。それまでは、服も車も家屋も食べ物も、すべて一品ものだったのが、そうでなくなった。

「同じ釜の飯を食った仲」という表現があるけど、マスプロダクトというのは、要するに大きな釜の製造を可能にした。現代では、何千人も何万人もの人が、同じ釜の飯を食べている。

同じ釜の飯を食べる人たちの間には、共通のルールが必要だ。共通の文化と言ってもいい。共通のルールや文化を作るため、近代は人々の言葉を標準化する。

そして人々は、機械と同じように、交換可能な部品となっていく。交換可能な部品であることを求められる。

しかし人間は、自己が交換可能として扱われることに恐怖を覚える。なぜなら、人間にとって自分自身は交換不可能だからだ。人々は、自分が、自分だけが交換不可能であることを知っている。
2007-11-29 10:48:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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