メッセージ。 - diary

2007-08-29

# 静的型付けか動的型付けか

自分は、プログラミング言語の中ではSchemeが好きです。で、Schemeというのは動的型付けの言語なわけですけど。

でも、Schemeというのは、決して型をおろそかにするような言語ではありません。むしろぼくの場合は、Schemeでプログラムを組むようになってからのほうが、C言語でプログラムを組んでいたときより型を意識するようになりました。

型というのは、うまく使うことでプログラムを組む助けになるものです。プログラムというのは、同じような処理をまとめてブロックにしていくことが重要ですが、そのための助けとして型の役割は大きいからです。(どんな言語を使っていたとしても型の役割は大きいといえます)

Schemeは、関数型の言語ということもあって、関数(処理のまとまりのブロック)の、入力と出力がなんであるかが、非常に重要視します。「なんであるか」を表現する指標が、型なわけです。一方でC言語などは、同じように処理をまとめるブロックである「関数」という概念が、関数型言語よりもずっと自由です。

たとえばC言語の関数は、返り値としてintを返すと宣言している場合でも、必ずしもintを返さなければいけないわけではありません(大域ジャンプが可能なので、「その関数を終了しない」ということさえ許されています)。また、C言語ではポインタに値をセットすることで実質的になんらかのメッセージを、プログラムの別の個所などに伝えることが標準的に行われています。

しかし、メッセージを伝えるならば、そのメッセージが何を表現するものなのか、致命的なエラーが発生したときは何を伝えるべきなのか、そういったプロトコルのようなもの(つまり型)を、ブロック間で明確に定義したほうが良いです。そしてC言語には、そういったプロトコルのようなものを定義するよい方法がありません(マクロや構造体を使えばそれは可能ですが、すぐ使える状態ではなく、非常にプリミティブな部品だけがある状態です)。

動的型付けの言語であっても、(静的型付けの言語と同じぐらい)型を重視するプログラムはあります。逆に、C言語のように、いちいち型を明示しなければいけない言語でも、型変換を暗黙に行ってしまうような言語は、型というものを使いこなすのが困難になります(実際には、現代のC言語のコンパイラは暗黙の型変換をあまり行いませんが、出自としてのC言語は、つまりC言語は本質的には、そのあたりがかなり大らかです)。

だからどうとか、なにかが悪でなにかが善というわけではありませんが、なんとなく思ったことを書いてみました。いまどきC言語を引き合いにだすのはダメダメかもしれませんが、ぼくがC言語しか分からないダメダメ人間なのでご容赦ください。
2007-08-29 23:11:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-25

# 世代の違いとか

先日、飲み会の席で年嵩のいった人から「どうして結婚しないの?」って聞かれた。

それで、まぁ今どきを表現する言葉で最も適切だろうと思うものを返してみた。「我々の世代は、結婚にそれほど価値を感じないんですよ。結婚してもメリットがあまりないですよね?」。

そうしたらその人は、「メリットって」って言って、言葉を詰まらせていた。

それでぼくは、ちょっと不思議な気分になった。だって、「結婚してもメリットない」って、今どきはネットでもみんな言ってるし新聞にも載ってる。どうしていまごろ、そんなことで驚くのだろう。

プラモデルが最近売れないらしいという話のときに、その人はこんなことも言っていた。「俺らの若い世代は、プラモデルとかをよく作ったものだけど、どうして最近の人はプラモデルを作らないの?」って。

なんかもう、よく分からないなぁと思った。この人は、「自分が中華を食べたいから、目の前にいる人も中華を食べたいはず」とでも思うタイプなのだろうか。そうなのかもしれない。

目の前にいる人に結婚させたいのなら、あるいはプラモデルを作らせたいなら、それなりの方法ってものがあると思うけど。説得するというかメリットを見せるというか。なんか、そういうものをすっとばして「結婚すればいいのに」とか「どうしてプラモデルを作らないんだろう?」と言っているように聞こえた。

もしかしたら、この人(この世代の人)は、「俺とお前は違う」って感じを、ぼくらのようには持っていないのかもしれない。
2007-08-25 13:24:17 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2007-08-24

# どうでもいいけど、「明示的」という日本語はあるかという話

0結論から言えば、「ある」というのがふじさわの立場。

なぜ「ある」かといえば、誰か一人でも「明示的」という言葉が「ある」と思えば「在る」という考えだから。


たとえばぼくの高校のときの同級生に、こういうことを言うやつがいた。「俺はオタクじゃない。マニアだ」。

そのことについて興味深く思い、けっこう長い間考えていたのだけど、結局ふじさわが至った結論はこうだった。

「彼がオタクかマニアかは、分からない」。なぜかと言えば、オタクもマニアも、「正確には」定義されていないからだ。

あるいは、それが「正確に」定義されていたとしても、「彼」がオタクであるかマニアであるか、証明する手段を我々は持たない。あるいは、「彼」自体が実は未定義だ。

デカルトは、「我思う、故に我あり」と言った。でも「我」が「在るか」どうかを、彼自身は証明しえない。それから導き出される自然な結論は、我々自身も、「彼」が「在る」かどうかを、証明できないということだ。

自分が存在するかさえ分からないのに、他者が存在するかどうかなど、分かりようがない。世界中に人間や生き物の数だけ定規があって、誰もが「この長さが1cmだ」と主張しているようなものだ。


別の観点で考えてみる。言葉とはなんだろう? たとえば「新しい」という言葉は、「あたらしい」と読むのが正しのか、「あらたしい」と読むのが正しいのか。「オタクという言葉」は在るのか。「彼氏」という言葉が、現在使われている意味で、「日本語」として「在る」と言ってしまえるのだろうか?

