メッセージ。 - diary
2007-05-17
# メモ
缶コーヒーRootsの広告が面白いなぁ。
いくつかバージョンがあるのだけど、新橋駅の東海道線を降りた階段のところにあるやつには、「出社するだけですでに労働」といったコピーが、白地に青のゴシックで縦書きされている。それはまぁ既知のことであるし、誰でも考え付くようなコピーとは言える。でもまぁ、なんというか、ある意味つらいその感覚を、あえてそこに明文化して置く茶目っけが楽しい。このポスターは3〜4日前に貼られたもので、もっと短期間に剥がされると思っていたのだけど、それが何日もその場所に居座っているのもまた楽しい。
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「コピー」と打ったつもりが、打ち間違えたようで画面を見ると「キオポー」になっていた。びっくりした。
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「缶コーヒーRoots」と書いたものの、缶以外でも販売されていたらどうしよう。ガクガクブルブル。
いくつかバージョンがあるのだけど、新橋駅の東海道線を降りた階段のところにあるやつには、「出社するだけですでに労働」といったコピーが、白地に青のゴシックで縦書きされている。それはまぁ既知のことであるし、誰でも考え付くようなコピーとは言える。でもまぁ、なんというか、ある意味つらいその感覚を、あえてそこに明文化して置く茶目っけが楽しい。このポスターは3〜4日前に貼られたもので、もっと短期間に剥がされると思っていたのだけど、それが何日もその場所に居座っているのもまた楽しい。
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「コピー」と打ったつもりが、打ち間違えたようで画面を見ると「キオポー」になっていた。びっくりした。
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「缶コーヒーRoots」と書いたものの、缶以外でも販売されていたらどうしよう。ガクガクブルブル。
2007-05-14
# 古本の流通は悪か
古本の流通問題について、ちょっと感じたことをメモ。
古本の販売が悪か善かという話を読んでいて、大根の流通の話に似ているなぁと思った。
たとえば、「新品の隣りに古本を置くのはどうなのか?」という指摘。たしかに新品の隣に中古品を陳列されたら、消費者としては混乱する。「この商品は新品か中古品か?」といちいち確認しなければいけないし、もしそれが中古品なら、「この商品は、どれくらいの価格で売買されるのが妥当か?」と目利きをしなければいけない。
それは確かに消費者にとって不便だし、俯瞰して見れば流通を阻害する。だからそれを「悪だ」と言ってしまいたくなる心象は理解できるし、ぼくは(少なくとも一面において)この心象を支持する。近代においては、本も大根も、トマトも洋服も、品質が保証されている状態でこそ商品として成立するのだ。
たとえば近代において、形の悪い大根は市場に流通しない(流通していることが誤差範囲だと無視できるほど規模的に小さい)。これはつまり、取りも直せば形の整った大根だけが(商品としての)「大根」として認定されるということだ。形の悪い大根を、消費者も生産者も流通者も、「大根」とは認めない。
大根が、マスプロダクトとして扱われているのだ。現代において、大根はマスプロダクトだからこそ、この低コストで生産でき、また流通できている。現代的な市場において、オートクチュール(注文により造られる一点物の服)は、存在しないのも同義だ。市場が存在するのは、プレタポルテ(高級既製服)からで、注文生産などは規模から言って豆つぶぐらいの大きさしかない。
つまり、近代というのは「マスプロダクト至上」をテーゼに掲げていて、マスプロダクトの範疇からはみ出すような商品(一点物や傷物、中古品、ブランド化できないもの)が市場において影響力を持つことが望まれない。「価格や品質や機能は線形に計測できる」という世界観こそが近代的市場にマッチするのであり、昨日500円だった本が、今日も500円であることが正義なのだと言える。
要は、生産者や流通業者によるマスプロダクティング(大量生産とブランディングによる販路確立)が、現行の法律や倫理において言語化されていないことが齟齬を引き起こしており、またメディア機能の拡大によって、マスプロダクティングが転換点を迎えていることのあらわれのように思われる。
古本の販売が悪か善かという話を読んでいて、大根の流通の話に似ているなぁと思った。
たとえば、「新品の隣りに古本を置くのはどうなのか?」という指摘。たしかに新品の隣に中古品を陳列されたら、消費者としては混乱する。「この商品は新品か中古品か?」といちいち確認しなければいけないし、もしそれが中古品なら、「この商品は、どれくらいの価格で売買されるのが妥当か?」と目利きをしなければいけない。
それは確かに消費者にとって不便だし、俯瞰して見れば流通を阻害する。だからそれを「悪だ」と言ってしまいたくなる心象は理解できるし、ぼくは(少なくとも一面において)この心象を支持する。近代においては、本も大根も、トマトも洋服も、品質が保証されている状態でこそ商品として成立するのだ。
たとえば近代において、形の悪い大根は市場に流通しない(流通していることが誤差範囲だと無視できるほど規模的に小さい)。これはつまり、取りも直せば形の整った大根だけが(商品としての)「大根」として認定されるということだ。形の悪い大根を、消費者も生産者も流通者も、「大根」とは認めない。
大根が、マスプロダクトとして扱われているのだ。現代において、大根はマスプロダクトだからこそ、この低コストで生産でき、また流通できている。現代的な市場において、オートクチュール(注文により造られる一点物の服)は、存在しないのも同義だ。市場が存在するのは、プレタポルテ(高級既製服)からで、注文生産などは規模から言って豆つぶぐらいの大きさしかない。
つまり、近代というのは「マスプロダクト至上」をテーゼに掲げていて、マスプロダクトの範疇からはみ出すような商品(一点物や傷物、中古品、ブランド化できないもの)が市場において影響力を持つことが望まれない。「価格や品質や機能は線形に計測できる」という世界観こそが近代的市場にマッチするのであり、昨日500円だった本が、今日も500円であることが正義なのだと言える。
要は、生産者や流通業者によるマスプロダクティング(大量生産とブランディングによる販路確立)が、現行の法律や倫理において言語化されていないことが齟齬を引き起こしており、またメディア機能の拡大によって、マスプロダクティングが転換点を迎えていることのあらわれのように思われる。
2007-05-12
# 発行部数が増えるというのはどういうことなのか
そもそもという話で、雑誌の発行部数は、増えたほうがいいのか?
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。