メッセージ。 - diary
2007-04-17
# 日々
そういえばこないだ、横浜駅のルミネの上の居酒屋で飲んでいたら、白髪のおじいさんが1人、カウンターで飲んでいるのが気になった。横浜の、ルミネの上の店といえば、若者のための場所だ。カップルが向かいに座り、ようやっと髭が似合うようになってきたようなのが店長をやっている。
その店は黒豚を扱う新しい居酒屋で、まぁちょっとうまいものを食わせる店という趣だ。黒豚といえば鹿児島。九州料理を出す店などは、あまりこのへんでは見かけない。遠くから出てきた古い人が、なつかしさあまって飛び込んだのかなぁと考えたり。
1人カウンターにたたずむご老人は、物言わず、誰に話しかけるでもなく、猪口をいったりきたりさせている。若い純朴そうな店員が、おじいさんに声をかけると、おじいさんはうれしそうに新しい食べ物を注文した。上品に刈られた白髪が、まるで森に差し込む木漏れ日のように、ゆらゆら揺れていた。
その店は黒豚を扱う新しい居酒屋で、まぁちょっとうまいものを食わせる店という趣だ。黒豚といえば鹿児島。九州料理を出す店などは、あまりこのへんでは見かけない。遠くから出てきた古い人が、なつかしさあまって飛び込んだのかなぁと考えたり。
1人カウンターにたたずむご老人は、物言わず、誰に話しかけるでもなく、猪口をいったりきたりさせている。若い純朴そうな店員が、おじいさんに声をかけると、おじいさんはうれしそうに新しい食べ物を注文した。上品に刈られた白髪が、まるで森に差し込む木漏れ日のように、ゆらゆら揺れていた。
# 本当のこと
たとえばお肉屋さんで牛肉を買ってくる、魚屋さんで魚を買ってくる。こういうのは、間接的に牛や魚を殺しているということですよね。それはやっぱり、嫌なことのようにぼくは思います。「お前が自分で殺してみろ」と刃物を渡されたら、すごく悩み苦しむと思う。でも本質的には、ぼくは手を汚していないだけで、やっているわけです。嫌なことを見ずに、悩み苦しむことなく、牛や魚を殺している。毎日まいにち、誰かの生死を左右している。というか誰かを殺している。
ぼくはどちらかと言えば、このことに悩み苦しむのが義務だと思う。いや、義務というか、悩み苦しまなくてどうするの?というか。牛や魚や、植物や、いろんなものを自分が毎日殺している。それは、そのうち自分にも順番が回ってくるということだ。ぼくは、もらったものを、きっちり彼らに返さなければならない。自分に順番が回ってきたその日を受け容れるために、彼らのその日を受け容れなければいけない。彼らのその日を受け容れられなければ、ぼくは自分のその日を受け容れられないだろう。
その意味で、彼らの存在は、ぼくにとって救いだ。本当に、彼らがいなければ、ぼくは救われることがない。ぼくは彼らに感謝しているし、彼らを尊敬している。
ぼくはどちらかと言えば、このことに悩み苦しむのが義務だと思う。いや、義務というか、悩み苦しまなくてどうするの?というか。牛や魚や、植物や、いろんなものを自分が毎日殺している。それは、そのうち自分にも順番が回ってくるということだ。ぼくは、もらったものを、きっちり彼らに返さなければならない。自分に順番が回ってきたその日を受け容れるために、彼らのその日を受け容れなければいけない。彼らのその日を受け容れられなければ、ぼくは自分のその日を受け容れられないだろう。
その意味で、彼らの存在は、ぼくにとって救いだ。本当に、彼らがいなければ、ぼくは救われることがない。ぼくは彼らに感謝しているし、彼らを尊敬している。
2007-04-11
# 釣りについて思うこと
前から一度書いておこうと思っていたのだけど、ぼくはネット上における「釣り」をなんとも思ってないっす。釣られても、悔やしいとは思わないし、悲しいとも思わないし、うれしいとも思わないし、本当になんとも思わないです。というか、そもそも「釣りってなんだっけ?」という感じ。
というのも、「釣り」というのが、新しいネットの言葉だっていうのが理由の1つ。そういう新しいネットの言葉って、好きじゃないのよ。言葉が腑に落ちない感じがするし、ネットのことをよく知らない人には通じないでしょう? 普遍性が(現時点ではそんなに)ないと思う。で、そういう性質を持った言葉で、何かを深く考えたり、感じたり、伝えたりしたくないの。
あいまいな言葉では悲しめないというか、憎めないというか。自分の感情を安売りしたくないというか。それは、「おまえのかーちゃんデーベーソー」って言われたときのようなもんだと思ってる。そんなこと言われると、悲しいような気はするけど、でも「デベソじゃないもん!」って泣いてしまうのは、あまりにも……、心が無防備すぎるし、まるで雛鳥の羽毛のようだ。
羽毛のような心は可愛らしくて好きだよ。だから、どちらかと言えばそれを守りたいと思う。でも、そのためにも、自分の心が羽毛であっては弱すぎるだろうし、そもそもぼくの心は、羽毛の時期を過ぎてしまった。だからぼくは、そういう言葉では悲しまないし、傷付かない。
ええと、ついでに。ぼくがたまにエントリを取り下げたりするのは、なにかを壊してしまうのを避けたいという理由が多い気がする。言葉というものは、どんなものであっても、なにかしら衝撃を与えるものだと思ってる。で、あまり大きな衝撃を与えると、なにかを壊してしまう場合があると考えてるの。だからね。ある程度言葉を慎重に扱いたい。いい加減な気持ちで衝撃を与えて、なにかを壊したら後悔するから。エントリを取り下げるのは、だいたい不用意だったとか、当初書きたかったことが書けなかったって思ったときが多いかな。
というのも、「釣り」というのが、新しいネットの言葉だっていうのが理由の1つ。そういう新しいネットの言葉って、好きじゃないのよ。言葉が腑に落ちない感じがするし、ネットのことをよく知らない人には通じないでしょう? 普遍性が(現時点ではそんなに)ないと思う。で、そういう性質を持った言葉で、何かを深く考えたり、感じたり、伝えたりしたくないの。
あいまいな言葉では悲しめないというか、憎めないというか。自分の感情を安売りしたくないというか。それは、「おまえのかーちゃんデーベーソー」って言われたときのようなもんだと思ってる。そんなこと言われると、悲しいような気はするけど、でも「デベソじゃないもん!」って泣いてしまうのは、あまりにも……、心が無防備すぎるし、まるで雛鳥の羽毛のようだ。
羽毛のような心は可愛らしくて好きだよ。だから、どちらかと言えばそれを守りたいと思う。でも、そのためにも、自分の心が羽毛であっては弱すぎるだろうし、そもそもぼくの心は、羽毛の時期を過ぎてしまった。だからぼくは、そういう言葉では悲しまないし、傷付かない。
ええと、ついでに。ぼくがたまにエントリを取り下げたりするのは、なにかを壊してしまうのを避けたいという理由が多い気がする。言葉というものは、どんなものであっても、なにかしら衝撃を与えるものだと思ってる。で、あまり大きな衝撃を与えると、なにかを壊してしまう場合があると考えてるの。だからね。ある程度言葉を慎重に扱いたい。いい加減な気持ちで衝撃を与えて、なにかを壊したら後悔するから。エントリを取り下げるのは、だいたい不用意だったとか、当初書きたかったことが書けなかったって思ったときが多いかな。