それらを鑑みると、結局のところ「たくさんの人が使っているから」という以上の根拠が、日本語の存在の根拠としてはあり得ない。「あたらしい」も「彼氏」も、「オタク」も、最初の一人が言いだす前は、「なかった」のだろう。でも、最初の一人が言いはじめて、だんだん多くの人が使いはじめて、そしていつのまにか「存在」にいたった。

じゃあ、存在にいたったのは、「いつ」だろう? 10人がそれを口にしたときか? 1万人がそれを認めたときか? それとも5000万人だろうか?

ここでぼくは、地域という概念を導入しようと思う。そこに住んでいる人が、それを「ある」と思えばあるという考え方だ。たとえ5000万人しかそれが「ある」と思わなかったとしても、それがその地域で通じ、意味をなしているのなら、「ある」という考え方だ。

そしてさらに。「地域」というのは無限小より大きく無限大より小さい範囲を指すと提案する。たとえ5000万人しかいなくても、50万人しかいなくても、50000人しかいなくても、地域に存在する彼らが十分にそれを「ある」と納得できているなら、それはある。

つまり、その地域に、「それはある」と思う人が一人しかいなくてもそれは確かに「ある」。「我思う、故に我あり」について、はっきり言ってぼくはそれは間違っていると思う。でも、それが間違っているということを、ぼくは証明できない!
2007-08-24 10:44:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-23

# 親という字は

いいですか? 親という字は、「木の上に立って子供を見る人」と書くんです。

なんで木の上に立つかというと、子供が心配だから。心配で心配で仕方なくて、木の上に登って、子供が無事にやってるか見ようとせずにはいられない。それが親というものです。

でも当然ながら、木に登っても、子供のすべてを見届けることはできない。あらゆる行く手に着いていって、子供を守ることはできない。

親が子供にできることは、彼や彼女が自分たちで生きていけるよう、大事なものを手渡すことだけです。そしてそのあとは、祈るしかできない。木の上に登って、彼や彼女の行く末を祈る。それが、あなたがなすべきことです。

だからぼくは問います。あなたは、彼や彼女に、もう大事なものを手渡せましたか? 彼や彼女のことを、毎日祈っていますか? 彼や彼女を悪から遮断することは、大事なことではないと思います。彼や彼女が、自ら悪と戦える力を手渡せなければ、あなたのやっていることには意味がない。

それは何も、難しいことではありません。親の背中を見て、子供はちゃんと育つのだから。「背中で何かを語れるような立派な人間じゃない」、あなたはそう言うかもしれません。でも、立派じゃなくていいんです。立派じゃなくても、あなたはあなただ。それでいい。それで十分、子供には救いになる。そういうものです。

だからね。単に彼らを、悪から遮断しなさんな。単に悪を憎みなさるな。あなたがなぜそれを遮断するのか、それを憎むのか、子供が理解しなければ、役には立たないのだから。彼らをさして「あれをするな」と言うのではなく、こういってはどうでしょう? 「あれをしないでくれるとうれしい」と。それこそが祈りであり、この世の救いだと、ぼくは思います。
2007-08-23 00:47:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-22

# 日記

Inemuri nezumi diary(2007-08-03)
http://madscientist.jp/~ikegami/diary/20070803.html#p01

 僕らがやりたいこと:
 
    1. 楽しんでプログラムを書く
    2. 皆が欲しいプログラムを書く
    3. 皆で議論してプログラムを良くすればいい
    4. デルゴル君(注:「データ構造とアルゴリズム」の略語) の勉強をするのはキリがない、そんなこと勉強するより unknown tips を実地で知ることのほうが重要なのでは? 
 
 結語: LLでオープンソースが正解。 テストや「長く勉強しないと身に付かない複雑な某プログラミング言語」、デルゴル君を学習する必要は、必ずしも、ない。だって、苦痛だし、犠牲に見合う保証はないし、だいいち、今すぐに作りたい物を作りだすことができないではありませんか。

いけがみさんって、いいなぁ。

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はてブついでに覚書。 - 精神強者
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070807/1186420893

 なんか。普通でいいのにね。
 
 普通に、適当にダメで、適当に優しい感じでいいのにね。
 
 世界は一つじゃないんだからさ。
 
 価値観も一つじゃないし。
 
 他人なんか否定しなくっても全然生きてけるんだけどな。
 
 風が吹いたらさ、揺れればいいじゃんね。
 
 揺れないのは不自然だし、すぐ折れちゃっても変じゃない??
 
 自然にしようよ。

好き。
2007-08-22 10:16:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# そういえば

会社に関西弁をしゃべる女の人がいるんだけど、なんかやっぱり憧れちゃうよなぁ……と、今日唐突に思った。

関西弁をしゃべる女の人の、なんというか距離感が好き。真面目すぎないというか、押したり引いたりというか。

最近、オセロ松嶋が鶴瓶と出てる深夜番組をちょっと目にするけど、すごく自然体なんだよねー。

彼女はかなり天然なんだけど、「天然でええねん。人間なんてそんなもんやし」という感じが、非常によく伝わってくる。

鶴瓶も彼女をそう扱ってる。その空気感というのを、どちらも心地良く感じているのが分かる。またこちらも、それを心地良く感じて、すごく楽。

通じあっているというのかな。楽しく楽に通じあっている。

でも結局のところ、ぼくの知り合いには、関西弁をしゃべる女の人が一人もいなかったような気がする。そしてこのまま、そういう知り合いもできずに終わりそうだ。
2007-08-22 07:47:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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